まだまだ暑さに衰えを感じさせない、真夏の暑い日だった。慶次は、まるで馴染みの店の暖簾をくぐるかのように上田城の門をまたいだ。門番とも既に顔馴染み、軽く手をあげて挨拶をすれば、咎められることはなかった。だが同時に、慶次は自分が歓迎されていないことを感じ取っていた。この城において、前田慶次という存在は明らかに異質であるからだ。
いつものように通りを抜け、屋敷の脇を通り、いつもの場所へと顔を出せば、忍びが掃き掃除をしていた。そもそも忍びの仕事ではないが、この屋敷は武田の秘蔵っ子の居城でありながら人手が少なく、手が空いている者へ雑用が回ってくる。主である幸村が掃除をしていることも決して珍しくはない。多くの人間に囲まれる生活が苦手らしい幸村は、最低限の人間しか雇っていない。これが一介の大名であったのなら、嘆かわしいとも倹約家で何よりとでも感想があったろうが、慶次はふぅんと鼻を鳴らす程度の感情しか抱くことはなかった。大名とは、武士とは、といった括りに無関心なのだ。
既に知らせが届いていただろうに、忍びは慶次の姿を見るなり苦笑した。おそらくは、慶次を追い返す為の芝居であって、忍び本心ではないのだろう。
「よっ、幸村は居るかい?」
「…本当、懲りないよね、あんたも」
いつまで経っても態度を軟化させる様子すらない幸村に、そろそろ諦めてもいい頃だろうに、と佐助は肩をすくめる。慶次は彼の忠告を聞こえていない振りをして、
「で、居るの?居ないの?」
と、我を通す。幸村の世界に単身乗り込む以上、これぐらいのふてぶてしさは必要なのだ。慶次は他人の居城だというのに遠慮を一度もしたことがなかった。それが幸村を不快にさせている原因の一つであることに慶次は気付いているのだろうか。
「居るけど、ちょっと待って。さっき鍛錬を終えたばっかだから、行水中なんだよね」
「おっ、それなら余計に急がないと」
ふざけた調子で言葉を繰れば、佐助はようやく掃除の手を止めて慶次を胡乱げな目で一瞥した。慶次には多分に同情的な忍びだが、男が男に惚れること自体にはまだまだ理解が及ばぬようだ。何も男色が珍しいわけではないのだが、おおよそそれは、まだ幼い、男になり切らぬ齢の少年を愛玩するものであって、そう歳の離れていない男に向けるものではない。確かに初陣をとうに済ました男児としては幸村は童顔だし、身体つきも慶次には及ばない。だが佐助は、あの身体にもしっかりと男特有の硬い筋肉が備わっていることを知っている。だからこそ、慶次が向けるその情念が未だに理解できないのだ。
「馬鹿なこと言ってないで、ここで待っててよ。いい?ここから動かないこと。ほら、これ持って。暇ならこの辺り掃いといてね」
佐助は押し付けるように慶次に箒を渡すなり、屋敷の奥へと駆けて行った。慶次はその後ろ姿を見送りながら、帰ろうかなあ、と呟く。幸村の態度は強固で、慶次を警戒している。ただ、そういう対象に見られているかと言えば、微妙な線だろう。幸村にとって慶次は、次に何を仕出かすか分からない未知の存在であるからだ。とりあえずは佐助が戻るのを待とうと、渡された箒を気まぐれに動かすのだった。
程なくして、佐助が戻ってきた。表情は硬い。この忍びは主よりも余程表情豊かに出来ているが、その感情を読み取るのは少々困難だった。感情を動かす基準が慶次とは全く異なるせいだ。今も、慶次が無言で差し出した箒を納得がいかぬ表情で受け取って、慶次にもはっきりと聞こえるように溜め息を吐き出した。彼のその仕草は、決して珍しいものではない。
「通していいって。どうぞ」
憮然とした表情のまま、佐助が道を譲る。慶次は佐助の表情の意味が分からず首を傾げるものの、先に幸村が待っているのだと思うとそちらに足が向いた。恋に呆けた男の前には、些細な不可思議も気にならぬものになってしまうのだ。
いつもの角を曲がり幸村が居るであろう縁側に顔を出せば、丁度行水を終えたばかりのようで、上半身を露出して手ぬぐいで身体の水滴を拭っていた。夏だろうがきっちりと着込む幸村の肌は、ほとんど日焼けをしていない。ここのところ大きな戦もなく、執務と鍛錬を繰り返していたのだろう。まさかの幸村の姿に慶次がその場で立ちすくんでいると、珍しいことに幸村の方から慶次の名を呼びつけた。
「前田殿、何を呆けておる?」
慶次よりも細い身体ではあるものの、貧弱なのではない。引き締まった腹筋や腕筋、張りのある肌。だがそれに比べて、首筋はすっと伸びていて頼りないほど細かった。触れたい、と思ったのは、慶次が抱える感情からすれば、至極正当なものであるはずだ。
幸村は慶次の様子に首を傾げながらも身体を拭い、袖に腕を通した。肋骨の跡や腹の窪み、腕の筋肉の張りはそれで隠されてしまったが、首の細さとしなやかさだけは着物の間からのぞいている。これは目の毒だ、と慶次は内心の劣情をどうにか茶化してしまおうと顔をだらしなく綻ばせた。
「俺を試してるの?それとも、いよいよ俺の想いが通じるようになった?」
急いで幸村に駆け寄るものの、あまりに近付きすぎたせいで幸村から鋭い眼光で睨みつけられてしまった。これではいつもと大差がない。てっきり少しは心を許してくれたものだと思い込んだ慶次にしてみれば、手ひどい反応だった。
「…前田殿の申されることは、いつもながら意味がよく分からん」
「分からないんなら、夜通し語り合おうよ。俺は全然構わないからさ」
「…某の言葉が足りなんだ。某は前田殿の言葉を理解したいとは思ってはおらぬ故、謹んで辞退させていただく」
「連れないねぇ幸村は。さっきまではあんなに積極的だったのに」
何の話だ?と幸村が眉を寄せる。もう、とぼけちゃって!と慶次は笑い声を上げたが、幸村は分からぬようだった。
「今までは着替えてるところなんか、見せてくれなかったのに」
「見せるものでもないし、そもそもそれは無礼に当たろう。今は再び誰かに使いをさせるのが面倒で呼んだまでなのだが」
平時の幸村は時々こういうことがある。物臭と言おうか、面倒くさがりと言おうか。戦場では良くも悪くも動きっぱなしなくせに、些細なことを億劫に思うことがある。どれだけ通おうとも、慶次が未だに法則性を見出せない程度に、幸村は複雑な男だった。そこがまた面白いのだと慶次は思っているが、彼の面倒を四六時中見ている佐助としては厄介、と言う他ないだろう。
当の幸村はと言えば既に会話に見切りをつけたのか、慶次に背を向けて縁側へと向かっていた。低い位置で結っている彼の髪が動きに合わせて揺れている。そこから、ちらりちらりと首筋がのぞく。生殺しだなあ、と慶次は内心呟きながら、彼の後にそろそろと続いたのだった。
「某が思うに、前田殿は男と懇ろになったことがない」
佐助が置いていった茶を啜っている時だった。慶次は思わず噴き出しそうになるのを何とか耐えたが、そのせいで咽てしまった。幸村は慶次の様子など気にする風もなく、淡々と団子を口に運んでいる。聞き捨てならない台詞だが、彼の語彙にはないと思っていた単語が飛び出して、慶次は反応に困った。余計なお世話、と誤魔化す振りをして怒るでもなく、あんたからそういう言葉が飛び出すなんてちょっとどきどきする、と茶化すでもなく、慶次に浮かんだのは困惑だった。
やはり幸村は、慶次の些細な変化など見向きもせず、更に言葉を綴った。
「なればこそ、そなたに某を抱く程の度胸はない」
「ちょ、ちょっと待って!話が飛躍しすぎ、っていうか、幸村!そんな言葉どこで…!」
「某とて、何も知らぬわけではない。某は、そなたの幻想の中の生き物ではないのだ。前田殿は、某に好きだなんだ、恋だ云々と申すが、行き着くところはそういうことだろう」
幸村は慶次に倣って『恋』と言葉を紡いだが、彼の口から飛び出したその音は、異国の言葉のように聞こえた。幸村の中の認識にない単語だから、彼の紡いだ言葉には心がこもらない。言葉が意味を成していない。慶次はそれを悲しいと思う。好きだあんたに惚れちゃったよ、ただあんたが恋しいからここに来るんだよ。そう言っても、幸村には通じない。好いた惚れたが理解できないのならまだいい。その先が重要なのだ、と慶次は思うのだが、幸村にはその先がなかった。理解できない、ならば努力をしよう、とするのが人の性のはずが、幸村はそこで終わってしまう。理解する必要などなし、とすっぱりと自分から遮断してしまう。想いが通じなくて悲しい、というのももちろんあるだろうが、自分の想い人が恋の素晴らしさを全く必要としない寂しいひとだということが、慶次は悲しいのだ。
冷めかけの湯のみを置いて、慶次はぎゅうと拳を握り締めた。どうやったら通じるだろう、どういう言葉をかければ彼は理解してくれるだろう。けれども、それこそ、互いが譲歩し合ってこそ通じ合うものであり、幸村にその気は全くなかった。彼は、そういう意味でも慶次に冷たい。
「そなたは、某が抱けるか?男の矜持とは、女のそれと違う。そも、受け入れるべく育つ女子とは違い、男はある種、獰悪な獣と同じだ。高い矜持、強い支配欲。前田殿、そなたは、その誇りを奪い去りへし折ろうとしておるのだ。そなたに、その度胸と覚悟があるのか」
幸村の声は淡々としていた。慶次は更にぎゅうと拳に力を込める。幸村が交合におけるイメージは、所詮その程度なのだろう。幸村のイメージは至極単純で、故に覆すことが難しい。慶次にとっては過程に過ぎないものが、幸村にとっての結論であって、その先にはどうあっても進まない。そこで止まってしまう。
「…そんな、難しいもんじゃない。あんたの誇りをへし折るとか、奪うとか、そういうつもりは、俺は端からないよ」
幸村は、そこで大きく肩を揺らして溜め息をついた。忍びと同じような仕草だったが、彼が浮かべるのは慶次への同情だ。だが、幸村は別段慶次に見せ付ける為のものではなかった。思わず漏れてしまった本音だろう。厄介で面倒で、何と諦めの悪い御仁。そうして幸村自身の諦観が現れた仕草だった。慶次は腹にうずくまるむかむかとした熱を感じた。どうして分からないのだろう、どうして、どうして。慶次は気が長い方だし、そもそも苛つくことも少ない。怒りが長続きしない性質でもあり、何でも良い方に捉えてしまう楽観的な思考の持ち主だった。だが、それでいても、幸村の頑なさは目に余るものがある。いつだって会話は平行線で、いつだって彼は自分に無関心だ。
「俺は、あんたが好きで、あんたはそれを受け入れてくれるか、否か。それだけの話だよ。俺が、」
慶次は一旦口を噤む。中途半端に続いた言葉に、幸村は思わず慶次へと視線を向けた。慶次にしては珍しい真剣な目で、真っ直ぐに幸村を見据えている。が、幸村はやはり気にした様子もなく、置かれている湯のみへと手を伸ばそうとした、その時だった。視界から慶次を外した瞬間、肩にあたたかな熱を感じたが、振り払う間もなく強い衝撃が加わった。慶次が強引に幸村の身体を押したのだ。流石に抗えず廊下の板の上に倒れ込む。慶次の腕が緩衝材となり直接背を打つことはなかったが、それでも勢いよく背中を打ちつけたことによって一瞬息が詰まった。その隙を見逃す慶次ではない。すかさず幸村の腰に乗り上げて、両腕で幸村の肩を廊下に縫い付ける。唐突の慶次の暴挙に驚いて無表情のまま見上げる幸村の顔を、慶次は見下ろした。
「―――こういうことして、幸村、あんたはどう動く?」
慶次の大きな身体が、幸村に影を落としている。近くに居るのに、幸村の細かな表情までは読み取れない。それでも、彼の眉間に深い皺が刻まれたのを、慶次は何とか見て取ることが出来た。やっぱり、幸村の真意が見えない。
「そなたは甘いな。そして、手ぬるい」
存外に優しい声で囁かれて、無意識に強張っていた表情が思わず緩んでしまった。全くの不意打ちだ。こういうことが受け入れられるとは、元から思ってはいない。ただ、幸村がどのような形で抵抗するのか、慶次は興味があったのだ。だからこそ、幸村の次の手に、慶次は動きどころか思考までもが止まってしまった。
幸村の腕が、囲いをすり抜けて、慶次に向かって伸ばされる。白い指だった。だが整っているのは爪の形ばかりで、マメがつぶれて痕になってしまった指は太さ自体がまちまちだ。それでも、慶次は綺麗だなあ、とぼんやりと頭の中で呟いた。惚れた人の全てが美しく、愛おしく感じるのが恋の病だ。慶次はその指の動きをじっと眺めている。が、自分に近付くにつれ見えなくなってしまった。彼の指は慶次に伸びてきて、ついには慶次の顔に触れた。親指の腹が頬をさすっている。
「ほら見ろ。度胸が足りない、覚悟が足りない。そなたでは、某を飼い慣らせぬ」
先の手つきの穏やかさはどこへ行ってしまったのか、硬質な幸村の声が慶次を一喝した。手の平を返したような幸村の態度に面食らっていると、先のお返しとばかりに腹部に鋭い痛みが走った。勢いを受け止めきれず、幸村の上から素早く飛びのく。腕を拘束してはいたものの、足については全くのお留守であった。無抵抗だったから、気を抜いていたのだろう。慶次は腹部を押さえながら幸村を見る。幸村も既に身体を起こしていて、飲めずにいた湯飲みを手に、一口啜っているところだった。
「…幸村、」
「隙だらけでござる前田殿。逃げようと思えば、こんなにも容易い」
残念でござったな、と幸村が息を吐く。慶次はその場に立ち尽くして、幸村の言葉を聞いていた。
「幸村、そうじゃない、そうじゃないんだ。俺の言う恋ってのはさ、もっとあたたかくて、柔らかくて、優しくて。だから奪いたくないし、強引になるもんでもない。あんたのその強い魂を手折りたいわけじゃないんだ」
もう一度、縋るように「幸村、」と名を呼んではみたものの、幸村は「…脆弱な」と吐き捨てて下がってしまった。慶次は彼を呼び止めることもできず、ただその後ろ姿を見つめるのだった。
色気がない!(…)
10/08/15