恣意的な解釈だと思ってたら 芸術家×小説家
幸村は僅かな荷物を片手に、武蔵が住まいとしているボロアパートのドアを開けた。これといった連絡を入れなかったが、武蔵が一年のほとんどを家で過ごしていることを知っている。幸いにも、今回も彼は狭い部屋の中、いつもの場所に座り込んでいた。床に紙束を散らかしながら、その真ん中で机に向かい、うんうんと唸りつつ、紙面に墨を書き殴っている。インターフォンは壊れている為、何度かドアをノックをしたものの、彼は気付いた様子はない。変わらぬいつもの様子に、幸村は困った顔でため息をつきつつ、彼の名を呼んだ。三度目でようやく顔を上げた武蔵は、よぅと手を上げただけで作業を再開させた。邪魔をしてはいけないと、幸村は玄関で靴を脱ぎ、紙の海を抜けて、小さな台所に立った。物臭で不規則な生活を送っている武蔵だが、潔癖の気もあり、流し台はきれいだ。幸村は狭いスペースに慣れた手付きで買い込んで来た食材を並べて、料理を始めた。幸村が武蔵宅に顔を見せる時は、いつもこうしているせいで、お互いに不審に思わなくなっていた。
味噌汁も煮物も作り終え、ご飯が炊き上がるまでの時間が暇になってしまった。幸村は空いている椅子に腰掛けつつ、武蔵の様子を眺めている。珍しく手の動きが止まらない武蔵の邪魔をするわけにもいかない。ご飯はおにぎりにした方がいいだろうか、とぼんやりと考えていたが、どうやら衝動は収束されたようで、筆を置いた武蔵は、その場で両手を上げて伸びをした。集中していた時は分からなかった肩の凝りがいっぺんに訪れたようで、肩を回している。
「…腹減ったかも。」
「もう少し待ってくれ。まだ米が炊き上がっていないんだ。」
「ああ、いつも悪ィな。そう言やぁ、冷蔵庫は空っぽのまま放置してたんだっけ。」
「気にするな、好きでやっているんだ。」
幸村はお茶を入れた二人分の湯のみを、武蔵の作業場と化していた机の上に置いた。
「これは仕事の?」
「まぁそんなとこだ。お前こそ、今日はどうした?この前の本はどうなった?」
「ああ、それはまだまだ先の話だ。今日は別件だ。と言っても、完璧な私事なのだが。」
ふぅん、と武蔵は軽く鼻を鳴らして、一口お茶を啜った。幸村も続いて口に含んだが、どうもおいしくはなかった。武蔵め、茶葉代をケチったな、と内心呟きながら湯飲みを元の位置に置く。
「恣意的、という言葉はどういう意味だと思う?」
しいてき、と武蔵は平坦に音を紡いで、口の中でその単語を転がしていた。中々変換が出来ないようで、どういう字?と、紙と筆を幸村に差し出す。幸村は筆を受け取って、一字目を綴ろうとしたのだが中々漢字が出て来ず、紙に大きな墨の水溜りを作った。結局幸村は漢字を絞り出すことが出来ず、携帯電話に頼る羽目になってしまった。日頃蔑ろにしがちな携帯電話だが、こういう時は非常に便利である。こういう字、と幸村がさらさらと紙に書き綴れば、ああ!と武蔵も手を打った。
「わたしが世話になっている編集部の担当の方から訊かれてな。何でも新人の小説の中で、その単語を使っていたらしいのだが、使い方がおかしい、だが良い説明が思い浮かばない。で、たまたまその場に居合わせたわたしに、良い例文はないものかと、まぁ宿題を貰ってきてしまったのだ。」
「ならお前が考えろよなー。俺はそういう小難しいことは好きじゃないって、知ってるだろ?あと言葉遊びも苦手だ。」
「わたしだって、色々と考えてみたさ。でも、中々良い例が思い浮かばない。と言うか、あまりにも曖昧過ぎて、わたしとお前ぐらいにしか通じないだろうから、困っているんだ。」
ふぅん、と先程と同じ、鼻から空気が抜ける音を吐き出した武蔵は、それって?と幸村の言を促した。幸村は苦笑しつつも、のんびりとした口調で口を開いた。
「お前がこうしてわたしに付き合ってくれるのは、まさに恣意的だなぁと思って。」
途端、武蔵はあからさまに不機嫌さを滲ませて、バン!と乱暴に机を叩いた。振動で湯飲みが揺れる。
「…本気で言ってんのか。言ってんだったら、俺は怒るぞ。」
「…一つの可能性だ。わたしは、人とは得てしてそういうものだと思っている。」
「お前の言う人ってのは、相当に薄っぺらいんだな。」
「武蔵、怒るな。分かった、分かったから。」
幸村はそう言ってからからと笑いながら誤魔化していたが、武蔵の眼はじっと幸村を見据えて離さなかった。なぁ、と呼びかけ、幸村の意識を向けさせる。その時の穏やかな声が効いたのか、幸村は何の防御もせずに武蔵へと視線を移した。
「俺はお前とは、一生死ぬまで、馬鹿で無意味で非生産的で自己満足な会話を続けてくもんだと思ってんだけど。」
幸村は武蔵の言葉に、きょとんと顔を呆けさせたが、じわじわとその言葉を意味を理解したのか、それは、とても嬉しいなぁ、と間延びした声で呟いた。武蔵は胸の辺りがもやもやだのむかむかだのしてきて、それを誤魔化そうと幸村が作った料理を取りに立ち上がったのだった。やっぱり幸村の煮物は最強だ。
あ、『恣意的』の意味間違えてますから。自分の語彙にない単語だったので、すごいどうしようか迷いました。
09/06/07