江戸に近付くにつれ、雪は段々と激しくなっていった。この分では、雪の中の戦になろう。なれば少しでも兵がこごえぬよう手配してやらねばならない。特に鉄砲を扱う者たちには入念に。幸村はこの天候の中、すぐさまそう思ったが、行動には中々移れなかった。命令を言いつける為に口を開くことすら厭わしかった。戦だ、己の行き場は生き場は死に場はここしかないと、生涯思い続けた場へと赴くのだ。それなのに、思考は何故だか澱み、やる気は全く沸き起こってはこなかった。億劫になっているのだ。
 幸村は先ほどから背中にぶつかる視線を感じている。不躾に幸村を睨み付ける者など、幸村は一人しか知らない。武蔵だ。だが、幸村は振り返らなかった。振り返ることもまた、億劫であったからだ。

 幸村は己がどれ程薄っぺらな人間なのかを自覚していた。武蔵は、そう自覚している幸村を知らない。『兼続どのを討つ。』そう言った己に、武蔵は辛いな悲しいな苦しいな、と、言葉ではなく表情で仕種で空気で語っていた。ああ、辛いとも、悲しいとも、苦しいとも!だが、一番に辛く悲しく苦しく思うのは、そう思わなければならないと己を戒めていることだ。幸村の中は空っぽだった。幸村はその感情を知る程度に人らしい生を重ねてはきたが、それを自覚することはついぞなかった。兼続と敵味方となって戦わねばならぬことは辛い。兼続に死という終わりをもたらし、彼が義を貫き通す様を見送ることは悲しい。そして、兼続をこの手で殺した先も、己は豊臣の為に生きなければならぬことは苦しい。頭では分かっているのだ。ただ、幸村に実感はない。幸村が武蔵への返答に困って誤魔化すように笑えば、武蔵は口を閉ざしてしまう。ああ違うのだ。私はただただ、己の感情の淡白さに途惑っているだけなのだ。



 武蔵は前を行く幸村の背をじっと見つめた。大坂から江戸への強行軍の最中である。あまり馬術が得意ではない武蔵にとっては、手綱をしかと握っていなければ振り落とされそうな悪道なのだが、生憎のこの天気だ、指がかじかんでしまっている。冷えるな、と思っていた矢先だ。江戸に近付くにつれ、お天道様の機嫌は下降していき、ついには雪が降り始めてしまった。

「幸村、」
 と名を呼ぼうとした、正にその瞬間、幸村はちらりと武蔵を振り返った。ゆきむら、の口の形から強引に、「なんだよぅ、」と言ったものの、この寒さだ、震えてしまったかもしれない。幸村は武蔵の様子には何も言わず、馬速を僅かに緩め武蔵の横に並んだ。馬のひづめが大地を蹴る音で、互いの声は潰されてしまう。幸村は声を張り上げた。武蔵は緩慢に、その声が通り抜けるのを待った。
「少し休憩しよう、何分この寒さだ。兵の疲労も激しい、兵の士気に関わるだろう。」

 幸村は武蔵がどう距離を取ってよいのか分からぬ程、平素と何も変わらなかった。身体を温める為に酒を配っている幸村の横顔を、武蔵はじっと見つめた。幸村は案外に人の視線に敏感だから、武蔵の、言葉の通り、刺さる視線に気付いているだろう。しかし、幸村は一度も武蔵を見なかった。それはごくごく自然な様子であったが、武蔵は幸村が己を避けていることを感じていた。俺の言葉はそんなにも無遠慮だろうか、幸村がこの瀬戸際で避けたくなる程に、俺のせりふは幸村の心を抉るのだろうか。それは、嫌だ。武蔵は子どものように思った。けれど、傷付けることに怯えて口をつぐんでしまうのも嫌だった。きっと幸村は今、支えを求めているはずだ。色々なものを失おうとしている幸村を、武蔵は支えたいと思った。だが今まで他人との関わりを避けていたから、どうやって人を支えるべきなのかを知らなかった。だから、幸村にもたれかかってきて欲しかった。縋る、なんて依存はなくていい、少しだけ少しだけでいいから体重をこちらに預けて欲しかった。けれど幸村は、いつもと同じように笑うばかりだ。幸村のその強さが憎らしかった。いっそ、殴りつけてやりたい程に、その強さが憎らしかった。

 幸村は武蔵が好きだと言った、好ましいと言った。武蔵も同様だったから、素直に、俺もだ、と言って笑った。三成どのにも兼続どのにも伝えたことがなかったことを、お前にはすんなり口に出してしまったな、と、思い出を思い出のまま綺麗に抱えている幸村は、楽しそうに秘密を打ち明ける子どものように言って、武蔵の笑い声に続いた。
 幸村が、あの二人とは違った友情を己に求めているのだと悟った。武蔵ならば幸村と違う戦場を駆ける必要はない。仕える主を持たない武蔵が、幸村と敵対する可能性など、幸村が徳川に寝返るぐらいの確率だろう。武蔵は武士ではない、武家の生まれでもない。武士が持っている雁字搦めの理も武蔵にはない。そういう意味では武蔵は幸村よりもずっとずっと自由であった。だが武蔵は、己は奔放と思ってはいても、自由と思ったことなど一度もなかった。偏屈な武蔵は、己にそこまでの可能性を見出せなかったのだ。



 幸村は必死に笑みを浮かべながら、江戸へと思いを向けた。幸村は徳川が嫌いだった。いや、今も嫌っているのだろう。だが、一度とて憎いと感じたことはなかった。幸村の抱いている嫌悪は、子どもの感情であった。ゆえに、その思いを取り除くことは難しい。なにせ、幸村自身何故徳川をこんなにも毛嫌いしているのか、理由が分からなかったからである。
 幸村の思考はふと、征夷大将軍である秀忠へと傾いた。関ヶ原の折、散々に東軍を翻弄したせいで、秀忠は心底真田父子を憎んでいると聞いた。関ヶ原に遅参したせいで、いらぬ恥辱を受けたことは想像に容易い。だからこそ、家康から秀忠へ、表面上のこととは言え実権がうつった時、もう蟄居の身を解かれることはない、と幸村は漠然とそう思い、それをすんなりと受け入れた。九度山へと入ってから、その確信は既にあったのかもしれない。父である昌幸は、九度山から出られるよう、何かと工作をしていたようだが、その種が実ることはなかった。
 幸村は、それでも秀忠を憎まなかった。九度山で野望を抱えたまま死んでいった父は無念であり憐れであったが、それでも幸村は憎むことはなかった。憎むことを知らなかったとも、その感情を忘れていたとも言えよう。今の幸村が思うことは、秀忠がただただ憐れである、と。そう思わずにはいられなかった。気の毒だ、可哀想だ、とそう思い出したら止まらなかった。秀忠は凡愚であるが、特にこれといった欠点があるわけではない。あるとしたら、全くの他人である幸村の目からして、すぐに優れた所が思い当たらぬことかもしれないが、そんな人間はたくさん居る。欠点とは呼べぬのだろう。その男の憐れな所は、家康の息として生まれてしまった以上に、時代を僅かに違えてしまったことだろう。あと十年、いや、二、三年でもよい、家康が豊臣を滅ぼし、誰もが天下は徳川様のもの、と認める時代になっていたのであれば、凡愚であるが情に篤い血の通った秀忠こそが十分に世を治められたであろう。幸村は決して秀忠と深い接点があったわけではない。兄や義姉である稲の話、人々の噂と忍びたちの伝える情報を元に自分なりの秀忠像を作り出したに過ぎない。顔を合わせたことはあっただろうか。会ったことがあるような気もすれば、避けて通らなかったような気もする。所詮は、その程度である。戦場でその御首頂戴する時、初めて顔を合わせるのだとしたら、それは何とも苦しいことに思えた。戦という手段で家康を失ってしまった以上、徳川が滅ぶのは必定である。あの男は、今も江戸城でその終焉を、来るな来るなと呪詛を吐きながら、ひたすらに次の時代を待っているのだろうか。

 思わず顔が歪んでしまった。笑みが苦笑に変わる。腕を持ち上げ、手の甲を鼻に押し付けすする動作をしながら、幸村はゆっくりとまばたきをした。心を静めようとしたのだ。その時である。
「幸村、」
 と武蔵が名を呼んだ。同時に、顔を隠していた腕を武蔵に掴まれた。顔には未だ歪んだ笑みが浮かんだままになっていることに気付き、居心地が悪かった。
「あんま考え込むな。」
 言われて、唐突に、まるで波がさらっていくように激しく、幸村は兼続の存在を思い出した。ほがらかに笑う彼の顔と声が脳裏に映し出されたが、次第にその姿もかすみ、いつしか目の前の男のものに変わっていた。武蔵の子どものような小ざっぱりとした笑い声が、幸村の頭にぐわんぐわんと反響している。無意識に、唇だけが武蔵の名を呼んだ。声に繋がらなかったのは、幸いであった。
 ああ私は、兼続どののことを考えたくなかったのか。気付いた途端、哀しくなった。なんて己は弱い人間なのだろう。



 幸村の顔が曇ったのが傍目にも分かり、武蔵はつい声を掛けてしまった。心ン中とか頭ン中とか、考えてることとか思ってることとか、そういうのは言わなくていい、伝えなくていい、伝える努力もしなくていい。ただ、顔を隠して欲しくはなかった。その顔見て、表情見て、思い悩んでる様を見て、ああこいつは生きてるんだ、こいつも生きることに必死なんだ、とそう思ってきた武蔵だ。武蔵は幸村に何かを求めはしなかった。何かを共有しようとも、互いに曝し合おうとも、共有せずとも理解ぐらいは、とも思わなかった。己のことを無理に知ってもらおうとはしなかったが、考えてくれるぐらいならいいなあ程度には思っていた男であった。武蔵はわがままな男なのだ。
 幸村は突然に名を呼ばれ、困ったように笑った。もうついでだ、と思い更に言葉を繋げた。幸村が、ふ、と短く息を吐けば、それきり呼吸を忘れてしまった。

 幸村の腕を掴んでいた武蔵の指を、幸村は空いている方の指でべり、とはがした。その時に武蔵の冷えきった指と、酒を呑んで少しばかり熱を孕んだ幸村の指とがぶつかった。酒を一切口にできぬ武蔵を知っているから、幸村も武蔵には酒を渡さなかったのだ。突然の熱に武蔵はびっくりして手を引っ込めようとしたが、それよりも前に幸村が仕返しとばかりに掴み返してきた。幸村も温度差のもたらす痛みに同様に驚いたようで、今度はゆっくりと指先に触れてきた。じわり、と熱が広がったが、すぐに霧散してしまった。長い間冷たい空気に触れていた指先は、多少の暖では温まらないのだ。
「折角あったまったってのに、また冷たくなっちまうよ。」
 離せ、と暗に伝えれば、幸村は武蔵の言葉を聞いていない振りをして、そっと両手で武蔵の手を包み込んだ。触れた部分から、じわりじわりと熱が伝わる。唐突の熱はむしろ痛い程だったが、その熱が武蔵にうつることはなかった。幸村もすぐにそれを感じ取ったのだろう、次はごしごしと武蔵の指を擦ってみたが、これも効果が薄い。何やってんだ、とさっさと指を振り払って、彼が中途半端に温めてくれた指を突きつけて笑ってやろうとも思った。が、武蔵の指をじっと見つめる幸村が、あまりにも真剣な表情をしていて、武蔵から言葉を奪った。馬鹿だなあお前、俺がお前に甘えてる場合じゃないってのに。武蔵はどういった表情を浮かべているのが一番自然なのか分からなくて、困った顔のまま笑った。笑っていなければ、叫び出しそうだったからだ。幸村は赤くなる程にごしごしと擦り続けているが、やはりその指に熱は宿らない。次の瞬間、幸村は何を思ったのか、はあと息を吹き掛けた。武蔵は一瞬、やはり驚いたものの何故だか抵抗する気は起きず、幸村のしたいようにさせている。酒気を帯びた幸村の息は彼の指以上に熱を持っていた。しかし、これもすぐに空気に散って、僅かに温もりが先まで存在していたことを思わせる程度の暖しかもたらさない。幸村は何度か武蔵の指に息を吐き掛け、その温もりを逃さぬように、またごしごしと擦った。「いてぇよ。」と武蔵が冗談めかして言えば、幸村も「すまん。」と言葉を返した。だが、決してその動きを止めはしなかった。もしかしてこの儀式こそ、彼なりの甘える合図なのかもしれない。さあ甘えるぞ、甘えるとも。お前も早く準備をして、私を受け止める姿勢を見せてくれ。さあ甘えるぞ甘えるとも。だがお前の支度が整っていない内にもたれかかってしまうと、お前も一緒に潰れてしまうからな、さああまえるぞあまえるとも。
 例えそれが合図だったとしても、武蔵は何と彼に返していいのか分からない。一心不乱の幸村から指を振り払って、もうあったまった!あんたは自分のことだけ考えろ!と突き飛ばしてしまえばいいのだろうか。それとも、肩を抱くなり頭をはたくなりして、彼を元気付ければいいのだろうか。分からなかったが、幸村の様子があまりに真剣で、誰にも邪魔をされたくないように見えたから、武蔵はこの指に熱がこもるまで、幸村の好きなようにさせていた。結局、武蔵は幸村を振り払うことが出来なかった。

「きれいな指だ。」
 幸村は視線を指に落としたまま、そう呟いた。武蔵は何がきれいなのか分からなくて、幸村と同じ場所へ視線を向けた。視線の先には、幸村の長い節くれだった皮の分厚い手に包まれた、武蔵の指があった。武蔵の手も幸村と同じようなものだ。刀を握ってできたまめが、もう治らぬでこぼことなって居座っている。
「きれいなものをいつか掴む指だ。だから、お前の指はきれいだ。」
「なら、そのご大層な指をあっためてくれるお前は、それ以上にきれいだろ。」
 幸村は苦笑した。否定するようなその表情が悔しくて、武蔵はむすりと顔を顰め、「もう大丈夫だ!」とようやく腕を引っ込めた。赤くなっているのは、擦られ過ぎたことと、そして少しだけ熱が宿っているからだろう。



「ゆきむら、」
 と武蔵が呼ぶ前に、またしても幸村は「むさし、」と名を呼び武蔵の言葉を奪ってしまった。何を考えてる?直江兼続のことか、石田三成のことか、それとも先の戦のことか、最後の戦になるだろうこれからのことか。大将のことか、後藤の旦那のことか毛利のことか祐夢さんのことか。それともそれとも、俺のことだろうか。
 武蔵は、ゆきむら、の口の形のまま、幸村からの言葉を待った。言わなくていい、伝えなくていい、伝える努力もしなくていい。けれど知りたいと思った。武蔵は、わがままな男なのだ。
「そろそろ出発しよう。待っていても、雪はよくならないようだ。」
 武蔵は、ついぞ訊ねることができなかった。















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遅くなりましたが、武幸、です。某所に影響を受けまくった武幸です(…)
秀忠については、私の想像です。凡愚凡愚言ってすいません。
でも、これほどしっくり来る言葉を私は知らない(失礼)

07/09/02
改訂:09/07/06