一、すくわれてしまう


 その日の邂逅は本当に偶然が重なってのことであった。秀吉の書簡を届けたのが、たまたまそこに居合わせた幸村だったこと。そして、いつもならば部屋にこもりっきりの三成が、その日に限ってねねに急かされるままに城下へと気晴らしに出ていたこと。三成の留守を預かったのが、彼であったこと。

 幸村は襖を開けようと手を伸ばしたまま数秒固まった。目の前には目的の襖はなく、左近が居た。幸村がいざ手をかけようとしていたその瞬間に、左近が開け放ってしまったせいだ。
「そろそろ殿が帰ってくる頃だと思ったんだが、ああ、その手に持ってるのは、」
「あ、秀吉さまからお預かりしました。三成どのにお渡しください。」
 それはどうも、と左近は腕を伸ばしたが、中までお持ちします、と幸村が言う。左近は幸村の顔と中の様子を見比べてから、じゃあ頼む、と身体を避けた。幸村はその隙間から中の様子を伺ったが、これがあの三成どのの部屋だろうか、と思ってしまった程に散らかっていた。書き損じた紙はぐしゃぐしゃに丸めて辺りに散乱しており、足の踏み場を探さなければならなかった。これは、あの、と幸村が言葉を選んでいると、すごい状態だろう、殿の仕業だ、とどこか楽しそうに左近は言った。
「本人が不在なんで、ちょっと片付けようかと思ったんだが、ごみが後から後から出てくる。中々終わらないだよ、これが。」
「お手伝いしますよ。あの、これは、本当に三成どのが。」
「無精なんだよ、殿は。人使いは荒いが、それ相応のものを報いてくれるから、まあ俺もそこまで不満じゃないわけだが。」
 愛されているなあ、と幸村は思った。が、口にはしないでおいた。三成の下で働く者は、いつも忙しそうではあったが、どこか楽しそうな表情をしていることに幸村も気付いていた。

 四半刻ほど経った。けれども三成は依然として姿を見せなかった。二人がかりで片付けているおかげだろうか、部屋はなんとか人並み程度の小綺麗さを取り戻していた。
「幸村、今日は何か予定入ってるか。」
「いいえ、特にはありませんが、」
「悪いが殿を呼んで来てもらえないか。久々の休息ぐらいゆうゆう取って頂きたいんだが、この通り、仕事が片付いてないんでね。」
 捨ててしまう紙束とは別に、文机の上には山のように書類が積まれていた。その量を処理しようとなると、流石の三成とて一日では終わらないだろう。幸村には内容までは分からなかったが、急がなければならない仕事だということが何となく窺い知れた。三成のことだ、間に合わないと分かれば夜を徹して取り掛かるだろう。幸村は薄明かりの中、文机に向かって紙とにらみ合っている三成を思い浮かべ苦笑した。そうならない為にも早く呼んで来なければ、と幸村は立ち上がる。
 ふと視線を前にやれば、左近の背が一番に飛び込んできた。この人は変わらないなあ。幸村は思う。武田に居た頃からその空気も何も変わらない。変わってしまったのは、自分たちを取り巻く環境だけだ。
「左近どの。」
 なんだ、と振り返った。幸村は声を掛けておいて、彼が振り返った途端に言葉を忘れてしまった。とても些細なことだったせいで、呼びかけることに満足してしまったようだ。幸村はええっと、と言葉を探したが中々に見つからない。ええっとですね、左近どの。誤魔化すようにもう一度繰り返すと、今度はすんなりと言葉が出た。
「いつかお酒でも飲みませんか。」
 左近は突然の幸村の申し出に驚いているようだった。幸村は自主性のある男ではなかったし、その相手がまさか自分に降って来るとは考えもしていなかったのだ。幸村はいけませんか、と左近の返事を待っている。
「俺でいいのか。俺は武田を捨てた男だぞ。」
 捨ててません、あなたはあなたの言葉を守っただけです。幸村はそう言いたかったが、まず何よりも最初の言葉を否定したくて、続けなければならない言葉を忘れてしまった。
「はい、左近どのでいいのです。」
 むしろあなたがいいのです。と幸村は心の中だけで呟いた。だって何だか、想い人に告げる台詞のように思えたからだ。左近は幸村の返答にまたしても驚いたようだが、すぐに表情を改めて、じゃあいい酒でも仕入れときますよ、と廃棄する紙束を抱えて足早に部屋を後にしたのだった。


 さて、三成探しである。左近の言では城下へと行ったらしいのだが、三成が人ごみを好むとは思えなかった。人の少ない方へ少ない方へ、と歩いていくと、終いには町外れにまで来てしまった。簡素な作りの家が数軒並び、一台水車も回っていた。
 果たして、三成はそこに居た。自然に出来た池だろうか、その水面を座り込んだままじっと見つめていた。
「三成どの。」
 幸村が驚かさないように、控えめな声をかけたが三成は気付かない。
 段々と声を大きくしていくと、三回目でようやく彼が顔を上げた。声のした方を探っているのだろう、辺りを見回し幸村の姿を見つけると、ばつの悪そうな顔で、ああ幸村、とだけ呟いた。
「何を見ていらっしゃるのです。」
「魚を見ていた。昔は俺も素手で魚を追い掛け回したものだ。」
 水面に陽の光が反射して、きらきらと輝いていた。その中を悠々と何匹もの川魚が泳いでいる。
「私はどちらかと言えば、山で兎や猪を追い掛け回していましたよ。」
 そうか、と無関心そうな三成の声が返ってくる。幸村は嬉しくて、会話の合間にくすくすと笑った。

 二人が静かに水面を眺めていると、岸近くに一匹だけ寄ってくる魚があった。慣れた者であれば、すぐに捕まえてしまうだろう。ちらりと隣りを窺えば、同じようなことを考えていたのか、三成が静かに立ち上がった。影にならぬように回り込みながら、着物の裾をたくし上げた。幸村はその様を目を細めて眺めている。奔放な彼が眩しかったのだ。この人は冶部少輔と呼ばれようが、何も驕らないのだなあと思うと、彼の所作一つ一つが眩しく映った。
 ゆっくり、けれども確実に魚を追い詰めていく三成の手の囲い。ああもう少し、あと一息。幸村は思わず身を乗り出した。魚が逃げる、三成の手がそれを追い掛ける。ああ、捕まる。思った瞬間だった。
 あっ、と幸村は声を上げた。突然のことに驚いた三成は、折角追い詰めた魚の、手の囲いを解いてしまった。すみません、と幸村は頭を下げたが、三成は幸村を咎めることなく、よい、と無愛想な声を返した。らしくないことをした、と先程の己を悔やんでいるようだった。僅かに頬を染めた紅は羞恥であろう。
 一方、川魚は救いとなった幸村の存在など知らず、ひれをゆらゆらと動かして悠々と泳いでいる。
(この魚は私だ。自分の世界しか見えていない。三成どのは、そんな私に世界を見せてくださる。けれど川から上がった魚は生きてはいけない。狭い世界で悠々と生きる。私は、)
 すくわれたくはないのか。そう考えが至り、絶望した。
「三成どの、すっかり忘れていたのですが、左近どのが呼んでいました。お出掛けになって、二刻は経っているようです。」
「早く帰らねばならないな。秀吉さまからも催促が来るだろう。」
 三成は手ぬぐいで濡れた足や手を拭いている。幸村は言ってしまうべきか迷ったが、今日の沈黙は幸村には優しくなかった。
「秀吉さまは、明への出兵を本気で考えていらっしゃるのですか。」
 三成は、ゆっくりと幸村に視線を向けた。驚いているようでもあり、訝しんでいるようでもあった。幸村には三成の視線こそが痛かったが、決してそらすことをしなかった。
「いつまでも戦は終わりません。終わりなどあるのでしょうか。」
 終わらぬ、という言葉が欲しかった。たとえそれが嘘や偽りだったとしても、終焉がないということは、何よりも優しかった。けれど、三成はそのぬるま湯のような優しい言葉を持ってはいない。幸村は否定されるだろうことを分かっていたが、それでも訊ねずにはいられなかった。私は、戦なき世で生きていけるのでしょうか。
「幸村。いつか戦はなくなる。そんなことばかりしていては、人は生きてはいけん。」
 はい、はい。幸村は三成の言葉にただ頷くばかりだ。三成の言葉はどこまでも正しい。幸村は彼の言葉が理解することは出来ても、認めることが出来なかった。その時私は、どうやってあなた方の盾になればいいのですか。三成はその答えを知っているだろう。幸村は漠然とそう感じたが、答えを他人に求めることを知らぬ幸村の口から、いつになってもその問いは飛び出さなかった。
 水面には懲りることを知らない川魚か寄ってきていた。
(すくわれてしまう。)
 三成の手にこの魚は大きかったが、それでも彼は諦めることを知らぬ存在だったのだ。