一、ぼくはひとりです


 秀吉が亡くなった。豊臣はたった一人の男の死で、急に浮き足立っていた。皆が危惧していた事態が起こっていたが、誰もその事態を収拾できていない。家康が段々と頭角を現してきたことは誰の目にも明らかであったが、三成にも彼を抑制させるだけの力はなかった。豊臣の世は、秀吉の死と共に終わりを告げていたのだ。けれどもそれを認められない者たちは確かに居た。それは仕方のないことであったし、幸村もまたその人物を近くで見ているだけあって、気持ちも豊臣に傾いていた。
 そのような、諸士の心中が不安定な時節である。幸村の許に一人の男が訪ねてきた。面識はあったが、特に交流のない男であった。しかし幸村は一目見た時から好意を持っていた。その野心を失わぬ眸は、幸村の生きた時代の象徴であった。この男の眸は今も乱世が忘れられぬ幸村にとって、一番近い存在だと感じていたのだ。
「政宗さま。何用でございましょうか。」
 兼続、三成は政宗を嫌っている。政宗が幸村の許を訪ねたことがばれれば、二人に不愉快な思いをさせるだろう。特に兼続にいたっては、不義の極みだ、と言って一日中義とは愛とはの談義に入りかねない。幸村の行動は慎重だったと言えるだろう。
 相手の出方を伺うようにした幸村とは反して、政宗は不敵に笑っていた。やりとりを楽しんでいるようにも見えた。その言葉一つ一つに、乱世の面影を感じられた。昔はこうやって相手を調略したものだ、相手を陥れたものだ。幸村は政宗のまとっている、子どものような尽きぬ好奇心や野心といった荒々しい空気が好きなのだ。
「おぬしと話がしたくなった。そのうちに戦が始まろう。その時はこうして話をする時間もないわ。今のうちに、安穏を満喫しておかねばな。」
 はあ。と気のない幸村の声が漏れた。


 政宗のその言葉は唐突であった。幸村は思わず身体をかたくした。辺りの気を探ったが、忍びの気配はなかった。
「豊臣を捨てよ。いつかは豊臣と徳川の間で戦になろう。その時、おぬしは徳川につけ。」
「……。」
 幸村は無言を貫いたが、それこそがまさに答えであった。徳川につく気など毛頭ない。政宗はため息をついて、先の幸村と同じように辺りを見回した。しかし気配を探っているわけではなさそうだ。
「おぬしは多くの人に囲まれながらも、ひとりを貫いておる。何故そうも人を寄せ付けん。いい加減無関心を装うのはやめるのだな。おぬしは己の足で立つことも、己の戦う意味も見つけられん男じゃ。」
「なれば、申し上げます。私は豊臣の為、三成どの、兼続どのの為に戦います。これこそが私の戦う意味、そして私の存在意義そのものでございます。」
「ふん、それこそ傲慢じゃ。」
 政宗は幸村の鼻先近くにまで顔を寄せ、幸村の顔をまじまじと見た。この眸に気圧されてはいけない、と幸村も負けじと見つめ返した。ああ。私はあなたの眸が好きです。二人は、同じ時代を生きた者にしか通じぬ思いを、その眸だけで語り合った。
「石田三成は、未だ地に足がついておらん。直江兼続に至っては、あれこそ不義そのものではないか。」
「いけませんか。」
 政宗がその鋭い眼光を幸村に向けた。射抜かれる、とはまさにこのことを言うのだろうなあ、と幸村は思った。戦慄という言葉が幸村の中を駆け抜ける。意識せず、背筋が伸びた。
「いけませんか。私は、だからなのかもしれません、ただ、あの方々が大切なのです。」
「狂っておるわ、おぬしも、あやつらも。死に花を咲かせることのみが、武士の生き方でもあるまい。」
「すでに、天下を捧げたかった主家は滅んでおります。」
 政宗と幸村はとても近しい存在であったが、この一線が違った。己が天下人になる夢を見飽きぬ政宗と、主に天下人たる器を見出した幸村は、その熱の方向が違ってしまっていた。すでに武田はない。幸村は天下を欲したことなど、一度とてなかったのだ。
「真田が天下を獲るも、それはそれで一興じゃ。おぬしの親父どのはその野心が剥き出しであろうに。」
「政宗さまには遠く及ばず。それに、父では天下は獲れますまい。」
 幸村は昌幸の智謀を幼い頃から近くで見ていた。確かに、昌幸に采を取らせれば、城など容易く陥ちるだろう。けれど幸村は、父に天下に号令するだけの器量を認めてはいなかった。父は子どものように、いつまでも前を見続けている。いつまでも野望に満ちている。けれど、
(兄上の器量には優るまい。)
 幸村は、兄こそが天下人に相応しいと思っていたが、兄がそれを望んでいないこと、考えも及んでいないことを知っていた。もし、兄上が天下が欲しいと動き出したのであれば、
(私はもしかしたら、兼続どのも三成どのも切り捨てて、兄上の為に天下を目指すのではないか。)
 その妄想は不愉快ではあったが、幸村は否定しなかった。そうならないと知っていたが、仮定の話であっても、己が彼らを切り捨てると確信したことに自己嫌悪をしていた。
「政宗さま、私はあなたの下知で戦ってみたかった。あなたならば、私の力を存分に使ってくださったことでしょう。けれどそれも、叶わぬ話です。時勢が許してはくれませんでした。」
「ならばこそ、だ。真田の家を捨て、わしの許へ来い。冶部も山城も捨て、ただわしの為に槍をもて。そう遠くない未来、おぬしに天下を見せてやろうぞ。」
 この方であれば、いずれ。幸村はそう彼の眸に感じたが、幸村はその甘い誘致に頷けなかった。あなたを主家としろと仰るのですか。私は戦が終わったその時に死にたいのです。あなたならばもしかしたら、再び乱世の風を起こしてくれるやもしれません。私はその乱世の中を死にたい。けれど、それも無理な話です。乱世は二度と起きぬでしょう。皆が戦を忘れてしまったからです。私のような生きた亡霊ですら、ただ懐かしむだけのものに変わってしまいました。もう、もう、あの乱世の熱ですら、遠いのです。
「天下が見たいのではありません。私は、武田の天下が見たかったのです。」
 遠い遠い、硝煙のにおい。戦のにおいが、段々と遠ざかっていく。
「政宗さま。お願いがございます。」
 深々と手をつけば、慣れた様子で鼻を鳴らされた。機嫌を損ねたことを幸村は覚ったが、下げた頭を見せつけるようにゆっくりと顔を上げた。
(武士というのは、敵であれ、優秀な士を死なすのが惜しいものでございましょう。私のこの思いは自惚れしょうが、私とあなたの思いの底は、きっと同じだと、今だけは勘違いさせてください。)
「最後の戦、私とあなたさまはきっと敵同士でしょう。いえ、必ずや、私はあなたに槍を突きつけることでしょう。その時、みじめな負け戦を興じる私を、どうかどうか、政宗さまの御手で、そっ首、はねて頂きたいのです。」
 私はあなたの武士としての雰囲気が好きです。もうほとんど失われてしまった、あの狂気じみた義が、あなたにはあります。


 政宗は幸村の言葉に、じっと身体をかたくして、幸村を見つめていた。この空気が、今の幸村にとって何よりも尊いものだった。肌をぴりぴりと刺激する、彼の視線が心地よかったのだ。
 政宗は一向に視線を外そうとしない幸村に根負けしたのか、ため息をついて目をそらした。ぴんと引き締まっていた空気が、彼の吐息が漏れたことで弛緩した。
「よいか幸村。時代の流れも読めぬ馬鹿ではあるまい。既に豊臣の世ではないわ。徳川につけ。」
 知っております。秀吉さまがお亡くなりになった今、豊臣の核となるものが何もありません。
「おぬしはそうやって真田を潰すことになるのだぞ。分かっておるのか馬鹿め。」
「真田は兄上が居る限り、安泰です。私なんぞが杞憂する必要などありません。」
 政宗は衝動を無理矢理に押し込めたようであったが、幸村の既に道を決めてしまった顔を見て、ああもうどうでもよいわ、と思ったのだろう、憎々しげに、最後に一言吐き捨てていった。
「死に急ぐでないわ、馬鹿め。」