「秀頼様、見て下さい。綺麗な空です。」
幸村の指差す空には、ただただ、言葉を忘れてしまうような、澄んだ蒼が広がっていた。秀頼は、幸村の笑顔の眩しさを、思わず空のせいにして手をかざしたのだった。
***
大地を揺るがすような爆音に、城の喧騒はその一瞬、音を失った。だがその一瞬後には、喧騒とすら呼べない混乱が城を支配した。その中でただ一人、幸村は静かに立ち上がり、浮き足立った旗本達に囲まれている秀頼の前で膝をついた。秀頼は不安げな表情をしたまま、上擦った声で、幸村に縋るように訊ねた。
「ゆ、幸村、何か策はあるか?」
秀頼の様子に相反して、幸村の声はどこまでも冷静だった。
「最早打って出るしか道はございません。そう何発も大砲が撃てるとは思いませんが、ここはあまりに危ない。様々な悪しきものが渦巻いております。幸い、兵数にさほど差はございません。勝機は必ずあります。」
「し、しかし幸村殿。それでは秀頼様が、」
秀頼の近くで、同じように不安そうに将の顔色を窺っていた大野治長が、おそるおそると言った様子で口を開いた。が、幸村が冷静な面でゆらりと治長へと視線を向ければ、それきり口を閉ざしてしまった。
「秀頼様は私めが守ります。」
幸村は静かに立ち上がり、秀頼をじっと見つめた。有無を言わさぬ、あまりにも真っ直ぐな黒い眸だった。礼節も何もなく幸村は見つめてきたが、彼が誰よりも秀頼に敬意を払っているのだと、秀頼は知っていた。
「信じて下さい、秀頼様。わたしがあなたを御守り致します。」
深い深い黒だ。死をも恐れぬ、真田の眸だ。
「…い、いや、だ。」
「秀頼様。」
「しゅ、出陣はする!しかしお前はここに残り、この混乱を治めてくれ。」
幸村はもう一度静かに、「秀頼様。」と名を呼んだ。それはたった一息の短い言葉であったが、何よりも迫力があった。けれど秀頼は頷いてやることが出来ない。
「そ、そなたは死ぬつもりだろう!私は、まだそなたを失いたくはない。お前はそうして、自分なりの信念を通そうとしている。武蔵はお前のその姿勢を、けじめをつけると言ったが、私はそうは思わない。お前のそれは、ただの意地だ。意地を張っているようにしか、私には見えぬ。」
秀頼は段々と早口になるのも抑えきれなかったが、幸村はその言葉を真っ直ぐに見つめていた。幸村が静かに言う。
「大差ありませんよ。」
幸村は、まるで全てを悟っているような、穏やかな表情をしていた。この男は、そんな顔で、自分の死をも語るのだ。遠い遠い。秀頼には、自分とは生きている時間も、見えている世界も違うように感じられた。あまりにも遠く深い。その眼は幾度とあの世を覚悟し、その覚悟のまま散ることが叶わなかった、哀れな武士の末路だった。
「大差ありません、信念も、けじめも、意地も。こんなもの通さずとも生きてゆけます。いえ、生きてゆける道はたくさんありましょう。けれど私は、今のこの瞬間も、その生き方を知らないのです。私はただ、あなたが意地と呼ぶ信念を、貫くことで生きているようなものなのです。」
幸村、と秀頼は小さく呼び掛けたが、幸村は実に穏やかに優しく微笑んだだけだった。
「秀頼様のご出馬でござる!皆々様、準備を急いで下され!!」
幸村がそう叫ぶように告げると、浮き足立っていた面々が、慌しくも自らのやるべき事を見出したようで、忙しなく時間が動き出していた。
***
城から庭へと出ると、大砲で焼かれた大坂城の一部が見えた。あまりにも痛々しいその姿に、これがかの名城か、と秀頼は心の中で思った。
「幸村!すまねぇ、しくった!!伊達に手間取っちまった!!」
武蔵は叫びながら幸村の許へと駆け寄る。側面から仕掛けてきた伊達に応戦するのが手一杯で、正面の徳川本隊への注意がおろそかになっていたようだ。
「仕方のないことだ、武蔵。この士気では、城門を護り通すことがまず難しい。」
「情けねぇが、その通りだ。と、お、やっと大将のお出ましか。」
武蔵は秀頼の姿に気付いたようで、軽く手をあげた。一介の兵が総大将たる秀頼にとる態度ではないが、秀頼は自分に媚を売らない、そのままの姿勢で向き合ってくれる武蔵を好ましく思っていたから、それに対しては何も言わなかった。返事の代わりに頷くと、その時伝令兵の声が辺りに響いた。
「伝令!真田丸の門が開かれております!!」
秀頼は、隣に立っている幸村に、一瞬動揺が走ったことを敏感に感じ取っていた。思わず幸村を見たが、幸村は秀頼の視線に気付いた様子もなく、じっと何かを考えるように空を見上げていた。
「どうする?幸村。」
「…武蔵は、どう思う?」
「俺は罠だと思う。お前を誘き出すには、多分この手しかない。徳川はよっぽどお前が怖いんだろうな。」
「徳川は未だ父上の亡霊に取り憑かれているようで。」
幸村の声は決して感情が溢れているわけではなかったが、どこか冷淡だった。これがおそらくは真田昌幸の血なのだろう。徳川にどこまでも反抗して見せた、真田のあまりにも愚かな意地だ。
どうする?と再び武蔵が訊ねた。幸村は深くため息をついて、何かを覚悟したように口を開いた。
「武蔵、秀頼様を頼む。秀頼様、言葉を早々に違えて申し訳ありません。」
「幸村行くな!罠なのだろう、死にゆくようなものだろう!!」
幸村は秀頼の台詞など分かっていたようで、申し訳ありません、とだけ繰り返して頭を下げた。
「無理な相談です。どうか、わがままをお許しください。」
幸村は真っ直ぐに真田丸を見つめたまま、視線も、突入する姿勢も崩さない。その様子に、自分では説得は不可能だ、と感じた秀頼は、武蔵に助けを求めた。自分の言葉は、死線を知らない軽いものなのだ。秀頼は幸村の想いを悟ってやることなどとても出来ない。許すことなど到底無理なのだ。戦を知らない秀頼は、人が人の力で死んでいくこの現実に戸惑うことしか出来ない。
「武蔵!武蔵も止めてくれ。何も一人突入せずとも、」
「俺は止めねぇ。いや、止められねぇ。お前の好きなように暴れてこいよ、幸村。」
「すまない、武蔵。」
幸村はそして笑った。秀頼はその笑みの意味すら知らない。何故笑っていられるのか。どうして武蔵に感謝をするのだろうか。どうして武蔵は止めてくれないのだろうか。秀頼は武士になりきれなかった、戦乱の忘れ形見なのだ。
「大将、俺を恨んでもいい。幸村を恨んでもいい。だがな、武士ってのはこういう生き物だ。信念だの義だの、目に見えないものを必死になって守ろうとする。俺は生憎、武士じゃない。幸村の貫こうとしてるものを共有は出来ねぇ。だが、俺は武士が守ろうとしているものを知ってる。だから、俺には止める権利はねぇし、幸村も俺を憎むようなことはねぇ。だが、あんたは俺らの大将だ。幸村を失いたくないっていう、自分本位な感情で物言ってるんじゃなかったら、あんたは幸村を止められる。軍には幸村が必要だ。だがあんたはそうじゃない。幸村を失いたくないから、止めるんだ。なあ大将、あんたの言葉は優しい。俺もそんなあんたが好きだ。けどな、軍牛耳るお偉いさんなら、幸村の誇り、守ってやってくれよ。」
武蔵は言い終わると、にかりと笑った。死など恐れはしないのだ。武士であるということは、戦場で生きるということだ。少なくとも、幸村が生きた時代はそうだったのだ。
「言っとくが、勝機はないぞ、幸村。」
武蔵は冗談めかして言ったが、幸村はああそうだな、と軽い調子で返した。
「そんなものはいらないさ。ただ私は、私であり続ける為にゆくのだ。…秀頼様、分かって下さいとは言いません。けれど、これだけは言わせて下さい。"あなたの作る世を、楽しみにしています。"」
「なれば!なれば幸村!必ず帰ってきてくれ。お前が隣で支えてくれねば、私は道を踏み外してしまう、間違ってしまう。」
秀頼は必死になって幸村に呼び掛けたが、幸村はゆっくりと首を振った。どんなに秀頼が願いに縋る眼をしていても、幸村はその願いを流してしまう。
「いいえ、秀頼様は聡明なお方です。私などいなくとも、あなたはあなたが理想とされる世を作られるでしょう。」
「ゆきむら、」
いくな、と秀頼は縋るように手を伸ばした。けれどそれに首を振ったのは武蔵だった。幸村は武蔵の好意に困ったように肩をすくめた。
「では、いってきます。」
幸村は、そしていつもの顔でにこりと笑った。秀頼は彼の背中越しに、蒼い蒼い空を見たのだった。
ALI PROJECT様の『あの蒼穹に磔刑にしてくれたまえ』が無性に使いたくて書いた話。
秀頼様の口調は妄想寄りです。多分こっちで固定。
06/08/12
改訂:09/07/06