『すべて世は 事もなし』
幸村は朝の鍛錬を終えて天幕へと戻る途中で、兼続と鉢合わせした。いかにも徹夜明けといった様子で、目の下には薄っすらと隈が出来ていた。元々の肌が白い分、目立ちやすいのだ。
「兼続どの、お疲れの様子ですが、どうなさったのですか?」
と、幸村が訊ねるのも仕方がないだろう。兼続は顔色の割りに元気そうに笑って、
「馬超どのや長政どのと語り合っていたら、いつの間にやら夜が明けていてな、これから一眠りするところだ」
そう言って幸村に手を伸ばし、いくら眠らずとも隈の出来ない幸村の下まぶたを人差し指で撫でる。
「お前はいつも元気だなあ」
と、笑えば、幸村も、
「それがとりえですから」
と、兼続のされるがまま、兼続の指の好きなようにさせていた。
「今日は久しぶりに晴れそうだな」
兼続の話題が唐突に変わることはよくあることなので、幸村は大して驚きもしなかった。この世界では分厚い雲が空を覆っており、そこから光が差すことの方が稀だった。たまに、秋の青空を思わせる澄んだ青が姿を見せるものの、こちらの世界に身を置いて久しい幸村ですら、そんな好日は両手で事足りるほどだ。
「ええそうですね。さながら、小春日和と言ったところでしょうか」
そう言って、兼続の調子に合わせる。兼続はうんうんと頷いて、
「折角の日に引きこもってしまうのは不義だ。幸村、すまないが、今日のお前の時間を私にくれないだろうか」
訊ねる口調ではあるものの、兼続の中では既に決定事項なのだろう。幸村も兼続との付き合いは長い。
「わたしでよければ」
と、同意を示せば、流石幸村!そう言ってくれると信じていた!と、早速幸村の手を取って歩き出した。とても寝不足の人間の力強さではなかったが、兼続の突拍子なさをよくよく知っている幸村は、楽しそうに笑うばかりだった。
しばらくして兼続が足を止めたのは、陣地内の中でも少しだけ小高くなっている原っぱだ。むき出しの岩がごろごろと転がっているこの辺りの地形にとって、貴重な緑と言えるだろう。兼続はそこにごろりと寝転んだ。まだ日は昇りきってはおらず、柔らかい日差しがぽかぽかと温かかった。
「ここに座って、私の枕になっておくれ」
兼続にしては珍しく、うつ伏せという行儀の悪い体勢のまま、己の横をぽんぽんと叩いた。この友人は、酒が入ると途端眠くなってしまう性質の三成を密かに羨ましく思っていることを知っている幸村は、苦笑しながら彼に従った。その場合、三成の枕になっているのは、兼続か幸村の太腿なのだ。
「男の膝では、寝心地も悪いでしょうに」
「そうは言うが、三成はいつもお前の膝の上で気持ち良さそうに眠っている」
「わたしたちに心を許してくださっている証拠です。酔っ払いに、枕の良し悪しなどないでしょうし」
そう言っている間にも、兼続は正座をした幸村の太腿に頭を乗せてしまった。兼続が有言実行するのは今に始まったことではないし、幸村も幸村で兼続のわがままを嬉しく思っていたから、言葉ばかりの抵抗を見せただけだった。無遠慮に幸村の膝を占拠している兼続を払い落とさないところが良い証拠だ。
「うん、やはり固いな」
「眠りにくいでしょうに。荷物から枕の代わりになるものでも持ってきますよ」
「いや、いい。私は固い枕の方が好きなのだ」
では一刻したら起こしてくれ、と兼続は目を閉じた。すぐに彼の寝息が聞こえてきた。兼続らしくはつらつと振る舞っていたが、やはり疲れていたようだ。幸村は呆れたような、けれども、温かさを含んだため息をついたのだった。
***
陽も昇りきり、頭上からさんさんと光が降り注いでいる。幸村は、眠っている兼続にその光が瞼に直接かからぬようにと、懐にしまってあった扇子を広げて影を作っている。この扇子は三成から貰ったものだ。きっと兼続は兼続で、彼に似合うものが三成から送られているだろう。三成にはそういった律儀さがあるのだ。
今までぴくりともせず眠っていた兼続が、唐突に目を開いた。全く前兆を見せなかった兼続に流石の幸村も驚いて、目を大きく開いている。おはよう幸村、と発する声も、寝起きの気だるさはない。兼続は目を開いた瞬間から、常に直江兼続になるように出来ているらしい。
「おはようございます、兼続どの。もう起きられますか?そろそろ一刻になりますが」
「もう少しこうしていたい。そろそろ面白いことになりそうだからなあ」
はあ、面白いこと、ですか?と幸村は訊ねた。訊ねたというよりは、兼続の言葉をそのまま繰り返しただけだ。にやりと笑う兼続の顔は、待っていれば分かる、と言うばかりで、幸村の問いに答えることはなかった。こういう時の兼続は遠回りをして訊ねても、答えてはくれないのだ。
最初に訪れたのは三成だった。彼は次の戦の作戦でも練っているのか、曹丕とぴりぴりとした空気をぶつけ合いながら歩いてきた。ただ、三成と曹丕の間がぴりぴりしているのはいつものことで、更に言うなら、お互いにそういった険悪さを抱いているわけではないのだ。
「…何をしている」
と、少しばかり機嫌の悪そうな声で三成は訊ねる。兼続は幸村の膝に頭を置いた、寝転がった体勢のまま、
「幸村の膝を少々拝借している」
と、嬉しそうに言う。三成はまるで縋るように幸村に視線を向けたが、幸村はにこにこと微笑むばかりで、これといった弁明はなかった。まさに、その通りだったからだ。
「そう拗ねるな、三成。お前だって、よく酒に酔っては幸村の膝を借りて眠っているではないか」
「……」
そうなのか、と蔑んだように見やる曹丕の視線を感じたようで、三成は無言で曹丕を睨む。ただし、この二人は本当に、互いをただ見ている、としか認識していないのだ。決して、憎たらしいと睨みつけているわけではない。傍目にどう映っていようとも。
「残念ながら、幸村の膝はお前の特等席ではないのだよ」
ふふふ、と笑う兼続に、今まで黙っていた幸村が口を開いた。
「寝心地は良くないとは思いますが、それで良ければ、三成どのと兼続どのの専用にしてくださって構いませんよ?」
曹丕が何やら感心した風に息をつく。三成はさっと踵を返して、二人に背を向けた状態のまま、
「その言葉、忘れたら承知せんぞ」
と、まるで逃げ台詞のように呟いて、足早に去って行ったのだった。
次に姿を現したのは慶次だった。ひょいと寝転がっている兼続の顔を覗き込んで、
「こりゃあまた、いい格好だねぇ」
と、開口一番揶揄を飛ばした。兼続もそれに笑って答えて、
「そうだろう!幸村の膝は私と三成のものだからな!いかに慶次といえども、こればっかりはいかぬ。不義だぞ」
そうして、不義、不義、と二、三度繰り返した。
「羨ましいのは分かるが、」
「まあ、羨ましいっちゃあ羨ましいんだが。俺は膝枕で我慢できるかどうか、自信がないからねぇ」
「ははっ、この暴れん坊め!さて幸村、慶次はこう言っているが、お前はどう思う?」
二人のぽんぽんと弾む会話を眺めていた幸村を仰ぎ見て、兼続は問う。その目がいかにも楽しげに笑っていて、この御仁もお人が悪い、と幸村は心の中で笑みを作った。
「そうですね。わたしが思うに、慶次どのは随分と理性的なお方ですので」
「良かったじゃないか、慶次。理性は人として大切な器官の一つだぞ。それが人より優れているとなると、流石戦さ人じゃないか」
「まあ確かに、どっかの傭兵よりは、よっぽど理性的だろうよ。あいつよりは"マシ"って自覚ぐらいは俺にだってあらぁ」
「それは立派なことだ。その傭兵とやらは、最近独眼の竜にべったりだからな。このままでは、不義に洗脳されてしまう。だらしのない人間には、あれの横は居心地が良いのだろう。だがそれでは駄目だ、不義だ!それでは一向に改善されぬ!こうしてはおれぬ!慶次!その不義同士で集まっている、不義の極み共を連れて来てくれ!説法をせねば気が済まぬ!」
「義だの不義だの、やかましいわ、馬鹿め!」
聞き慣れた怒号に、慶次と兼続の顔が楽しそうに輝くのを、幸村は見逃さなかった。おそらく、彼がこの近くを通りかかることを、二人は知っていたのだろう。
「これはしたり!不義者を不義と呼んで何が悪い!」
「義や不義などは、貴様の裁量次第ではないか!わしにとっては、貴様の方がよほどの不義者じゃ!そもそも、人を枕代わりにしているその行為は不義ではないのか、馬鹿め!」
兼続に引っぱられたのだろう、政宗も大声を張り上げる。その隣りには孫市の姿もあり、こちらは見慣れた光景に呆れているような表情で佇んでいた。ちらりと幸村を見て、小さくため息をつく。幸村はそのため息を意味が分からず、僅かに首をかしげた。
更に何往復かの言葉のやり取りがあったようだが、締めくくるように、
「ああ腹立たしい!貴様の顔なんぞ見たくもないわっ」
と、喚いて、政宗が足早にこの場から去る。追いかける形で孫市も姿を消し、面白い見世物が終わったという様子で慶次も天幕の方へ戻って行った。兼続はいかにも機嫌の良さそうな笑みを浮かべていた。政宗は心底腹が立っていたようだが、兼続としては政宗との言い合いが楽しいようなのだ。そう本人から聞いたわけではないのだが、幸村はそう思っている。
「あれは、幸村に憧憬を抱き過ぎだな」
幸村が何を示しているのが分からず首をかしげると、兼続は楽しげな笑みを少しばかり柔らかくして、
「政宗だよ、政宗。あれは確かに幸村のことが好きだが、どうにも憧れの念が強過ぎるな」
そう言う。政宗本人に対する声よりも、随分と穏やかな調子だった。決して政宗を咎めているわけではなく、その様が微笑ましいな、と言っているかのようだった。兼続には、そういう寛大さがあった。
「あれは、――政宗は、私が羨ましかったのだろう。だが哀れかな、あれは幸村のにおいを知らぬ、一生知ることはないだろう。あれは、幸村にもにおいがあることを理解できぬのだよ」
においにおいと言われて、幸村は少しだけ眉を顰めた。陣地があるとは言え、毎日入浴できるわけではない。女性ではないのだからそう気にはしていなかったのだが、出来る限り清潔にしておきたいのが人の性というものではないだろうか。
「…においますか」
「いや、お前が気にする程でもないよ。私は少々人より敏感なようだ。それに、私はお前のにおいが好きだ。元気になれるし、たくさん勇気をもらっている。だが、やはり生きるにおいが薄いな。それが少しだけ、寂しいと思う」
兼続はそうして、幸村に手を伸ばした。顔にかかっている髪を払って、割れ物に触れるように頬を撫でて、また手を下ろす。
「あれにとって、お前は偶像のようなものだ。だから、生きたにおいを感知することができないようになっている。……お前にはあまり関係のない話だったか。これは政宗の意識の問題だからなあ。お前が政宗を抱き締めたところで、あれが目を回すという面白い状況にしかなるまい」
「…兼続どのは、」
「うん?」
「本当に政宗どのがお好きなのですね」
幸村が兼続を見下ろす。兼続はその目を見つめながら、考えるように少しだけ頭を動かした。頭の下の枕は固いが、兼続は丁度良いと思う。幸村だから、丁度良いのだ。
「あれは本当に私と正反対の感覚を持っているだろう?だから面白いと思うし、そういった者のことも理解したいと思う。うん、興味があるという点では、好きということかな」
けれど、
そこで言葉を切って、兼続は身体を起こした。今まで頭を置いていた彼の太腿に両の手を乗せて、身を乗り出すように幸村の顔を同じ高さで見つめた。
「お前のことは、そういった理屈もなく、好きだよ。こういう気持ちは言葉にしなければ伝わらないだろう?幸村、私は、お前が好きだ」
そうして、ふふ、と笑いながら、去って行った者たちを、(意気地のない者どもめ!)と心の中で罵るのだった。
久々の兼幸がホント難産で…。この兼幸は兄弟愛的な感じです。全体的に、どことなーく3仕様でしょうか。
12/01/21