一、ここで生きていて
織田軍が退いていく。本陣深くに斬り込んだ幸村は、その騒動の隙に素早く脱出し、武田の殿を務めていた。僅かばかりになってしまった手勢は皆意気消沈していた。本来ならばそれを叱咤激励するのも大将の務めだが、幸村にもそんな気力は残っていなかった。武田は負けた。完璧なる負け戦であった。けれども幸村は生き残ってしまった。最早槍働き一つで左右される時代ではなくなってしまった。武田が築き上げてきた風習を、信長はいとも簡単に打ち破ってしまったのだ。幸村は思わずため息が出そうになったが、慌てて飲み込んだ。これ以上士気を落とすのはまずい。織田の軍が追ってくる気配はなかったが、油断は出来ない。
「幸村ァしけた面してるなあ。」
慶次が馬の手綱すら握らず、幸村の隣りについた。それなのに安定しているということは、松風が優れた馬というだけでなく、慶次の馬術も相当なものなのだろう。
「負けたのです、どのような顔をしていればいいのですか。」
幸村は、己をあの修羅場から強引に引き戻してしまった慶次をどう直視すればいいのか分からず、視線を前に向けたままだ。そんな幸村の様子を気にした風もなく、慶次は豪快に笑った。沈んだ空気にまるで不釣合いだった。
「負けてもあんたは生きてる。生きてるってことは、次の勝ちが狙えるってわけだ。前向きに考えな、前向きによ。」
「あれは戦ではありませんでした。一方的な虐殺です。」
そうだ、虐殺だ。鉄砲の前には武田の騎馬隊ですら敵わなかった。戦とは槍と槍、刀と刀を合わせ、己の進むままに戦うものではなかっただろうか。幸村は、そういった時代を生きてきた。散っていった武田のもののふ達はこの新たな時代の到来を悟っていたのだろうか。取り残されてしまった。幸村はただ思う。きっと私にとって生きにくい時代が、やがて日常になってしまうのでしょう。幸村は、長篠で討ち捨てられている屍が羨ましいのだ。きっときっと、絶望しながら生きていくことになるのだろう。幸村は鬱々と思う。もしあの時慶次が幸村を拾い上げなかったら。幸村は何度もそれを考えた。考えた結果、慶次に対してどうしようもなくひどい結末に喜んでいる自分が居て、彼の顔が見ることが出来なかった。
「あんた強くなるぜ。だから、生き残ったことを誇りに思いな。生き残ってしまった、なんて、言うもんじゃない。」
幸村は返す言葉が見つからず、ただ沈黙を守ったまま前を見据えている。
「確かにあんたの振り返った先には、屍がたくさん横たわってる。それは事実だ。ああ俺もそうだとも。だがな、生きるってのは、そういうことだと俺は思ってる。」
「 どういうこと、ですか。 」
幸村がゆっくりと慶次に顔を向けた。死ねなかったと怒り嘆いたいたが、命の恩人の前でそんな顔などできない。私は人殺しですと自嘲したかったが、慶次がそれすら正当化してしまったからそんな表情などなくなってしまった。だから幸村に残されたのは、仲間が死んでしまった羨ましくも悲しい事実に、ただただ哀しみを浮かべることしかできない。あんなにもよくしてくれた武田の方々とは、もう二度と会えないのだ、言葉を交わせないのだ、手合わせすることはおろか、その姿も声も雰囲気も何もかも、なくなってしまったのだ。
「慶次どのの仰る、"そういうこと"、とは何ですか。私には分かりません。私はあなたに助けられました、感謝しなければいけません。けれどあなたは、救ってはくれませんでした。」
幸村は段々と早口になり、言い終わると同時に顔を背けた。慶次がどのような表情に変わってしまうのか、見たくなかったからだ。これはただ、負け惜しみなのだ八つ当たりなのだ。分かっていたが、制御出来なかった。私はあの時、死ぬべきだったのだ。そう願ってしまっている自分がいることを彼にだけは見つからないように、幸村はまた視線を前へと戻してしまった。けれども敏い彼は、幸村の内心など見透かしているに違いないのだ。
「それは、あんたが見つけることだ。あんたは考える時間を得た。だからこそ、あんたはあんたの答えを見つけなきゃならないんだ。」
じゃあな、俺は行くぜ。
そう言って松風の腹を蹴った慶次が隊列から外れていっても、幸村は慶次を直視することができないのだった。