『いろとりどりの 嘘と真実』
遠呂智の作った世界に、正確な地図は存在しない。今も地形は変動している。唐突に新たな城や山が出現することもある程だ。
趙雲と幸村は、現在上田城周辺の山に分け入っている。突如現れた山を調査しているのだ。最初は、元の世界で上田城の北に聳え立っていた太郎山かとも思われたが、その山をよく知る幸村が見る限り、そうではなかった。群生している木々や花の種類、時折顔を出す動物が違うのだ。おそらくはもっと南のものだろう。
そうして、獣道の中でも馬が通られそうな道を相談しながら進んでいた二人だったが、あるにおいにまずは幸村が気付いた。決して良いにおいとは言えないが、幸村にとっては身近なものであった。嗅覚を頼りに幸村先導のもとしばし馬を走らせれば、幸村が予想したとおり、そこには温泉が湧いていた。独特の異臭は確かにするものの、気分を害する程でもない。試しに幸村が指を入れてみれば、焚いた風呂よりも少々熱い程度の温度だ。決して大きくはないが、五、六人ならば一緒に入ることの出来る広さだろう。もちろん城にも風呂はあるが、何があるか分からないこの世界では、常に倹約が暗黙の了解となっている。川で身を清めることの方が多いのだ。そういう事情であるから、温泉の発見は皆にとっても朗報だ。実を言えば、発見した特権として入って行きたいところだが、一人が入り一人が見張り、という形をとっても、いざという時に対処できないだろう。大人数で妖魔軍に襲われたら、それこそお終いだ。幸村は少しだけ残念そうに、
「しるしをつけながら戻りましょう。そうすれば皆さんも来られます」
と、湯につけた手を手拭いでふきながら言う。籠手で守られていても指は冷えていたようで、急に温められた指先は真っ赤になっていた。
「そうだな。特に女性は喜ぶだろう。見張りに借り出される者は大変そうだが」
「趙雲どのにもお声がかかりますよ。信頼の厚い方ですから」
「それを言うなら幸村殿もそうだろう」
笑みをこぼしながら、それで湯加減はどうだったかな、と幸村が籠手を着ける前に、赤くなってしまった幸村の指先に触れる。常日頃から接触が多いのは趙雲の意図するところだが、幸村は一度として嫌がる素振りもしなければ、驚いた様子もなかった。そういうものだと受け止めているのかもしれない。
「わたしは丁度良いと思うのですが、温泉に慣れていない方には少々熱いかもしれません」
「私もあまり慣れている方ではないからな、のぼせてしまうかもしれない」
「趙雲どのにも苦手なものがあるのですか」
ふふふ、と笑う幸村。趙雲もにこにこと笑みを作りながら、
「だが、少々勿体ないな。私は幸村殿と二人きりで入りたいものだ。見張りも同行してくれる者も、邪魔になってしまうなあ」
そう言って、幸村の手を掴んでいる指に力を込める。幸村殿はどうかな?とでも言たげに幸村の顔を覗き込むが、幸村は曖昧に微笑むばかりだった。否か応か、判断は難しい。趙雲は幸村の反応に少しばかり不満だったが、それを覚らせない笑顔を作って、
「冗談だよ」
と、幸村の手を離した。彼の温度を少し奪ってしまったようで、手の赤味が少し治まっていた。それじゃあ戻ろうか、と、今までのやり取りの密度を感じさせない声音で幸村を促せば、幸村の足も動き出す。それを気配で感じ取った趙雲は、幸村に背を向けて、繋いでいた馬に足を掛けた。
「この世界が平和になったら、二人きりで来ませんか」
え、っと趙雲が振り返る。幸村も趙雲と同じように馬に跨っていた。目が合う。幸村はにこりと笑って、
「ふふ、冗談ですよ」
と言って、極々自然な仕草で趙雲から目をそらした。
ああまったく、これは強敵だ。
そう内心で呟いた趙雲を知ってか知らずか、彼は目印にする為に、懐から取り出した紐を手ごろな木に結んでいるのだった。
12/01/16