一、脅迫まがいの愛言葉
突然に、幸村は上田に帰ることを許された。幸村は文も出さずに、上田へと入っていった。何分急のことである、家の者は誰もが忙しそうに幸村を持て成す準備に取り掛かっていた。幸村はすまないことをしたなあと、久しぶりの上田を見回していた。草木のにおいがただただ懐かしかった。飯炊きのにおいが幼い記憶を呼び戻して、言葉に詰まった。
酒宴は夜更けまで続いたが、既に主役となる幸村は姿を消していた。というよりは、兄に連れ出されてしまった、という方が正しい。信幸は久しぶりの幸村の姿にも別段喜んだ様子もなかったが、ひどく楽しそうな顔で「おかえり。」と言ったものだ。幸村は兄の動作言葉一つが懐かしく思えたが、同時に憎らしいまでにかわいげのないことまでもを思い出し、顔を合わせて挨拶を交わしただけだというのに、幸村は笑ってしまった。
「さっさと抜け出してしまって。明日父上に怒られるのは私ですよ。」
「久しぶりの幸村だ。独り占めしたくなるのが兄の心というものだ。」
ふふ、ふふふ、と二人は笑い合った。互いの思考が手にとるように分かる兄弟である。言葉にせずとも久々の再会が双方喜んでいること、そしてそれを言葉にしないと頑なになっていることまでもが、相手に筒抜けであった。
幸村が上田に帰り三日ほど経った。そろそろ大坂へ戻る支度にかからねばならなかった。旅の積荷を確認していると、駆けるように廊下を歩く音に、幸村は顔を上げた。
「幸村どの、幸村どの。開けますがいいですか。」
稲姫の声である。幸村は珍しいお人がいらした、と思うと楽しくなって、ええどうぞ、と弾んだ声を返した。稲は慌てて歩いてきたのだろう、少しばかり息が弾んでいた。幸村の前に転がるように座り、縋るような声で、
「幸村どの、どうか稲に信幸さまの操縦方法を教えてください。」
そう言うのである。幸村は言葉の真意がわからず、ええっと落ち着いてください義姉上、と、とりあえずはなだめようと努めるが、私は至極冷静です、どうか教えてください幸村どの、と繰り返すばかりである。流石に困ってしまった幸村だが、廊下を歩く足音に、ああ助かった、と一人胸を撫で下ろした。兄の足音だけは何故だか分かってしまうのだ。案の定、ゆったりとした歩調で現われた信幸が、穏やかな声を発した。
「ああここに居たのか。源二郎、稲を引き取りに来たから渡して貰えないかい。」
「お前様がいじめておいて、引き取りにとは何事です。これ見よがしに源二郎源二郎と。そんなにも幸村どのがお好きならば、幸村どのを娶れば良いではありませんか。」
「それはお前が源二郎に色目を遣うからだよ。私の大切な源二郎をとられたくはないからね。」
もう知りませんッと稲は叫び、来た道を帰っていった。信幸が手を伸ばしたのだが、見事に振り払われてしまった。幸村は二人のやり取りを見ながら、兄上は本当に変わらないなあと密かに実感していたのだが、それを稲に言ったらそのとばっちりは自分に来るだろうと思い、何も言わなかった。取り残された信幸だが、傷付いた顔一つせず、むしろ楽しそうに笑っていた。信幸は稲がかわいくて仕方がないようだ。相手が想ってくれているのを実感しては、一人こうして笑っているのだ。義姉上が気の毒でなりません。幸村は心底稲に同情した。
「私に対する当て付けもやめて頂けますか。」
「幸村は婚儀の時いなかったからなあ。私が嫁を貰って寂しいだろうに。」
ええ寂しいですとも。幸村は言わなかったが表情にそう出ていた。兄が勝手に良い人を見つけて、さっさと式を挙げてしまったのだ。幸村は知らせを大坂で聞いた時はくやしくて仕方がなかったが、今はいつかの為の報復を楽しみにしている分、嫉妬はあまりなかった。
それにしても、信幸の言である。幸村が源二郎と名乗っている頃ならいざ知らず、幸村の名を使うようになってからは源二郎と呼ぶことはなかった。今も二人きりの時は決して源二郎などとは呼ばない。ここが信幸の性質の悪いところなのだが、幼名を呼ぶことで親密さを自己主張したいらしい兄は、人前だからこそ源二郎と呼ぶ。それに当てられた稲は気の毒としか言いようがなかった。
「幸村のような側室が欲しいなあ。」
突然にしみじみと言い出した兄に、幸村はいつもの返しを繰る。
「私は男ですよ兄上。」
知っているとも。そう言いながら、残念だ非常に残念だと信幸はいつもの通りに繰り返す。
「ああ残念だ。もしお前が女子だったら、私の側室になってくれたかい。」
「嫌ですとも兄上。義姉上がおそろしゅうございますゆえ。」
「お前は稲を義姉と呼ぶのか。」
心底意外そうに言う信幸に、幸村はそうですよいけませんかとつっけんどんな言葉になってしまった。
「幸村。」
「はい。」
「大坂での暮らしに不便はないようだな。お前の笑顔は久しぶりだ。良い人でも見つけたかい。」
幸村は信幸の言葉に思い浮かぶ人物が居ることが、とても嬉しかった。そして、報復の時は今しかない、と思った幸村は、はい、と頷く。
「とてもかわいらしい人がいらっしゃるのです。」
信幸がつまらなさそうに唇を尖らせたものだから、幸村の報復は成功したと見て間違いないだろう。兄上より何十倍もかわいらしい、とても純粋な方がいらっしゃるのです。ああいやだ聞きたくないと耳を塞いだ兄の背を叩きながら、兄上は早く義姉上の後を追いかけてくださいと更に追い撃ちをかける。ああそうだね、そうしなければ。信幸が稲の去っていった方へと足を向ける。
「幸村。」
「まだ何か御用でも。」
「今宵お前の部屋に行くから、褥中で待っていなさい。」
「いやですよ兄上。私は兄上の側室にはなりたくありませんから。」
ふふ、ふふふと同時に笑い声がもれたのだった。