幸村は心の中で悪態をついた。何故だか、ひどく苛立っていた。だがそれは、急に降り出した雨に対してなのか、通り雨のくせに中々やむ気配のない空になのか、梅雨という時期にも関わらず傘を持たずに外出してしまった己に対してなのか、雨をしのいでいる先で前田慶次と肩を並べているからなのか、幸村自身分からなかった。ただ、ひどく苛々している。腕を組んで雨を振る様をじっと睨みつけていた幸村だったが、変わらぬ景色に辟易して、目を閉じて背中の壁にもたれかかった。誰も住んでいないあばら家の、穴がところどころに空いた軒下だが、雨をしのぐには問題はない。
「にしても、奇遇だなあ、運命だなあ」
雨のせいで足止めをされているというのに、慶次はやけに機嫌が良い。幸村はゆっくりと目を開けて慶次をちらりと眺めたものの、すぐに正面へと顔を戻した。雨脚は弱まることはなく、むしろ屋根を叩く音は激しくなっているように感じられた。
「ただの偶然でござろう」
「それでも、こうして一緒に居られるっていうの、俺は幸せだなあ」
「お手軽な幸せでござるな」
にこにこと笑みを浮かべる慶次をよそに、幸村の表情は険しい。気晴らしに散歩に出たのはいいものの、実は仕事が溜まっているのだ。出来れば一刻も早く城に戻りたいところなのだが、五歩でも進めば全身が濡れ鼠になりそうなほど雨が激しい。濡れてまで帰って仕事を始末すべきか、徹夜を覚悟でここで雨が弱まるのを待つか。幸村は逡巡して溜め息をついた。そういった選択をすることが、そもそも幸村は苦手なのだ。戦に関わることであったのなら、何故だか最良の道を無意識に選び取ることが出来るのだが、こういった政に関してはとんと勘が働かない。
再び慶次をちらりと一瞥すれば、鼻唄を歌い出しそうな程浮かれていた。幸村の視線に気付いたのか、顔ごと幸村の方へ向けてまたにんまりとした笑顔を作る。幸村が、慶次のことを不可解、と思うのはこういう時だ。言葉にはしていないものの拒絶を態度で示しているのに、慶次は一向に怯まない。どころか、こちらの事情などお構いなしにずかずかと上がり込んでは、自分の主張を声高に叫んでいく。幸村がどんなに無関心でも、それは変わらない。この男は、一体自分の何がそんなにも気に入ったのか。聞いてみたい気もするが、返答が要領を得ないような気もするので、幸村はいつも口を噤んでいる。決して、前田慶次という男を認めていないわけではないのだ。ただ、そういう感情抜きで接してくれたのなら、と思う。色恋沙汰を全面に押し出してくるせいで、幸村はただただ拒絶するしかないのだ。
幸村は身を少しだけ乗り出して、空の様子を覗く。相変わらずの曇天で、青空は見えない。どうするべきか、と悩み、慶次の笑顔と鈍色の空が交互に脳裏に並ぶ。やはり、帰ろう。そう決めた幸村の行動は早かった。躊躇うことなくぬかるみの中に足を踏み出した。けれども、幸村が雨に濡れる前に慶次の腕が幸村を引き止めた。強い力ではなかったが、握り締められている手首に広がる熱が、存在を気付かなかったことに出来ぬ程度に存在感を放っていた。幸村は無言で慶次を振り返る。慶次はやはり笑みを崩すことなく、
「どこ行くの?濡れるよ」
と、僅かに幸村の腕を引いた。
「離してくだされ」
「どこ行くのか教えてくれたら離すよ」
「…帰る。城に戻るでござる」
「でも、雨が降ってる」
「家の者が湯を沸かしている。某は元々、あまり雨宿りをする方ではない。特に今は風邪を引くような季節でもなし、問題はない」
「でも万が一ってことがあるし」
「くどい。問題はないと某が言っておる」
さあ、離してくだされ、と幸村が睨みつける。慶次は困ったなあと言いたげに、頬を人差し指で掻く。こうなれば実力行使、と幸村がぶんぶんと腕を振ってはみたものの、中々力は弱まらない。あちらはあちらで意地になっているのかもしれない。だが、それでは困るのだ。こうしている間にも時間は無情にも過ぎ、仕事が溜まっていくのだから。幸村は語気を強めて、慶次の名を呼んだ。けれども慶次は幸村の剣幕など素知らぬ顔で、しゃあしゃあと言葉を操る。
「もう少し一緒にいようよ。そっちの方が、俺は嬉しい」
「前田殿は、某などと一緒に居て、何が楽しいのか」
「だって、好きな子と二人きりだ。しかも雨が音を遮っているからかな、まるで世界に俺たちしかいないような気にならない?」
だからもう少し、一緒にいようよ。
慶次はよく、幸村には理解できない言葉を紡ぐ。何が楽しいのか、と訊ねたはずなのに、返答はまるっきりの見当違いもいいところだ。慶次との会話で噛み合わないことは珍しいことではないものの、幸村は重く溜め息を吐いた。幸村とて、当初は慶次の言葉を理解せねば、という思いがあったのだ。だが、言葉を重ねれば重ねるだけ、その溝は深まって行く。訊ねたことに対して、欲しい返答が得られない。根本の部分が既にずれているのだ。元々短気の気がある幸村は、早々と諦めた。彼に対して、総じて他人に対しての執着など、その程度だった。
「やはり、某には前田殿の仰ることが、よく分からぬ」
「それは幸村が恋を知らないからだよ」
「知ろうにも、材料がない。更には興味もない。だから、前田殿が分からぬままだ」
それでも、何も不便はない。だから某は、結局一歩も動くことができぬ。
悔しい、というよりは、もどかしい、に近い。何にせよ、立ち止まっていることが苦手な性分だ。前進にしよ後退にしよ、どちらかに進みたいという思いはある。足踏みをしている状態が嫌いなのだ。だが、それも仕方がないことだ、と幸村自身思っている。戦に関しては目まぐるしく働く幸村の向上心も、こればっかりは無反応で無頓着だ。
「ゆっくりでいいよ。俺は別に急がないから。ゆっくりゆっくり、俺と恋しようよ。俺はずぅっと待ってるからさ」
慶次を何かと邪険に扱っている幸村だが、彼が善人であることぐらいは分かっているつもりだ。あたたかくて懐の深い、これが器量良しというのだろう、という認識ぐらいはしている。だからこそ、彼がいつまでも自分に固執する状況は好ましくはないと思っている。幸村では、彼の相手に分不相応なのだ。
「そのような勝手を申されては困る。某は前田殿の想いに応えられぬ。何度もお伝えしたはずだ。応か否かではない。某はその想い自体を持ち合わせておらぬのだ」
それは、間違いなく幸村が疎かにしてきたものの一つだ。幼い頃に信玄と出会ったことで、恋も思慕も霞んでしまう、極上の愛を幸村は知った。敬愛という言葉は幸村の耳に心地良かった。これ以上の慕情などあるものか、必要ないと見限った幸村の視線の先には、ただただお館様の背中があるだけだ。
「さっさと、次の恋に切り替えるがよかろう」
幸村にしてみれば、いつもの拒絶と大差ない台詞だった。佐助がこの場に居たのであれば、無神経だよ、と軽くたしなめてくれたかもしれないが、残念ながらここには二人しかいない。それも、徹底して意思疎通の図れぬ二人が、だ。
幸村の手首を掴んでいた慶次の指が、意図せずするりと解けた。幸村は思い出したかのように、己の腕を見やる。違うことに意識を向けていたせいもあるだろう、慶次の言葉に反応が遅れた。だがおそらく根本は、慶次の必死さが理解できぬ故、意識の遠いところで聞いていたせいだろう。声にいつもの明るさと張りがなかったことも、後々思い返して気付いた程だ。
「できるもんなら、とっくにしてるよ」
そういうものか、というのが幸村の正直な感想だった。自分の心ながら、自侭にならぬのは不便だ、というのは幸村の思いである。しかし慶次はそうではなかったようだ。零れ落ちた本心に明らかに動揺したのは、幸村ではなく慶次だった。
「ちょ、ちが、違うから!今のは違うから!」
大袈裟に手を振って、違う違う!と繰り返す慶次を、幸村は奇異なものを見るような目で眺めた。正直、慶次の動揺が分からないのだ。まずは落ち着かれよ、と言うつもりで「前田殿」といつもの調子で呟いたのが、どうやら彼には悪い方向に作用してしまったらしい。慶次の肩がはねる。幸村は訳が分からず、咄嗟に慶次の表情を覘き込んだ。だが珍しいことに、慶次の方からそらされてしまった。勢いよく慶次は身体を反転させて、幸村に背を向けた。そのまま、幸村が声をかけるも振り返ることなく、「ごめん!」と叫ぶや豪雨の中を飛び出して行ってしまった。
「やはり、前田殿はよく分からん」
慶次の背を眺めていた幸村だが、見えなくなるとそう独白した。ただ、最後に見せた慶次の表情が寂しげに歪んでいたことが、やけに印象的だった。
幸村視点は、何か難しい上に面倒だ(…)
10/08/16