一、 追い詰めた、 追い詰められた、 追い越し、た? 左近と幸村 小田原
二、 膨大なデータに埋もれる 三成×幸村 秀吉没後
三、 連動しろ、話はそれからだ。 兼続と幸村 三成襲撃事件後
四、 累積する苦み 慶次と幸村 関ヶ原直後
五、 秘密を秘密と知らず共有する 政宗×幸村 九度山
六、 尊いものを愛しただけです。 武蔵と幸村 大坂城
追い詰めた、 追い詰められた、 追い越し、た?
息が上がっている。肺が痛い。どれくらい走り続けているのだろうか。段々と走る速度も落ち、今にも足が縺れて転びそうだ。それでも幸村は足を止めることが出来ない。背後から追って来る気配をひしひしと感じるからだ。お互い、あとは持久戦だ。相手の息遣いが聞こえる。いいや、これは自分のものだろうか。
「ッ幸村!!」
絞り出すような声は、幸村にとって鋭い刃のようであった。思わず身体を震わせた幸村は、咄嗟に足を止めてしまい、バランスを失いその場に倒れ込んだ。どっと汗が噴き出し、呼吸が忙しなく繰り返される。背後のことに気を配るような余裕はなく、幸村は地面に丸まって己の呼吸が落ち着くのを待った。
幸村を追いかけていた男は、存外に遠くから幸村を呼びつけたようだ。側に近寄るまで、幸村が感じていたよりも長い時間を要した。しかし幸村は、背後に男の気配を感じても振り返ることも出来なければ、立ち上がることも出来なかった。男は幸村以上に疲労した様子で、ぜいぜいと呼吸を繰り返している。
「何故、逃げる、?」
「あなた、が、追いかけて、くるからです。」
「お前、が、逃げた、せいだろう、が!」
お互い、呼吸が整っていない。それでも幸村は、丸めた背中にぶつけられる声に、反論を繰り返した。いつだって、自分と彼は噛み合わない会話をしていたように思う。きっと性格そのものが合わないのだろう。
「何を、怯えているんだ。」
「怯えてなんか!」
幸村は噛み付くように声を荒げ、勢いよく顔を上げた。目が合う。交差した視線を感じながら、正直、好きになれないな、と思う。きっと、自分と彼は思考の順序がよく似ているのだろう。けれども、結論はいつだって食い違っている。思考を肯定する、心の真ん中の軸が違うからだろう。彼も、きっと、そう思っているに違いない。わたしたちは似ているけれど、護りたいと思うものが、信念が、あまりに違い過ぎるのだ。
目に感情が映し出される。その中身を感じ取ったのか、彼は疲れた笑みを浮かべた。幸村は顔を歪めることしか出来ないのだった。
「ああ、怯えているのは、俺も同じか。」
***
08/11/24
膨大なデータに埋もれる
(情報量? 想いの丈? それともただの"愛"であったか?)
幸村はかれこれ数刻、三成の横顔をじっと見つめ続けている。整った顔には疲労の色が濃い。白磁の肌は今では不健康なまでに青白く、過剰なほど誇り高い凛とした目の下には、くっきりと隈が出来ていた。なにより、不躾なまでにじろじろと眺められているにも関わらず、三成は幸村の存在にすら気付いた様子はない。一心不乱に減らぬ書類の山へ筆を走らせている。時折、顔にかかる艶を失った髪を払い除ける動作だけが、時間が継続して流れていることを幸村に知らせている。
「三成どの、」
控えめに声をかけても、彼は微動だにしない。もう一度、今度は少しだけ語調を荒げて彼の名を呼んだが、効果はなかった。幸村は唇を噛み締める。くやしい、という感情は、少しだけ、かなしい、に似ている気がした。
「三成どの、」
幸村は三成の正面に回り込み、筆を握り締めている彼の手を取った。否、紙面にこびりついて離れない彼の手を、強引に引き剥がした。乱暴な動作で彼の手から筆を奪った幸村は、そのまま筆を畳の上に放り投げた。畳が墨を吸って汚れたが、誰もその先を視線で追った者はいなかった。
「昨日も一昨日も、お休みになられなかったと聞いております。一度、身体を休めるべきです。落ち着くべきです。」
ぼんやりと、ようやく三成が幸村の顔を認めた。充血した目が痛々しい。かなしい、という感情は、くるしい、に似ていると思った。
「かなしみ方は人それぞれです。わたしが口出しするべきではないと、重々承知しております。けれど、あなたがかの人を悼む方法は、見ていてとても、苦しいのです。」
幸村の言葉が、三成の琴線に触れてしまったようだった。三成はぐしゃりと顔を顰め、次には鼻をすする音が聞こえてきた。痩せ細った指が幸村の背に回される。体温を感じさせぬ冷たい指だ。幸村は彼の背に腕を伸ばし、すっぽりとその身体を包み込んでしまった。彼の顔が押し付けられた胸には、温かい水が段々と広がっていく。
(くやしい かなしい くるしい けれど、拙いわたしの方法では、何一つ解決することが出来ない。)
幸村は、それでも、遣る瀬無いと嗚咽を漏らすことができず、ただ途方に暮れるのだった。
***
08/11/24
連動しろ、話はそれからだ。
二条城から包囲を抜けた一行は、一先ず陣を張り休息についた。どこに向かうにしろ、一旦兵を休ませねばならないだろう。今後の方針を練っていた五人のうち、左近は慶次を連れて兵の見回りに出て行った。三成も緊張の糸が切れたのか、小用に席を外している。場に残されたのは、兼続と幸村のみだ。
「何とか、逃げ切れそうですね。」
「そうだな。まだ油断が許されぬ状況ではあるが、光明が見えてきた。」
「これも、左近どのの奮闘と、兼続どの、慶次どのの臨機応変の戦術の賜物ですね。」
幸村が言葉を終えるのと同時に、唯一の光源となっている焚き火の木が、まるで会話を遮るように、ぱちぱちと大きく爆ぜた。思わず二人して、そちらへと視線を向けた。光が弱いせいで、互いの顔の細部までは分からない。顔に大きく影を作ってしまっている。
「幸村、いい加減、孤独を装うのはやめてくれないか。お前の言葉は他人事染みていて、私は至極哀しい。」
幸村はさっと顔を伏せ、殊勝な態度を装った。彼の演技に見事騙されてくれる三成は、この場にはいない。彼の演技に流されてくれる左近も、彼の演技と兼続の容赦ない言葉の刃に待ったをかける慶次も、もちろんここにはいない。
「幸村、私は
「兼続どの、わたしは、同志という言葉では足りぬのです、満足できぬのです。」
幸村は兼続の台詞を遮った。顔を上げた幸村は、真っ直ぐに兼続を見た。いや、彼は兼続が居る方を見つめているだけだ。この薄闇の中、眸に乗せられた感情を読み取ることは不可能だ。
「わたしは、強欲なのです。」
「知っているよ。三成はいつだって欲張りで、お前はいつだって強欲だ。三成の欲張りは可愛いものだが、お前のそれは性質が悪い。どうして、たった一つにだけ、そうも固執してしまう?手に触れられるものには一切の興味を持たぬくせに、何故、周りに溢れているもので満足してくれぬのか。」
足音が段々と近付いてくる。きっと三成が戻ってきたのだろう。彼に聞かせるにはあまりに性質の悪い会話だ。兼続は口を噤んだ。けれども幸村は、彼が戻ってくる前に、最後の一言を吐き出した。
「それがわたしの業で、あなたに矯正される前に逃げ出した理由でもあるのでしょう。」
***
08/11/24
累積する苦み
幸村の許を訪ねた慶次は、庭先へと案内された。時折吹き抜ける風には、まだ生温い温度が残っている。夏の終わりの生ぐささは、慶次の気分を否が応にも重くさせた。こんな嫌な季節などさっさと終わってしまえばいい。流れた血を落ち葉が雪が覆い隠せば、また穏やかな春が生まれるだろう。
幸村の庭先では、季節外れの焚き火が行われていた。もう燃えた後なのだろう、灰色の煙が細長く天に昇っている。幸村は戦装束ではなく、常時の少し寂れた色の着物を身に付けていた。まるでこの前までの戦など知らぬ装いで、焚き火の横にしゃがみ込み、木の棒で燃えかすの中を突っついている。
声をかける前に、幸村は慶次に気付いたようだ。しゃがんだ体勢のまま、顔だけを上げてにこりと笑った。そうして、お一ついかがですか?と、手にしている木の棒に刺さった焼き芋を差し出す。
「まだ、焼き芋の季節には早いじゃないかい?」
焚き火で暖を取るような季節ではない。夏はまだ終わりを迎えてはいないのだ。焚いた火で温められた空気は、むしろ暑い程だった。
受け取った焼き芋は、どう見ても丸焦げ状態だった。慶次は炭になっている焼き芋の表面をがりがりと爪で削る。焦げた皮の部分を剥けば、黄色とも橙とも言えぬ鮮やかな色が姿を現した。焼き芋に噛り付きながら、慶次は隣りの様子を伺う。幸村は真っ黒な焼き芋を、そのまま口に入れていた。苦い、だろうに。そう思った途端目が合ったものだから、思わず心の中を覗かれたのだと錯覚してしまった。
「苦みは今でも、この舌になじむことはないようです。」
幸村はそう言って、噛み締めるようにゆっくりと嚥下している。吐き出すことを、この男は知らぬのだろう。それどころか、その行為自体に考えが及ばぬのではなかろうか。慶次は爪の間に残った苦みを舐めてみたものの、彼のように全てを飲む込むことなど出来ない。慶次は会話を諦めて、まるで何かに急かされるように苦みを吸収し続ける幸村を見つめることしかできないのだった。
***
08/11/25
秘密を秘密と知らず共有する
これで、何度目の逢瀬だろうか。政宗は幸村のぼんやりとした横顔を見つめながら、煙草の煙を吐き出すように、ふとそんなことを思った。九度山での蟄居を言い渡され、どれほどの年月が過ぎただろう。この男の父が死んで、どれほどの。その歳月を数えるのは決して難しくはなかったが、その歳月と己が認識している時間の差異を考えて、途中で計算することを止めた。無意味であったからだ。
政宗はお忍びで、何度もこの庵を訪ねている。そしていつも他愛ない話をして、潔く帰っていく。ここから出してやろう、わしがあの狸と交渉してやるぞ。そう軽い口調で彼の表情を伺ったのは、何度目の逢瀬の時であったか。日付を覚えていなければ、季節すら覚えていない。それなのに、冗談を、と言って笑った幸村の表情だけは覚えているものだから、人の記憶とは現金なものだ。幸村はきっと、政宗が言葉に乗せたほんの僅かな"本気"に気付いていたのだろう。気付いていながら、幸村はそれを一笑したのだ。呆けた顔のその奥に、爛々と輝く眸を隠しながら。あなたの助けなどいりませんよ。幻聴が聞こえてきそうだ。
政宗と幸村は、常に対等の存在でなければならないのだ。政宗はいよいよそれを痛感する。だからこそ、権力にまみれた自分たちの去就に関わる一切を口にしなくなった。いざとなったら、彼は己からこのボロ屋から抜け出すだろう。それこそ、世の人々の度肝を抜くような方法で。政宗がやきもきしていることを知っていながら、それを嘲笑うかのように鮮やかに。真田幸村とはそういう男である。多くの人がその手を差し出しているにも関わらず、その一切に頼ることなく、わたしはわたしの足で立っていけます、心配無用、とにこにこと性質の悪い笑みを浮かべるのだ。
「そろそろ、帰るとするかのう。」
「そうですか。最近は日が落ちるのも早いですからね。」
「また来るぞ。」
「……。」
幸村は最後の言葉には返事をせず、政宗の後を追って立ち上がった。
「次はたんと酒を持ってこよう。」
「それは、嬉しいですね。」
「幸村、」
「はい?」
「何でもないわ。」
政宗が踵を返す。が、しかし、待って下さい、と言うかのように、幸村が政宗の手首を掴んだ。
「わたしはきっと、あなたのことが好きなんだと思います。」
「そうか。じゃがな、"きっと"だの"多分"だのと言われておるようでは、わしもまだまだじゃ。そなたの鈍い恋心が自覚できるまで、わしは根気よぅ通い続けるまでよ。」
そこで頬を染めるなり、照れを隠そうとそっぽ向いたりしてくれたのなら、まだ可愛げがあるものを。幸村は、はい期待せずお待ちしております、と平坦な調子で言い、さっさと政宗の手を離してしまった。
馬鹿め!わしはそなたのことが好きじゃ、と叫ぶことすら厭わぬというのに!
***
08/11/28
尊いものを愛しただけです。
幸村は武蔵と二人きりになった途端、急に饒舌になる。城の中でしか幸村を見たことのないお偉様方が今の幸村を見たら、顔を顰めるどころの話ではないだろう。だが、これは何も幸村が、己に心を許しているだとか、そういう可愛げのあるものではない。ただ武蔵が、この戦の勝ち負けにこれといった感情を抱いていないせいだろう。大坂城内の士気は下がり続けている。士兵に幸村の話を聞かせても、追い討ちをかけるだけだ。幸村もその辺りの自覚は持っているのか、人影がある場所ではそういった性質の悪い話をしない。
今日も今日とて、しんと静まりかえった辻に差し掛かった辺りで、ああ豊臣は負けるだろう、大坂城を名城と云わしめる堀を埋められ裸城と化し、寄せ集めの兵力は更に数を減らされて、最後は戦らしい戦も出来ぬうちに、などと無表情に語る。武蔵の前の幸村は、決して感情豊かではない。上っ面の柔らかい笑みがきれいさっぱり剥がれている。よそ向きの表情ではない顔は、彼のどの面よりも仮初に見えた。
「で?そこまで分かってて、どうしてお前はここにいるんだよ。」
幸村は時々、息を吐き出す程度の僅かな、本当にたった一瞬だけ、ふっと顔に貼り付けている(それとも貼り付いているが正しいのだろうか)表情を全て削げ落として、苦しげな笑みを浮かべることがある。今が、まさにその一瞬だった。
苦しげに寄せられた眉は、穏やかな感情を浮かべる目がその苦しみを中和している。頬には花がほころび始めたような、かすかな色付きがある。その変化は、幸村の色々な表情を知る武蔵でなければ気付かない程度の、些細なものだ。
幸村はそうやって、感情を弛緩させて遠くを眺めている。その一瞬、刹那のことではあるけれども、武蔵はまったく口を開くことができない。どんな想いが彼にそんな表情をさせるのか知っているからだ。中身は知らない。そうさせる大よその流れも、武蔵には知り得ないことだ。彼がその眼で何を見守っているか、など知らない。それでも、武蔵は理解るのだ。誰だって、あたたかな春の木漏れ日のような記憶を抱えて生きているのではないだろうか。
幸村はゆっくりと目蓋を閉ざしながら、まるでその目蓋の裏に映る人物に言い聞かせるように、丁寧に言葉を綴った。
「わたしは、尊いものを愛しただけだ。」
***
08/11/30