一、とどこおる熱
幸村は、今度は豊臣の許へ送られていた。大坂の千畳敷で初めて秀吉と会見した時、加藤清正、福島正則らと共に石田三成とも顔を合わせた。幸村の三成に対しての第一印象は、なんとも気難しそうなお人だろう、だった。機嫌が悪いわけではないが、それらしく顰められた顔がそれを物語っていた。幸村にとって正反対の性質であるとすぐに知れた。きっと幸村の血塗れた手を汚らしく思うに違いない、とそう感じたほどであった。
幸村が正直馴れ合えないだろうと思っていたのと同じように、三成もまた幸村のことを軽視していた。秀吉が気に入ってしまったせいで何かと場を共にすることが多かったが、三成は幸村を見ぬ振りをしていたし、幸村もまたそれに合わせるように、つとめてひっそりと己を殺し雰囲気を壊さなかった。互いが互いを無意識に意識していたが、それを隠すようにしていたのだ。
だが互いの認識とは別のところで働いた力によって、二人は互いに避けていたというのに、顔を合わせる機会が多かった。ねねのせいであった。三成の仕事に余裕が出来てくる度に姿を現しては、幸村のところに行ってあげて、きっと一人で寂しがってると思うの。と言うのだ。三成はどこの子どものことを言ってるのですか、と反論したかったが、さっさと背中を押されて、菓子まで持たされてはどうにもできなかった。ねねにとって三成はいつまでも子どもであり、そんな人付き合いの下手な愛息子の為なら一肌も二肌も脱ぎたくなるのが母親の性であった。
そういった経緯を三成は一度として説明したことはなかったが、幸村は目の前の人物が仕方なく訪ねてきていることを覚っていた。既に清正、正則らと三成は確執が生じ始めていた。幸村はどちらかというと清正たちの方へと属されるだろう。だがねねはそれを含めて、三成との仲を取り持とうとしていたのだ。
(おねね様は、この亀裂が大きな裂け目になってしまうことをおそれているのだ。だから私などのところへ三成どのを向かわせて、私の言葉でその亀裂を修復してもらおうとしているのだろう。)
幸村はねねの思いに気付いてはいたが、分かっていても尚、三成にかけるべき言葉をもっていなかった。
(ああこの人はきれいなのだ。絶望することを知らず理解せず、ただ信じるものを見つめ続けている。まるで、)
まるで昔の己のようだ、と幸村は思った。武田があり、お館様があった頃の自分は、考える必要がない程、その先に希望があふれていた、輝いていた。今はどうだろうか。まだ、何も見つからない。ぐるぐると同じところで迷っているのだ。
幸村は、三成と清正、正則らの喧嘩を見かける度、子どものようだ、と思っている。それは幸村にとって決して悪い意味ではない。純粋だと思ったのだ。きっとこの人は、自分のように支柱となるべきものを失っても、己を忘れることはないのだろう、と。三成が幸村のことをどう思っていたのか、幸村は知らない。ただ幸村は石田三成という男に好意を持っていた。子どものように純粋な人だと、彼を知る者なればほとんどの者が否定するだろうことを、幸村は思い続けている。そもそも彼らは、三成の表面しか知らぬことも幸村は知っている。
「幸村。」
「 、はい。」
突然に声を掛けられ反応が遅れた。対面しているのであればそれは不自然だったが、この二人の場合、何も語らずに時間を過ごすことが少なくはない。三成の真意はどうであれ、幸村は話題がないからこその沈黙だと信じて疑わない。
「お前も律儀な男だ。俺のような者が通っては面倒だろう。さっさと追い払えばいいものを。」
「それは言うなれば三成どのの方でしょう。私は口下手ですので場の一つも繋げません。楽しくなどありますまい。」
ああ楽しくはない。三成はそう言うが、幸村は不愉快に思わなかった。言葉を素直に繰る三成が好ましく映ったのだ。
「しかし、お前との沈黙は楽でいい。」
言って、口を閉ざした。もし、この場で幸村の方から声をかけたとしたら、この方の不興を買うことになるだろうか。幸村が逡巡したその間、沈黙に鳥の声がかすかに響いた。
「あの、三成どの。」
先ほどの幸村と同じように、僅かに遅れて三成が視線を向けた。眉の皺の数が増えていないことを確認した幸村は、躊躇いがちに言葉を続けた。
「三成どのは、戦がお好きですか。それとも、」
「嫌いだ。俺は戦など嫌いだ。」
まるで、子どもが嫌いな食べ物を指差して言うみたいだ、と幸村は場違いなことを思った。そして、三成の飾らない言葉がひどく重く感じられた。この方は己の利害や功を考えることもなく、ただ思いのままに言葉にしたのだろう。この方は、本当に戦がお嫌いなのだ。なくなってしまえ、と思っているに違いない。
(やさしいお方だ。わがままなやさしさで、この方の見つめている先はきっと夢物語なのだろうけれど。けれど、私はこの方のわがままが好ましい。私も、この方のように生きてみたかった。)
叶わぬならばせめて、この方のきれいさを守る盾になろう。幸村は密かにそう誓った。
ああそれにしても、お前はどうなのだ、と問い返されなくてよかったと幸村は心底思った。三成の他人への無関心さに救われた気がした。唐突に、今ならば左近と顔を合わせても大丈夫なのではないかと感じたが、三成の顔を見た途端、左近のことを訊ねる言葉がどこかへと消えてしまった。そう遠くはないいつかの為に、幸村は左近と語るだろう思い出の言葉を、ひっそりと探すのだった。