一、過去をすこしだけ
夏祭りの季節になった。三成は相変わらずの多忙ぶりで、幸村が誘っても時間を割くだけの余裕がなかった。幸村は丁度秀吉に挨拶に来ていた兼続と共に城下へと降りた。二人の楽しそうな後姿をうらめしそうに見る三成に気付いていたのは、兼続だけだった。
兼続と二人で歩いていると、すれ違う者が振り返っては二人の背中に視線を送る。幸村は、はて何だろう、と思ったが、きっとこの着物が派手すぎるのだ、と結論付けて考えないことにした。今も、村娘が幸村たちに熱視線を送っているのだが、幸村はその意味を考えようとはしなかった。
「幸村、見事に注目の的だ。」
ほら、と兼続が顎で示した先には、若い村娘たちがきゃいきゃいと二人を見つめていた。兼続はそれを見て楽しそうに笑っている。幸村からは彼の横顔しか見えないが、こうして改めて眺めてみると、彼女たちが騒いでもおかしくはない程の美丈夫だ。比較対象が三成であることと、あまりに近い存在であるが為にその事実に気付くのが遅れてしまったようだ
「兼続どのの隣りを歩くのは、少々心苦しいものがありますね。」
「ほう、それはどうしてだ。」
「折角の祭りの夜を、私のような男が一人占めしてよいものか、と。」
兼続は幸村の言葉にきょとんとしていたが、次の瞬間には大声で笑い出していた。何かおかしなことでも言ってしまったのだろうか。幸村は困り果てて辺りを見回したが、助け舟を出してくれそうな人物はいなかった。
しばらくすると兼続の笑いも治まった。兼続どの、笑いすぎです。幸村がそう言うと、すまないすまない、と反省した様子が全く見受けられない声で、兼続は返事をした。
「折角の祭りの夜だ、お前と過ごさずどうしろと言うのだ。」
その一言に、幸村はどういった返事をするべきなのか分からず、言葉に詰まった。そう仰ってくださるのは心底嬉しいのですが、何とも響きが不穏な気がするのです。言ってしまっては、兼続の不興を買うだろうか。それとも、また先程と同じように大笑いをするだろうか。
「幸村、」
声と同時に、兼続は幸村の合わせ目の辺りをするりと撫でた。
「良い着物だな。おまえに朱は良く似合う。」
「これは義姉上が繕ってくださったもので。あの、少々派手ではありませんか。」
「祭りの日は少しぐらい羽目を外すものだ。それに言っただろう、おまえに似合っているよ。」
「しかし、」
朱や赤のような明るい華やかな色は、女子や童の着る色だと思っている幸村にとって、兼続の言葉が素直に受け取れなかった。ああきっと、兄上の仕業に違いない。昔と同じ感覚で、源二郎には赤がいい、と稲にこぼしてしまったのだろう。先日の意趣返しも込めて、稲はその助言を受け入れたのだろう。女子が着用する色だと知っていながら。
(ですから兄上、私と義姉上で遊ぶのはよして下さい。)
心の叫びを確実に兄は察しているだろう。しかし彼の態度が改められる日が来ないことを、幸村は知っていた。
戦がなくなって十年になろうとしていた。その空白は、人々に安穏をもたらした。作物は実り、経済は発展した。今宵の祭りも大変な賑わいとなり、たくさんの人で溢れていた。これははぐれてしまうかもしれないな、と兼続は冗談めかして言っていたが、共に金魚すくいをして、人だかりになっている店から離れようとしている時にどうやらはぐれてしまったようだ。幸村が人波に流されるようにして、店から押し流された時には、兼続の姿はどこにもなかった。
互いに子どもではない。そのうちに見つかるだろうし、仮に見つからなかったとしても、戻るところは決まっている。折角の祭りに兼続とはぐれてしまったことは非常に残念だったが、子どもの頃に味わったような孤独はなかった。帰る場所があるというのはいいものだと純粋に幸村は感じた。
「幸村、幸村じゃないか。」
唐突に呼びかけられ、幸村は辺りを見回した。喧騒の中呼ばれた為、どこから声がしたのか分からなかったのだ。
「こっちだ、こっち。」
人波の中、大きく手を振っている人物が居る。背が高いその男は、人ごみの中でも頭一つ分は軽く抜きん出てていた。また、その格好も人よりいっそう賑やかなもので、否が応にも人目を惹いた。彼の姿に比べれば、自分はそこらに居る少し着飾った者たちとなんら変わらない気がして、無性におかしかった。
「慶次どの、大坂へいらしていたのですか。」
「所用でなァ。あんた、珍しい格好してるねェ。似合ってるぜ。」
そういうあなたこそ。幸村はそう言ったが、慶次はこういった格好じゃないと落ち着かなくってねぇ、と笑っていた。
「あんた、連れとはぐれたのかい。探してやろうか。」
「いえ、いいのです。それよりも慶次どの、少し、話しませんか。ここは何かと、その。」
「まあ喧しい、からな。静かなところへ行こうか。あんまり人に聞かれたくはない話だろうしな。」
ああ見透かされてる。幸村はけれども不快には感じなかった。幸村は慶次の大らかな空気が好きであった。三成の清廉な雰囲気も、兼続の穏やかな雰囲気も共に愛したが、慶次の大らかで賑やかな空気は二人にはなかった。
祭りの中心からは外れてしまったが、屋台がちらほらと点在している。慶次は手頃な石の上に座りこみ、ほら、あんたも、と隣りを指した。幸村も彼にならってそこに腰掛けた。
「ここも活気付いて来ましたね。」
「ああそうだな。戦がなけりゃあ、人は楽しく生きられるってもんだ。」
「けれど、中々戦は終わりません。人は戦と無縁では生きてはいけません。」
幸村は目を細めて、遠い水平線を思い浮かべた。初めて海を見たのは、上杉へと人質に出された時であった。この海の向こうにもたくさんの国が広がっているのだと聞き、幸村は単純に心が弾んだ。
「明への侵攻はもう止められない。孫市が説得に行ったんだが、どうにも良くない。」
「それが、所用で。」
「あと、阿国さんの護衛もだな。病が良くなるようにと舞を奉納したかったんだが、秀吉の調子が大層悪いらしい。滞在が伸びそうだ。孫市もその間は説得を続けるようだがな。」
「戦は避けられませんか。」
「孫市の話じゃあ、避けられないねェ。」
ざわり、と心が揺れた。実戦から離れてどれほどの年月が経っただろう。それなのに、この心は血は身体は、戦の熱にうかされて、すぐに熱くなってしまう。
「もし、もしですよ、慶次どの。どこか、兵をほとんど出してしまった大坂を攻める軍があれば、どう思われますか。この堅牢な大坂城とて、容易く陥ちるでしょう。」
「そりゃあいい。傾奇いてるねェ。」
「もし、私が、」
慶次が幸村の腕を掴んだ。思わず言葉が止まった。もし、私が、真田の軍が、大坂を攻めれば。言わずとも慶次には伝わっていた。けれど慶次はその言葉を言わせない。強く幸村の腕を掴み、真剣な表情で幸村の言葉に首を振った。
「やめな。踏み潰されるだけだ。明への出兵が中止されはしないだろう。乱世の再来もないだろう。戦らしい戦も出来ず、あんたは死んじまうよ。あんた、戦がしたいんだろう。それなのに、この気狂いじみた出兵には反対してるな。まあ、あんたじゃなくてもそうするだろうが。」
「私は、戦が好きです。戦がなくなっては生きていけません。」
けれど。幸村は視線を落とした。
「けれど戦になれば、三成どのが悲しみます。私は、だから戦わずしてすむのであれば、その道に縋りたいのです。」
沈黙が降りた。幸村は慶次の出方をひたすらに待ったが、慶次も幸村の方からこの空気を破る言葉を待っているようだった。人の往来は少なかったが、祭りの賑やかさが聞こえていた。祭りの日に相応しくないことを話してしまった。幸村はそう思い、兼続を口実に立ち上がろうとしていた。やはり連れを探しに参ります。そう言おうと口を開いた。その時だった。にわかに人のたくさんの声が爆発した。何事だろう、と無意識に二人して立ち上がっていた。
騒ぎの中心は、幸村たちが会話をしていた場所からさして遠くはなかった。
「そちらのお嬢さんが嫌がっているだろう。不義にも程があるぞ。」
「そうどす、そうどす。うちはお連れの人探して忙しいんどす。」
「だから、それを手伝おうと、」
「結構だと言っているのが分からないか。義もなく、愛もないと見受けたぞ。」
ああ、間違いなく兼続どのだ。幸村が人だかりの出来ている騒ぎの中へと入ろうとする。それに慶次も続いた。
「阿国さんだ。孫市と一緒だと思ったんだが、はぐれちまったんだねェ。」
「私の連れが一緒のようです。探す手間が省けたのはいいのですが、この騒ぎは、」
「あんたの連れにしちゃあ、面白い。」
あなたはまた、人事だと思って楽しんで。幸村はそう小声でぼやいたのだが、慶次が大声で笑い出したものだから、耳聡く聞かれてしまったことを覚った。
「阿国さん、迎えに来たぜ。」
「あら慶次さまぁ。おおきに。」
「兼続どの、見つかってよかったです。」
「幸村。再会を喜びたいのは山々だが、私はこの男に義の鉄槌を下さねばならないのだ。」
「祭りの夜です、多目に見られてはいかがですか。大事はなかったのでしょう。」
しかし、不義を放置したとなれば、不義がはびこるばかりだ。この祭りの熱にうかされただけなのでしょう、無礼講が過ぎただけだと思いますが。幸村は兼続をなだめながら、ちらりと阿国に声をかけていた男に視線をやった。さあ、今のうちに。幸村はそう言うように男を見た。それに気付いたのかは分からないが、兼続が幸村の言葉に気を取られている間に、その男は姿を消していた。
「幸村、不義の輩を逃がしてしまったぞ。」
男が逃げ去ってからしばしして、兼続はようやく気付いたようだった。幸村はしらっとした顔で、あれ、そうですね。と返答した。
「兼続さま、幸村さま、ほんにおおきに。」
「じゃあ俺たちは行くぜ。孫市も迷子のまんまだしな。」
大の男を迷子と呼んだ慶次に幸村は一人笑いがこみ上げてきたが、なんとか押し隠した。
「お探ししましょうか。この中をお二人で探されるのは、中々骨の折れることでしょうし。」
「気ィ遣うなよ。折角の祭りだ、あんたらはちゃんと楽しみなって。」
「いえ、すぐに見つかりますので。」
そう言って、幸村は六郎の名を呼んだ。幸村の背後に突然気配が降って沸いた。流石の兼続、慶次も驚いたようで目を見開いていた。
「真田忍びの望月六郎です。この者に探させますので、しばしお待ちください。」
現われた時と同じように、音もなく姿を消した。幸村は三人が呆気に取られている間に、素早く唇を動かした。今度は音にすらならなかった。真田の忍びの間のみで伝わる、独自の読唇術であった。
(海野の六郎は、そのまま孫市どのの後をつけてくれ。つなぎは望月の六郎に。)
間もなく孫市の居場所を見つけた六郎が、幸村に報告をしに戻ってきた。
「それじゃあ、俺たちは行くぜ。ありがとうよ、幸村。それに、直江兼続さんとやら。」
「いいえ、大したことはしていませんから。」
「うむ、不義は見過ごせぬからな。前田慶次どのと顔見知りになることが出来、こちらこそ嬉しいぞ。」
「いいどすなぁ。男同士の友情やわぁ。うちも仲間に入りたいどす。」
「あ、それと幸村。」
すでに踵を返そうとしていた幸村たちだが、呼び掛けられて止まった。慶次は緋色の羽織を脱いで、幸村の肩にそれを被せた。中は群青色をした生地に、流行の柄が縫われていた。阿国が隣りで感嘆の息を漏らす。
「あんたにやるよ。一目見て、あんたに似合いそうだと思ったものだしな。」
「え、でもこんな高そうなものを。それに慶次どのの召し物は大きいですし。」
「いいんだよ。金も衣もなけりゃあないで生きていけるが、折角の華を嗜む心意気忘れちゃあ、傾奇者の名折れでねェ。」
まだ言い足りない幸村だったが、二人が人波に飲み込まれていったのを見届け、諦めのため息をついた。仕方なく袖を通してみたものの、やはり衣は大きく、むしろ羽織に負けている気がした。やはり、私には似合わないのでは、と脱ぎかけたのだが、今度は兼続が止めた。おまえに似合う色だから、脱ぐのは勿体ないぞ、と兼続は笑っていた。
祭りも終わりに近付いていた。帰っていく人々が段々と増えていく。幸村は兼続の後ろ姿を見ながら、ふと彼に見せてもらった海の景色を思い出した。水面がきらきらと輝いていた。青とも水色とも表現できぬ色が辺り一面に広がっていた。幸村はその大きさに初めは恐怖し、次に畏怖した。そして、なんと広大なことか、とただただ憧れた。今もこの海の向こうで戦が続いているのだと思うと、血が滾った。
「そう言えば、兼続どのもそろそろ出立されるそうですね。」
突然に話を振られて、兼続は振り向き様に戸惑いの表情を見せた。兼続、三成は明へと出向くことが既に決まっていたが、真田家には未だその達しがなかった。羨ましいのでしょうか私は。きっと兼続だったならばその答えをくれるだろうと信じていたが、幸村は言葉にすることが出来なかった。
「兼続どの、豊臣は、秀吉さまはどうしてしまったのでしょう。このまま明への侵攻を続けるのであれば、豊臣は傾いてしまいます。その時三成どのはどうするでしょうか。」
「幸村、祭りの夜だ。戦の話をするものではないよ。」
それもそうですね。幸村はそう笑ったが、けれど、と言葉が続いたことで、兼続は顔色を曇らせた。遠い遠い、硝煙のかおりに心馳せながら、幸村は目を細めた。
「けれど、私は戦しか知りません。戦の話しか、出来ませんよ。」
さて、出店もそろそろ閉まる頃でしょう。三成どのへの土産を買って、帰りましょうか。
幸村がそう言って歩き出した。兼続が幸村の腕を掴んで引き止める。幸村はその瞬間、動揺して息を飲んだが、呼吸を整えてゆっくりと振り返った。
「幸村。私が教えられることなら何でも教えよう。だから、そのようなことを軽々しく口にしないでくれ。」
「はい、すいません、軽率でした。」
幸村はそう言って頭を軽く下げたが、ちらりと様子を伺った兼続の表情は納得出来ていないようだった。
(私は、すぐにばれてしまう嘘しか吐けぬのです。すいませんすいません。)
幸村は今この時だけは、先の言葉を真実にしたくて、掴まれている兼続の手に、己のそれを重ねたのだった。