一、とけていく向日葵


 日が暮れてしまう、日が暮れてしまう。幸村はそう繰り返し思いながら、沈んでいく夕日を眺めていた。兼続が上杉景勝の代わりに前田利家の見舞いに来ていた。しかし、時がわずかばかり遅かった。本日、三月三日をもって、利家は息を引き取ったのだ。
(暮れてしまう、暮れてしまう。)
 あんなにも眩しかったひが、あんなにも輝かしかったひが、おわっていくおわっていく。
「幸村さま、準備、整いました。いつでも出れます。」
 くのいちがそう告げる。その後ろには、小助、六郎を初め、十勇士の内八人が並んでいた。幸村はゆっくりと振り返り、無言で頷いた。大坂に幸村の手勢はないに等しい。幸村が率いる軍団は、自然と忍びが大幅を占める隊になる。
 幸村はもう一度夕日を見上げた。空を橙色に染めて、今この瞬間を、鮮やかに彩っていた。幸村は、この瞬間が好きであった。己も、最後の最期は、夕日のように鮮やかに、跡形なく散りたいと思っている。さかりの時期がおわってしまう、楽しかった日々が、段々と夕日に溶けていくように錯覚した。
「加藤、福島、黒田、動きましたッ」
「細川、浅野、脇坂、こちらも同様。」
 佐助と才蔵である。幸村は静かに障子を閉めた。既に幸村も具足を纏っている。
「ゆくぞ。三成どのの援護に向かう。」
(ああ、おわってしまう。)
 既に、ひは暮れかけていた。





 幸村が二条城近辺へと到着した。時を同じくして兼続の軍勢も着陣している。しかし彼らよりも早く、二条城は加藤清正らによって包囲されていた。それらとは別に、慶次の姿があった。幸村は思わずその姿を凝視した。慶次も幸村の視線に気付いたようで、いつかの日のように馬を寄せて来た。
「よう、幸村。来るとは思ってたが、早かったな。」
「慶次どのこそ、どうしてここに。」
「叔父貴が亡くなったその晩に闇討ちとは、気に入らなくてねェ。加勢しに来たってわけだ。」
 幸村は真っ直ぐな慶次の視線に、思わず目を伏せた。政宗の射るような眸には怯む様子一つ見せなかった幸村も、慶次の陽の光を連想させる無遠慮な眼が直視できなかったのだ。
(もしこの眼が私の心を探るように私の目を覗き込むのであれば、こんなにも戸惑いはしないのに。)
 慶次の視線は、ただ幸村を見つめるばかりで、その真意が分からない。幸村はその視線こそが何よりもこわかったのだ。私には、何もありませんよ。そう己の目が語るのが、こわかったのだ。
「では、慶次どの、私は行きます。長話をしている時間はありません。」
 幸村が馬腹を蹴る。慶次はああそうだな、引き止めて悪かった、と幸村の側を離れる。
「幸村ぁ、あんたの戦う理由ってのは、しんどいやつばっかだな。まあ久々に大暴れしてやるからには、派手にやるぜ。あんたみたいに、楽しませてもらおうか。ああそれと、ふと思ったんだが、あんたと情を交わせばそれはそれで面白いことになっただろうなぁ。」
( 、ああ。)
 慶次どのの言葉は冗談ばかりです、嘘ばかりです。それでも、その言葉は嘘でもなければ偽りでもなく、一瞬を駆け抜けたあなたの本心なのでしょう。けれども、あなたは気まぐれなお方。すぐにまったく違うことを語り出すでしょう。あなたの性は奔放すぎて、私では付いてはいけません。あなたのように戦う理由すら曖昧では槍など持てません。
 幸村はそう彼にぶつけてやりたかったが、それ以前に己の心が戦の熱で浮かれているのだと、見抜かれてしまっていたことに案外に動揺してしまった為、それもままならなかった。もし、慶次とそういう関係になっていたのであれば、幸村は慶次の存在に救われただろう。生き方が変わっただろう。けれど幸村は、盲目の生き方を望んだ。慶次を情人にする程、幸村は奔放ではなかったのだ。幸村は己の考えを振り切って、ただ前を向いて馬を進めた。





「逃げるな。それはただの言葉だ。」
 三成はそう言い、僅かな手勢をまとめ、颯爽と駆けていった。幸村は石田勢の背後を守る左近へ加勢に行くつもりであるから、その背をただ見つめるしかなかった。左近の隊の立て直しが完了次第、再び前線へと戻るつもりだ。
(あなたは三方ヶ原でほうぼうの態で逃げた家康よりも、小さな背をしております。)
 石田三成では天下を治められぬ。幸村は彼の人柄に触れた。その言葉は正に真実であると幸村は思っている。三成の持つおろかなまでに正しすぎる、潔癖すぎる性では、人心を掴むことは出来ないだろう。それでも幸村は、三成の清廉さが好きであった。この方では家康に勝てぬだろう。けれど幸村は、三成の清らかさを守ることが出来る今を、とても嬉しく思えた。
(あなたの声も言葉も、それはそれは厳しいものがあります。されど、あなたのお心は、とても優しいのです。)
 幸村は三成のおろかさが好きだった。三成を理由に戦うということは、負け戦と隣り合わせのようなものである。幸村を支えていた武田と比べ、なんと果敢ない存在だろうか。
「三成どの、三成どの、私はあなたの存在に縋れません。ですからあなたがこぼした、消えてゆく言葉に縋るのです。潔白なお方、本当に心が綺麗なお方。言葉がただそれだけのものだと仰るのであれば、真にそうだと信じているのであれば、今すぐにでも私のこの舌を切ってしまって下さい。」
 幸村の声が人々の喧騒の中へ消えて行く。三成に届くはずもなかった。





 ようやく清正が姿を現した。今回の企ての背後は家康だろうが、公の首謀者は清正である。彼が撤退すれば、この場はおさまるだろう。幸村は大坂暮らしが長い。その間、些細なことですら彼らが揉めているのをこの目で見ていた。罵声を浴びせ掛ける清正、皮肉で応える三成。子どものような喧嘩をしてらっしゃる。幸村はいつもそう思い、その様子がどこか微笑ましく映っていた。今も、ここが鎧がひしめく場でなければ、金属が鳴る戦場の音がしていなければ、幸村はああまた、この方々は、と思うことが出来ただろう。幸村は、静かに加藤勢を見つめた。この男が槍を持つは、ただ真摯に豊臣の為なのだ。そして三成もまた、己の才覚をあますことなく発揮するは、ただひたすらに豊臣の御為である。
(悲しいことだ、とても、とても。同じものに己を捧げながら、見えているものがことごとく違っている。こうならない為に私は、)
 彼らとの間を繋ぐべきだったのではないか。そう思うとねねの好意に泥を塗ってしまったのだと、ひたすらに後悔をした。ねねは三成らの性格を熟知した上で、彼らの誤解を解く役を幸村に譲ったのだ。あの時の亀裂が、互いに傷付け合うものにまで発展しないように。ああ、かなしいことだ。豊臣を愛する心は同じだというのに、彼らが豊臣を滅ぼす原因を作ってしまう。
(もし、この場におねねさまがいらしたら。)
 幸村はふと考えてしまった。言葉がするりと零れだしてしまった。きっと、ねねはわらうだろう。怒ることも絶望することもせず、ただただ、哀しげにわらうだろう。ねねは豊臣を愛したように、三成、清正らの生き方をも愛し、干渉しようとはしなかった。ねねは豊臣が滅ぶそのことよりも、彼らが互いに槍を向け合うそのことにかなしむだろう。大切な我が子が、と。
(かなしいことだ。些細な食い違いが、槍を向け合う状況をつくりだすなど。)
 幸村は、加藤勢と三成の間に割り込み、ゆっくりと槍先を加藤勢に向けたのだった。





 加藤の進撃を食い止めた幸村たちは、一先ず戦線を離脱することができた。兵を休めつつ、これからを話し合わなければならない。特に殿(しんがり)を務めている左近に疲労の色が濃い。左近が深く息をつきながら、話を切り出した。
「これからの進退でございますが、」
「佐和山に戻るしかあるまい。」
 三成が不機嫌そうに言う。幸村がちらりと兼続に視線を向けたが、彼は気付かぬふりをして、三成の案の良し悪しを表情に出さぬようにしていた。
「無事辿り着ければいいんですけどねぇ。兵の体力が持ちません。追いつかれて首を狩られるのがおちでしょう。」
「それほど言うのならば左近、お前に何か策でもあるのか。」
「家康を頼るべきかと。」
 三成は勢いよく立ち上がり、勢いのままに扇を放り投げた。鉄扇が土に落ち、くもった音を立てた。三成は目を吊り上げて左近を睨んでいたが、左近も予想していたのだろう、怯むことなく三成の目を見据えている。確かに、普通に考えればみすみす殺されに行くようなものだと思うだろう。いや、たとえ好々爺を装っていたとしても、今回の事件の裏には間違いなく家康がいる。企んだ人物に助けを求めるなど、おかしな話である。そう考えるのが普通である。が、幸村は三成が烈火の如く怒る理由をそうだとは思わなかった。いや、彼が反対する正当な理由の中には多分に含まれていただろうが。幸村は二人の様子を見比べた。三成の無意識に握られた拳が、怒りで小刻みに揺れている。
(家康に頼る己が嫌なのだろう。誰であろう、あの家康に。)
 幸村も自分が彼と同じ立場であったならば、三成の如く反対しただろう。それは、想像をしただけでも鳥肌が立つ程、勘弁願いたい状況だったからだ。
(父上ならば、その場で腹を切る、ぐらいのことはやってのけそうだ。いや、それとも、家康を挑発して、うまくいけば戦に持ち込むことまでを考えるだろう。そこで、華々しく散るのだ。)
 幸村は一人身震いをした。あまりにも甘美な妄想であったからだ。
「三成どの。」
 けれど三成には、華々しく散る美しさが通用しないだろう。生きて生きて、最期の一瞬まで生きることを望むのだろう。それこそが、まこと人の性であろう。
「私も左近どのの意見に賛成です。」
「幸村ッ」
「私も賛成だ、三成。それしか手段がない。」
 三成は三人が三人とも同意した状況にひるんだ様子だったが、傍観を決め込んでいる慶次に気付き、助け舟を求めるように視線を向けた。ああ無駄ですよ三成どの。慶次どのは気まぐれな方ゆえ、差し出された腕をとったものの、いつの間にやら放り出されているのです。
「あんたらで決めてくれよ。俺は小難しいことに興味はなくってねェ。」
 ずるいお人なんです、慶次どのは。幸村は、慶次を見ることだけはできなくて、視線を落とした。まだ慶次の言葉が心ノ臓に残っている気がした。つらくない戦などありましょうか。幸村は言ってしまえばよかった言葉を未だ抱え込んでいるのだ。





 ここから狭い道へと変わっていた。三成だけの手勢では少ないが、兼続、幸村たちがついていけば、すぐに清正らに見つかってしまうだろう。行軍速度も隊が大きくなればなるほど遅れてしまう。三成のとる行動は戦に勝つことではない。無事家康の許へたどり着けるか否かだ。兼続と幸村は足を止めた。ここから先は三成の軍勢だけで進まなければならない。清正らの軍と鉢合わせしても、二人が率いる軍とは戦闘にはならないだろう。むしろ先を急ぐと幸村たちを追い越していくかもしれない。それ程に、
(それ程にあの方たちは、三成どのの首が欲しいのだろうか。)
 幸村はふとそれを思ったが、答えは出なかった。もし、ここで幸村が三成に、清正らに一言でも謝罪してください、と申し出れば、それが聞き入れられれば、彼らの憎しみもいくらかは薄らぐのではないか。けれど三成は、己が悪いと思っていないことに頭が下げられる程、融通の利く性格ではない。それでも、ああそれでも、
(たった一言であっても、己の非を詫びるのであれば、あの方々はそれだけで怒りの矛先を失うのではないだろうか。)
 幸村はそう考えたが、三成がそのたった一言をしぼり出せないことまでも知っていた。本当に本当に、潔癖でわがままで、不器用な人であったのだ。

「我々が供を出来るのはここまでだ。」
「三成どの、左近どの、お気を付けて。」
 馬上で二人が頷く。幸村はスッと目を細めたが、背を向けた二人は気付かなかった。
「幸村。」
 名を呼ばれたが、三成が振り返る素振りは見せなかった。僅かに進めた馬の足を止めている。
「先は気を悪くさせたな。気にするな、ただの戯言だ。」
 いえ、とても三成どのらしいと思いました。そして、私の心情をよくご存知だ、と。けれど幸村は返す言葉が見つからない。沈黙が流れた。幸村は彼に誤解をさせているのだと伝えたかったが、彼の言葉に首を振れば、先の彼を否定することにならないだろうかと思った。私はどこまでもあなたの背を追い続けます、ですから、あなたが、たかが言葉に振り回されて、私に不信を抱く必要など、それこそ無意味なものですよ。
「、三成どの、」
 喉の涸きが今になって感じられた。掠れた声しか出なかった。三成は幸村の声に反応したようだったが、幸村が続きを紡ぐ前に馬腹を蹴った。三成は何も言わず駆け出したが、三成の背を守るようにして同じように蹴る足に力を入れた左近は、ひらりと上半身だけをこちらへと向けた。
「援軍ありがとうございました。では。」
 幸村が何を考えるでもなく一歩を踏み出した。あとから考えれば、まるで、待って、と言っているようだと思ったのだが、その時の幸村にはそこまでの余裕がなかった。
(まだ、あなたとの酒の席を設けていませんよ。)
 幸村の心の言葉は、血のにおいが混じる場には相応しくなくて、すぐに己の中で溶けてしまった。逃げるなと言った三成こそ、幸村の言葉を待たずに去ってしまっている現状に、幸村はふと笑い出したくなったが、なんとかその衝動を押しとどめた。
(三成どの、生を急ぐのは私の役目ではないのですか。そんなに急いで、その眸に何を焼き付けようとしているのですか。)

 行ってしまった。今ももうもうと土埃が舞っている。幸村は静かに息を吐いた。同時に兼続が笑い出したものだから、幸村は咄嗟に兼続に視線を向けてしまった。
「あれも、己のことを多少なりとも分かってはいるだろう。しかし、ああいった生き方しかできまい、いまさら己の生き方を変えるなど、困難だろう。」
「はい、とても難しいことです。」
 幸村はすぐに兼続から視線を外した。彼の言葉には存在感がありすぎて、時々その言葉に飲まれてしまうからだ。
(いまさら、この豆が潰れ、潰れたまま固くなってしまった、槍の重みが染み付いている手に、違うものを持てと言われても、それは困難なのです。)
 兼続は突然に幸村の顔を覗き込んだ。幸村は動揺し、肩がはねた。兼続が楽しそうに笑っている。
「最早後戻りは出来ぬぞ、幸村。時代が動く。さて、変動の後、私たちは生きているだろうか。」
 戦におもむくのです、生きながら死んでいるようなもの、死ぬ為に、ゆくものでしょう。
 しかし幸村はその言葉すら声には出せず、
「勝てますよ。ええ勝たねばならないのです。兼続どのがいらして、三成どのもいらっしゃる。勝たねばなりますまい。」
 どうにかしぼり出した言葉が、まるで独り歩きをしているようだった。