一、すべり落ちそうな気がする


「真田安房守が次男、幸村でございます。」
 幸村はそう言い、深々と頭を下げた。値踏みするような視線が方々から感じられたが、幸村はひるむことはなかった。
「よい、顔を上げろ。」
 幸村はゆっくりと面を上げた。景勝の目が幸村を見つめて離さないのと同じく、幸村もまた不躾な程まじまじと景勝を見た。謙信公とは似ていらっしゃらないな。幸村はふとそんなことを思った。幸村は景勝が養子だと知っていたが、他愛なくそう感じた。けれど、纏っている空気はどこかしら同じものがあるような感じがする。訥々と考えていると、先に景勝が視線を外した。幸村も慌てて視線をずらす。
「安房守どのは、よい息子をもってらっしゃる。」
「かたじけのうございます。」
 ぎこちなく笑ったように見えた。少なくとも幸村の目にはそう映った。途端、親しみを覚えたのだから不思議なものだ。幸村はもし多少の無礼が許されるのであれば、問いたいことがあった。他でもない、軍神が育んだ家を継いだこの人に、だ。
(長篠の戦いをどう思いますか、これからの武士はどうなりましょうか、景勝さま、絶望という言葉の意味を知っていますか。)
 問いただし、満足するまで答えを聞きたかったが、幸村はその言葉を一つとして搾り出しはしなかった。
(私は早く、自分の生きる道を決めなければならないのだ。方向を定めなければならないのだ。)
 それが幸村の口を閉ざさせた理由だった。

 場が沈黙した。景勝は何も言わず、幸村に真摯に視線を向けた。幸村は、今度は何故だか高揚し、胸が高鳴るのを感じた。ここには幸村が馴染んでいた戦の清廉さがあるような気がした。戦の前、士気を高める軍議の空気が、ここにはあった。ひどく、ひどく懐かしい。
 景勝の無言に痺れを切らしたのは兼続だった。無口な性質である主を補佐するように、兼続は口を開いた。幸村は戦場で慣らされた、よく通る声に惹かれるようにして、視線を彼へと向けた。
「景勝さま。顔見せはもう良いではありませぬか。真田どのはお疲れでしょう。この辺りでお開きにしませぬか。ああそれから、真田どのの世話は私がさせて頂きます。彼とは常々、言葉を交わしてみたいと思っておりました。」
 うむ、と短く頷く景勝に、では、と兼続が立ち上がる。景勝の側へ寄り、立つのを支えている。景勝の足が悪いというわけではなく、体調が悪いというわけでもない。兼続がやりたいから景勝も身を任せているに過ぎない。それは、既視感だった。思わず幸村がくすくすと笑ったものだから、一斉に幸村へと視線が集まった。気付いた時には視線に囲まれていた。申し訳ありませんッと慌てて頭を下げた幸村に、今度は兼続の笑い声が落ちた。
「私はそなたが気に入ったよ幸村。さてはお前も父や兄、今は亡き信玄公にべったりだったのではないか。」
 幸村はおそるおそる顔をあげると、兼続が得意そうな顔で笑っていた。彼に支えられている景勝は、些細な変化ではあるが、僅かに顔を俯かせていた。恥ずかしがっているように幸村の目には映った。ああかわいらしいお人だ。幸村は不躾にそう思ってしまった。自分が腕を支える人たちと来たら、こちらが甘えているのを見越して、どこか偉そうに振舞うからだ。兄などは特にその傾向が強く、源二郎は私のことが大好きだからね、と誰彼構わず言うのだからかわいくない。
「あ、はい。まるで同じでしたので、思わず笑ってしまい…。流石の慧眼でございます。」
 私はこの方たちの理の中を生きるのだ。そう考えると、途端に心が揺れた。


 ある日、幸村は兼続の部屋へと呼ばれた。幸村が障子の外から声をかけると、入っておいで、と兼続が言う。幸村は言われるままに障子を開けたが、当の兼続は文机に向かって書を読んでいた。幸村はどうしていいのか分からず、障子に手をかけたまま固まっていると、兼続はほらほらおいで、と手招きをする。
「これは石田三成という男からの文なのだが、見てみなさい。」
「いえ、そのような、」
「読めと言っているわけではないよ。字を見て欲しいのだ。」
 言われるままに、最初の一文に目を向けた。努めて一字一字に目をやる程度にして、幸村はその文字を見つめた。兼続はそんな幸村の様子が楽しいようで、くすくすと笑っている。
「どうだ、神経質そうな文字だろう。三成は実にからかい甲斐のある男でね。」
「石田様と言えば、先の賤ヶ岳の戦で功を立てられたお方のことですか。眉目秀麗との噂の。文官としての能力も抜きん出ているとも聞き及んでおりますが。」
「お前も会ってみれば分かるよ。三成は、何と言うか、人に嫌われやすい。あそこまで他人を怒らせることができるとは、流石の私もお手上げだよ。」
 本人が聞けば怒り心頭だろう台詞を、兼続はその人物を知らぬ幸村に世間話の感覚で語る。幸村はどう相槌を打てばよいのか分からず、ただ兼続の言葉を聞いている。
「最早あれは才能だよ。私もそういった能力には自信があったが、三成にははるか及ばない。まったく、面白い奴だ、あれは。」
「そうおっしゃるのでしたら、何故兼続様は石田様と親交なさっているのですか。」
 よくぞ聞いてくれた、と兼続が目を輝かす。幸村はまだ兼続との会話の間合が分からず、時々兼続に付いていけなくなる。自分の世界に入った兼続に、幸村の些細な言葉など届かないのだ。
「あれは、良い人間だからだ。」
 兼続がさも誇らしげに語った。幸村の目からも兼続が生き生きとしていることが分かった。今の幸村には兼続の背負う光が眩しくて、思わず少しだけ目をそらした。兼続はそんな幸村に気付いた様子もなく、ああ言いたいことはそうではなく、とさっさと話を変えてしまった。
「三成が一人、牢人を召し抱えたと風の噂に聞いたのだ。それがあの島どのだと言うではないか、幸村に知らせるべきだろうと思って呼んだのだよ。」
「島、島左近どののことでしょうか。」
 ああそうだ、島の左近。兼続は幸村が紡いだ名前を繰り返した。幸村は声にした途端に、脳裏にたくさんの過去がまぶたの裏に蘇った。武田の、思い出ばかりだ。左近どの、左近どの。頭の中で何度も呟くと、己の存在など埋もれてしまいそうな程たくさんの思い出が、幸村を襲った。洪水に飲まれてしまう。思わず、言葉を失った。
 兼続は畳を見つめたまま動かない幸村を、大して気にとめた風もなく、だからな、と幸村の手を握った。ああ、あたたかい手をしているなあ、あの日のあの方達と同じあたたかい手だ。幸村がぼんやりとその熱を見た。
「私のところに幸村が居て、三成のところに島どのが居る。幸村と島どのは知り合いだろう。なんだか面白い縁だと思ってね、どうせ三成は何も知らぬだろうから、教えてやろうと企んだわけなのだ。島どのに会いたくはないか。叶わぬとも文のやり取り程度は出来よう。どれ、私が一筆したためよう。」
 幸村の手を離し、言葉にしたことをそのまま実現しようとする兼続の手を、今度は幸村の方が慌てて引きとめた。どうしたのだと視線を向ける兼続に、幸村は首を振って答えた。
「いいえ、良いのです。本当に縁があれば、そのうちに機会が巡ってまいりましょう。お手を煩わせるまでもありません。」
「煩わしいとは思っていないが、お前がそれ程言うのであれば、この話は私たちの秘密にしようか。」
 はい。幸村は頷いた。
「用件は確かこの件についてなのですよね。でしたら私は戻らせて頂きます。お邪魔を致しました。」
 兼続が引き止める声を発する前に、幸村は素早く立ち上がりさっさと退室してしまった。無礼になっただろうか、折角の好意を無にするなど、と怒っていらっしゃるだろうか。幸村は兼続の顔を見ずに帰ってきてしまったから、そのことが不安だった。
 もう一度、左近どの、と声には出さず唇だけで呟いた。それだけでは我慢がならず、思いつくままに武田の皆の名前を呼んだ。そうして思い出に浸った幸村は、静かに目を開けた。やはり左近とは会っていけないと思った。己は早く自分の道を見つけなければならない。それなのに、未だ武田を懐かしんでしまう。あの頃に戻りたいと願いはしないが、それでも、ふとそうなればいい、と思ってしまう時がある。そんな自分が左近に会ったら。考えるだけで自己嫌悪に陥った。会ってたくさんのことを語り合いたかったが、吹っ切れずに思い出に襲われる自分には、それは無理だろうと思っている。景勝に訊ねたかったことを左近にも問い掛けてみたかったが、幸村にはその踏み出しが出来なかった。
 ふと視線を周りに向けた。空が橙色に染まっていく。言葉にする必要はなかった。幸村はただ見惚れ、そうした美しいものを目にした後にはいつも思うのだ。
(ああ。私は、なんて醜い生を晒しているのだろう。)