てのひらのなか 警察官×葬儀屋


 義父の葬儀も滞りなく終わり、景勝は屋敷の庭を歩いていた。本来ならば、親戚連中と今後について相談をしなければならないのだが、景勝はその席から逃げ出したのだ。兼続が残っている以上、彼が上手くやるだろう。喪主を務めた兄と言い合いになっていなければいいなぁ、などとのんびりと思いながら、けれども景勝の目は庭の木々を愛でるのに忙しい。由緒正しきこの上杉家は、文化財に指定されていてもおかしくはない程の立派な屋敷を有している。日本独特の庭園もまた魅力の一つで、庭師が欠かさずに手入れをしている。特にお気に入りの桜の木の前を目指して、景勝はゆったりと歩を進めた。

 景勝が目的の場所に辿り着くと、既にそこには先客が居た。全身を真っ黒なスーツで覆っているその男は、此度の葬儀で派遣された葬儀屋の一人だ。式の片付けをしている最中であろうに、男も景勝と同様、逃げ出したかったのかもしれない。
 景勝が彼に近付くと、足音に気付いたのか、彼が振り返った。漆黒の艶やかな髪が春の木漏れ陽を受けてきらきらと輝いている。彼は景勝を認めると一礼をしてからにこりと笑いかけて、お邪魔じゃなければ、ご一緒させてください、と柔らかな声を発した。穏やかな春の陽に溶けてしまいそうな、優しい声だった。景勝は無言で頷いて、彼の隣りに立った。会話は一切なかった。彼は景勝の名ぐらいは知っているだろうが、景勝は彼の名どころか、どういった人間なのかも知らなかった。面と向かって互いを確認したのは、これが初めてだろう。けれども景勝は、そんなものが一切気にならなかった。彼は景勝の存在を忘れたように、まだ蕾が目立つ桜の木を見上げている。景勝はただ、一つのものを己と同じように愛でる存在がすぐ近くに居ることがうれしかったのだ。心は穏やかだった。桜のような人だと思った。桜のように己の心をじんわりと染み入るように、あたたかくしてくれる人だと思った。

 景勝は、周りの反対を押し切って警察官という道を選んだ。景勝がわがままを言ったのは、後にも先にもこれっきりだろう。景勝は上杉家の莫大な土地も財産も名声も、何もいらなかった。父は尊敬していたが、跡を継ぎたいとは思っていなかった。心底、養子という形ではあっても、兄が居ることに感謝した。けれども、その結果、この庭を自由に歩き回ることが出来なくなってしまい、些細なことながら寂しい想いもしていたのだ。

 穏やかな時の流れるこの瞬間は、決して長くはなかっただろう。それでも、自分たちは何か物凄く大きくて素晴らしいものを、とても深いところで共有したのだという意識が景勝にはあった。景勝は何故だか、彼のことを誰よりも知っているような心地になって、ついと視線を横へと向けた。するとどうであろう、彼も同じことを考えていたのか、全くの同じタイミングで彼も景勝へと首を振った。二人は何も言わず、笑みで誤魔化すことすらなく、ただ見つめ合った。そうする以外の何も、頭に浮かばなかった。これがどんな答えよりも正しいものに感じられた。
 けれどもその時間は長くは続かなかった。第三者の介入は、いとも容易く二人の真綿のような結界を貫いてしまった。のぶしげーのぶしげーと声が聞こえた。彼はその声にふっと視線を外して、今行きますー、と柔らかな声を精一杯張り上げて返事をした。彼は"のぶしげ"というらしいことを、景勝はようやく知った。
「では、わたしはこれで。お邪魔いたしました。」
 のぶしげはぺこりと頭を下げた。さらさらと髪が揺れて、光を反射させて、きれいだな、と思った。すぐにでもこの場を去って行くのかと思えば、彼はごそごそとポケットの中身をあさり始めた。目を伏せると、長い睫が薄紅色の頬にうっすらと影を作った。景勝は思わず手を伸ばしたが、この手をどうしたいのか自分でも分からず慌てて引っ込めた。丁度景勝が焦って手を下ろしたところで、彼はパッと顔を上げて、景勝との距離を縮めた。一歩踏み出して手を差し出しただけなのに、景勝はとても近くに彼が居ると錯覚した。そうしてのぶしげは微笑みながら、景勝の右手をさっと拾い上げて、てのひらの中に、何かを握らせた。彼が優しい手付きで景勝の手に触れたせいで、てのひらの中のものが硬いのか、やわらかいのか、そもそもそれが一体何なのかすら分からなかった。のぶしげは景勝の手をぎゅうと握り締めて中のものを落とさないようにまじないをかけて、やはり触れた時と同様にやわらかな手付きでそっと景勝から手を離した。
「それでは。」
 のぶしげはくるりとその場で踵を返して、声が聞こえた方向へ向かって駆けて行った。景勝は呼び止めることもせずに、さらさらと揺れる彼の黒髪をじっと見つめているのだった。てのひらのなかの桜味の飴玉が、ころころ、ころころ、音を立てている。











設定が活かせない女です。
09/06/14