彼の声は、眸は、心は、命は、こう叫んだ、
「生を刮目せよ」
と。
誘いに応じて入城した幸村には、大坂城の一室が与えられた。長旅で疲れが蓄積していたが、幸村はじっとしていることが出来ず、二の丸を見回った。大坂城は人が多すぎて落ち着かないのだ。秀吉が存命していた頃から大坂城は華やかだったが、それとはまた違う。収拾がついていないのだ。浮き足立っているのに、それを必死で隠そうと騒いでいるように、幸村の目には映った。
「久しぶりだな、幸村。」
声に振り返るとそこには武蔵の姿があった。京での一件以来特に交流があったわけではないが、幸村は何故だか懐かしく感じた。それは彼の雰囲気があまりにも人らしさを放っていたからかもしれない。城を走り回っている女官たちどころか、其処此処に詰めている兵も、どこか生気のない顔をしていた。
「ああ武蔵か。久しいな。」
「大将とはもう会ったのか?」
「…秀頼様のことか?それならば先刻お会いしてきた。」
武蔵は幸村の返答に頷くと、ちょいちょいと手招きをした。どうやら人に聞かれたくない話をしたいらしい。確かにここは落ち着かないし、なにより人が溢れすぎている。大坂城は間諜で溢れ返っているのだ。
武蔵はきょろきょろと辺りを見回して、よしと木陰に腰掛けた。確かに、辺りに人の気配はない。
「お前、秀頼をどう思う?」
「どう、とは?」
「器とか性格とかだ。お前はあの大将をどう見た?」
幸村は少しだけ考え込むように口を閉ざし、ゆっくりと口を開いた。
「少しばかり、優しすぎる。」
「で、幻滅したか?」
「いや。」
幸村の短い返答に会話が途切れた。武蔵は幸村の内心を少しでも読み取ってやろうと幸村の表情をじっと見つめていたが、幸村はきょとんと武蔵を見返しただけだった。終いには武蔵も顔から感情を読み取ることを諦めて、再び口を開いた。
「お前のこと、少し調べさせてもらった。友ってのは、上杉んとこの直江兼続って奴だろ?」
幸村は目を丸くして武蔵を見た。まさかそこまでするとは、幸村も思っていなかったのだ。
「上杉も今じゃ徳川軍の一つだ。お前は友と戦わなくちゃなんねぇ。分かってて、入城したんだろ?」
ああ、と幸村の目が頷いた。
「九度山で余生を過ごすって選択肢もあっただろう。どうして、」
「大一大万大吉。」
「今なんて言った?」
幸村はもう一度繰り返して、笑った。ああ本当に自分は、なんて馬鹿なのだろう、と思った。そうか、その方法があったのか、わたしには見当も付かない生活だ。戦しか知らぬわたしには。
「三成殿が背負っておられた言葉だ。わたしは太閤様にも世話になったし、たくさんのご恩がある。けれど、それは理由にはならないのだろうな。」
遠く遠く、幸村は視線を投げかける。武蔵も同じように視線を向けたが、そこには青い空が広がっているだけだった。
「今更傷が広がろうが、どうでもいいような気がしたのだ。武蔵は剣豪だが、わたしは武士だ。武士は戦でしか己を語ることが出来ない。だから、わたしはここにいて、戦に赴くのだ。」
言葉の力強さとは反対に、幸村は柔らかく微笑んだ。
時をしばらくして大坂城の広間で軍議が開かれた。しかしそこで野戦を主張する武将たちの提案を、淀の方がことごとく却下してしまうのだ。不満をあらわにそれでも、どうか!と願いを聞き届けてもらおうと叫ぶ諸将と、何を言われても頑として首を縦には振らない淀の方・大野治長にはさまれて、秀頼は困惑していた。諸将が喋ればそちらへと首を向け、場が沈黙すれば母へと視線を向ける。今も秀頼様ご出陣を是非!と議題にのぼったにも関わらず、淀の方は一蹴してしまった。一向に先の見えない軍議に、秀頼は視線をさ迷わせて、部屋を見回した。大きな広間のすみに、彼は座っていた。思えば、この場で彼は一度も口を開いては居ないではないか。今も落ち着き払った様子で、場の様子を眺めている。彼の顔にも秀頼と同じように、困ったなあといった感情が表れていた。きっと彼はこのような状況になることを分かっていたのだろう。思わず苦笑すると、彼――幸村もこちらに気付いたのか、秀頼が自分を見ていたことに純粋に驚いて眼を丸くさせた後、自分と同じ心境でいることを読み取って苦笑した。
「秀頼様のお考えはいかに?!」
突然に話を振られて、秀頼は無意識に母へと眼をやった。全くと言っていいほど軍議に集中していなかったのだ、何の話を訊ねられたのかも分からない。何かを言わなければと思い口を開いたら、しどろもどろになってしまった。集まっていた視線に、落胆の色が浮かぶ。
「幸村は、左衛門佐殿は、どう、」
言葉が途切れた。耳をつんざく銃声が響き、同席していた女官たちが悲鳴を上げた。何が起こったのか分からない分、場の混乱は大きかった。元々鬱屈としたものがたまっていたのだ、爆発するのは容易い。
「秀頼様!伏せてください!」
幸村が必死の形相で、秀頼に駆け寄りながら、叫ぶように名前を呼んだ。しかし、突然のことで動けない。ただ呆然としていると、先程はあんなにも遠くに感じたはずの幸村が、強い力で腕を引いた。幸村が秀頼を抱き込む。一瞬遅れてまたしても女官たちの悲鳴が響いた。それが連動し合って、場に居合わせていた武将たちにも混乱が感染していく。
「秀頼様、ご無事ですか?!」
秀頼の喉はまるでからからに乾いているようで声を発することはできなかったが、とても近くで発せられた声を頼りに、そちらへと視線を向けた。と同時に、嗅いだことのない濃密な血のにおいを感じた。
「、ゆきむら、」
「はい。」
幸村は秀頼を見てにこりと笑ったが、彼が押さえている腕からは血が溢れて畳に血溜まりを作っていた。
「!、」
もしかして、私を庇った傷か、とは言えなかった。場の空気に飲み込まれて、喉が張り付いてしまったのだ。秀頼は目を見開いて幸村を見上げる。痛いだろうに、幸村は苦しそうな顔一つせず、普段と変わらぬ表情を見せた。わたしは大丈夫ですから、どうか落ち着いてください、と言われているような気がしたが、幸村の冷静すぎる表情は、逆に秀頼を動揺させた。
「落ち着いてください皆々様!突然のことで驚かれたかと思いますが、刺客は真田の忍びが討ち取ってございます。どうか、お静まりくだされ!」
幸村の、喧騒の中ですら凛と響き渡る声に、皆が動きをぴたりと止めた。流石戦慣れしているだけあって、彼の声はよく通る。
「ゆきむら、」
「大丈夫です、秀頼様。」
「ゆきむら 、」
秀頼は何を言っていいのか分からず、この言葉しか知らぬように幸村の名を呼んだ。幸村は秀頼が縋るように名を呼ぶ度に律儀に、大丈夫です、安心してください、と笑う。幸村、何故、笑っている。秀頼の胸中など知らぬ幸村は、同じ言葉を繰り返す。大丈夫です、わたしは大丈夫です。ご心配をされるようなことはありません。本当に大丈夫なのです。だから、どうか。秀頼は、彼が悲痛にそう叫んでいるような気がして、目の前にある彼の傷口に触れようと手を伸ばした。が、幸村がやんわりとそれを拒んだ。彼は優しく首を振って微笑んだ。あなたが触れていいものではありません、と言われた気がした。
「こんな傷では、死ねません。大丈夫です。わたしは、秀頼様が徳川を破るその日まで、決して死にません。」
ひどいことを言う、と秀頼は思った。この男は既に見切っているはずだ、否、ここに集まっている武将誰一人として、大坂方の勝利はないと確信しているはずなのだ。淀の方や、この大坂城がある限り、そしてその淀の方を母とする秀頼がいる限り、この戦に勝ち目はない。それなのに、この男はその言葉を吐くのか。
場が一旦は静まった。が、すぐに淀の方の甲高い声に、その沈黙は破られた。ただ一人淀の方の声が、辺りに響き渡る。
「秀頼!御拾いどの!怪我はありませぬか?!」
「幸村が護ってくれました、大事ありません。」
淀の方は着物を引き摺って二人へと近付き、幸村から奪い取るように我が子を抱き締めた。そして、表情を厳しくして幸村を睨みつけた。
「これはどういうことか?!真田の!そなたに右府殿の警護は任せておろうに!天下に名高き真田ならばと眼を瞑っておったが、よもやあの古狸と内通しておるのではあるまいな!」
幸村は動じた様子もなく、手を突いて、まことに申し訳ございません、と頭を垂れる。淀の方は幸村のその態度に更に苛立ちを募らせて、乱暴に踵を返した。
「軍議は終わりじゃ!秀頼公は出陣せぬ!このまま篭城をし、あの忌々しき徳川を迎え討つゆえ、そなたらもそう準備いたせ!」
淀の方は叫ぶように告げて、秀頼を引きずるようにして退室した。幸村は申し訳ありません、と手を突いたまま繰り返し、淀の方が見えなくなっても頭を上げることはなかった。
どれだけ時が過ぎただろうか。残された諸将たちはどうすることも出来ず、淀の方が消えていった襖と、頭を下げたまま微動だにしない幸村を交互に眺めていた。あの場で秀頼を救ったのは間違いなく彼であるのに、淀の方の言葉に、たまっていた不満が爆発しそうだった。もしここで、幸村が淀の方に食って掛かるようなことがあったのならば、周りにいた諸将たちは、皆が幸村の味方をしただろう。しかし幸村は不満一つこぼさず、じっとじっと手を突いたままだ。明らかに様子がおかしい。
するとその時、障子が勢いよく開いた。武蔵が息を切らして飛び込んできたのだ。この男はこの男で刺客とやりあった後らしい。着物には微量ながらも血が飛んでいた。武蔵は部屋に入るなり、幸村に掛け寄り、大丈夫か?!と身体を抱き上げた。流石に剣豪と言われるだけあって体格は良いのだが、幸村を軽々と担いでしまったことに、二人を眺めているしかない武将達も驚いた。
「幸村、生きてるか?お前、もう少し自分の身体気遣ってやれよ!」
意識を失っているのか、それとも返事をする気力すらないのか、幸村はぐったりしたまま動かない。武蔵は舌打ちをして、怒鳴りながら部屋を駆け抜けていく。その隣には幸村直属の忍びも居た。幸村を担いだまま走る武蔵の隣にぴたりとついて、幸村の様子を診ている。
「武蔵殿お早く。おそらく毒が回っております。幸村様は今回は暗殺が目的ではないとおっしゃっていましたから、死に至るようなものではないはずですが、」
「腕切り落とすとか、言うなよ。」
「毒抜きを、急ぎませんと。」
二人は早口でそう言い合うと、風のような素早さで消えていった。
幸いにも強い毒ではなかったおかげで、幸村の命に大事はなかった。ここで豊臣を暗殺という形で滅ぼしてしまったのなら、世の風評も諸将たちの信頼も揺らいでしまう。あの家康公は豊臣家恐ろしさに、卑怯な手で秀頼を葬ってしまったのだ、などという噂が立てば、徳川政権が覆されない。あくまで今回の事は脅しなのだろう。諸将の戦意を削ぐ役割も、もちろん兼ねている。
幸村は身体を起こし、包帯を巻かれた方の手を握ったり開いたりを二、三度繰り返した。少し、握力が落ちている。これでは、しばらくは使い物にならないだろう。幸村は先程目を覚ました時に厳重に言われたにも関わらず、さっさと床を抜け出し、月を眺めていた。立ち上がると、流石に血を流しすぎたようで、頭がくらくらとした。自身のことに関しては無頓着な性質である幸村に慣れているのか、忍びの者は幸村の部屋の前まで来ると、頭を垂れるのと同時にため息をついた。
「幸村様、秀頼様がお会いしたいとの由。」
本来ならば淀の方が許しはしないのだが、秀頼を常に影ながら護衛している忍びの力を借りさえすれば、困難なことではない。
「秀頼様が?入ってください。」
幸村は居住まいを正し、障子が開かれると頭を垂れた。秀頼はひどく申し訳なさそうな表情で、余計な気は遣わなくていい、と幸村の顔を見た。
「幸村、すみません。体調の方はどうですか?大事ないと武蔵から聞いてはいますが、」
「心配をおかけして申し訳ございません。秀頼様が気に掛けておられるような大事はございませんでしたので、本当に、大丈夫です。」
幸村がにこりと笑ったものだから、秀頼も安心したのか、よかった、と肩の力を抜いた。
「それで、幸村。母上のおっしゃったことは、」
いかにも言いにくいと言った様子で、そこで秀頼は口を閉ざしてしまった。幸村は苦笑を浮かべつつ座ってください、と促す。
「秀頼様は、ご尊母がお好きですか?」
幸村は秀頼ににこりと微笑み、秀頼の返答をするより前に続きを言った。
「わたしは、それでよいと思います。母上が好きでも、何も悪いことではございません。ですが、あのお方はそういう性格でございますから、敵を作られることでしょう。けれど、それも秀頼様が大切だからなのでございますよ。」
「だから、許せ、と、」
「いえ。許す、などと大層なことではございません。秀頼様は、ご母堂が好きなのですよ。それだけにございます。」
幸村はまたにこりと笑って、此度は何用で?と訊ねた。秀頼は視線をさ迷わせた。一旦は口を開いたものの、その先に繋がらなかったのだろう、口を閉ざして俯いた。秀頼は畳を見つめたまま言った。秀頼にとって、幸村のような者の言葉が命が想いが、何より重く感じたからだ。とても、直視できたものではない。
「幸村、天下とはそんなにも良いものでしょうか?誰かが傷を負うということは、こんなにもこわい。私は戦をやる度胸がないのです。」
「父が築いた天下を私が護れるとは思いません。私は、戦をしとうはない。今日、それが分かりました。幸村はきっと、私が殺してしまう。殺す場所へと、誘ってしまう。私はそれが耐えられない。戦など、しとうはない。天下が欲しいのであれば、徳川にくれてやっても構いません。」
「それは、違います。」
幸村の凛と響く声が、秀頼の頼りない声に重なる。幸村は秀頼の手を取って、自分のそれと重ねた。触れる度に、包帯がかさりかさりと音を立てる。
「我らが大坂に入城したのは、何者に強要されたわけでもございません。亡き太閤様の御為、そしてそれをお継ぎになった秀頼様の御為にございます。我らは、豊家に尽くすことができますれば、それで良いのでございます。」
「どうか、お心を強くお持ちください。わたしは、秀頼様の優しさを好ましく思います。されど、囚われてはいけません。たとえ、もしあの時わたしが死んでいたとしても、秀頼様は泣いてはいけません。強く強く、あってください。それが、太閤様が築かれた天下を知る、皆の想いにございます。」
幸村の言葉に、秀頼は泣いた。喚いて嗚咽をして、幸村に縋るようにその胸に顔を押し付けて泣いた。
幸村はその涙を咎めることなく、ただ穏やかな表情で秀頼の背を撫でたのだった。
(お優しいお方だ。戦なき世にはこのようなお方が必要だろう。わたしはこの人の為に死のう。戦乱の世を生きたわたしは、戦乱と共に終わらせよう。)
後味の悪い話ですいません。負け戦って分かっていながら戦に挑む人の、精神的な強さが好きなので。
秀頼様の口調はゲーム寄りで一応統一させました。
06/06/11
改訂:09/07/05