笑って許した君 モデル×研究者


 趙雲が彼の研究室を訪れた時には、既に他の研究員は帰宅した後のようで、彼一人が熱心にビーカーやら試験管やらと睨めっこしている最中であった。数値が走り書きで書き込まれているノートを一心に見つめながら、ぶつぶつと何事かを呟いている。集中している時の彼はいつもこんな調子だ。こちらが声をかけるまで、来訪者に気付かないのだ。
「幸村殿。」
 と少し大きめに声をかければ、幸村はようやく顔を上げた。やぁと挨拶代わりに手を上げれば、困ったように笑った。彼の癖である。幸村は、最早昭和の映画でしかお目にかかれないような時代遅れの黒縁眼鏡のフレームを押し上げて、趙雲にピントを合わせた。何日もここに籠もりっ放しだったようで、髪はボサボサ、白衣は所々皺が寄っている。お世辞にも清潔とは言えぬ姿だ。反対に趙雲は黒のジャケットと細身のズボンを見事に着こなしている。このまますぐにでも撮影が出来そうだ。
「何か御用ですか?こんなむさ苦しいところに、趙雲殿は似合いませんよ。」
 幸村は再び手元に視線を落としながら、素っ気無くそう言った。趙雲が彼のすぐそばにまで近寄って行ったことなど、彼は気付きもしなかっただろう。趙雲は彼の手元を覗き込みながら、一通りのデータを書き込み終えたことを確認し、すらりと整ったその指先を彼へと伸ばした。幸村の眼鏡を外す動作ですら、どこか上品さを感じさせるものがあった。しかし、肝心の眼鏡を取り上げられた幸村は堪ったものではない。唐突に世界がぼやけてしまったのだ。ノートの数値すら読めない状態である。幸村は情けなく、わっわっと声を上げて、「危ないですよ!」と抗議した。趙雲はその声に、「すまない、すまない。」と謝っているものの、声はどこか笑っている。反省の色もなければ、彼にすぐさま眼鏡を返すつもりすらないようだ。
「…返してください。何も見えません。」
 趙雲はその辺りにあった椅子を引っ張り出して腰掛け、眼鏡を己の胸ポケットにしまいながら、頬杖をつく。丁度幸村と向き合う形だが、幸村には趙雲の輪郭がぼんやり見えるぐらいだろう。
「もう少し、いいじゃないか。それにしても眼福だねぇ。コンタクトにしないのかい?」
 超が付く程の人気を誇る趙雲にそう言われても、幸村は素直に喜べない。学生時代から愛用している黒縁眼鏡のせいで、幸村は全くと言って良い程、女性にもてなかったのだ。
「趙雲殿に褒められても、お世辞にしか聞こえませんよ。あなたは、そろそろご自分の容姿を自覚したらどうですか?」
 幸村は言いながら、微笑を浮かべた。趙雲はその笑顔を見る度に、ああ彼には敵わないなぁと思うのだ。
「私としては、そっくりそのまま、君に返してやりたい言葉だね。」
 趙雲は言いながら、身を乗り出して幸村に眼鏡をかける。唐突にクリアになった視界を趙雲が占領していたせいで幸村は大層驚いたようで、身をびくりと震わせた。趙雲がその至近距離でにんまりと笑みを浮かべれば、幸村は照れた様子でさっと顔をそむけた。

「………、」
「え、何だって?」
「帰ります!今日はもう集中できません!」
「じゃあ一緒に食事をしよう。ショッピングもいいなぁ。とりあえず、君の家に帰ろうか。風呂に入って。話はそれからだ。」
 自分の隣りに立っても遜色ない男なのだと幸村に自覚させるには、良い機会になるだろう。











幸村、ツンツンしすぎてる気がします。うーん、この二人好きなんですけど、難しい。
09/05/06