一、糸きり鋏


 夏の盛りである。上杉討伐ため、真田家も会津へ向けて出発していた。そこへ、真田家宛てへ文が届いた。三成からの手紙である。内容は家康討伐の旨が書かれていた。同時に、大谷吉継からも同様の手紙が届いていた。幸村は吉継の娘と婚約していたが、まだ幼いことを理由に輿入れはされていなかった。幸村は秀吉にその才を認められている吉継を尊敬しており、彼を義父と呼べることに喜びを感じていた。しかし吉継はその慧眼から、三成と家康の対立を見越しており、三成と親交の深い己は西軍に属すこと、そして三成では家康に勝てないことまでを察知していた。吉継もまた幸村という気持ちの良い男を好いていたが、己を理由に将来希望ある男が敗将の烙印を押されることを恐れ、その輿入れを長引かせていたのだ。既に信幸は稲姫との婚姻を済ませており、真田が徳川へ属するのは当然のことであったからだ。

 幸村は二人の書状に軽く目を通しただけだった。読まずとも内容は分かっていたからだ。西軍に属するように、と促す三成の文と、決して西軍についてはならない、と諭す吉継の文。
 昌幸は子どものように頬を紅潮させ、信幸は表情一つ動かさず、その文を静かに読んでいた。真田の進退を決める為の集まりだったが、話し合うまでもなく皆の心は決まっていた。幸村は兄の心情をよく知っていたし、兄の信幸もまた、幸村の思考を知っている。その二人の親である、昌幸は自然とそのことを覚っていた。
(とうとうここまで来てしまった。私は三成どの、兼続どのの為、父上は己の為、兄上はお家の為、戦うだろう。義父上、すいません、私はあなたの好意を無にしてしまいます。)

「父上。」
 三人が文を読み終えたその時である。信幸がするりと言葉を発した。
「私は徳川につきたく存じます。父上もそうなされませ。」
「源二郎はどういたす。」
「私は西軍に加勢しとうございます。」
 ふふ、ふふふと笑い声が漏れた。家の命運を決める空気ではないが、これが真田家の特徴でもあった。互いが互いの腹を見透かした上で、言葉遊びをしている。
「おや、幸村は私の意見に賛成してはくれないのかい。」
「理由は兄上もご存知でしょう。」
 兄上の何倍もかわいらしいお方がいらっしゃるのです。その方はとても意固地で不器用で、けれどとてもおやさしいお方なのです。
 幸村がふわふわと笑うと、ああずるいなあ、そのお人は、と信幸も笑った。昌幸が、わしを除け者するなッと表面では怒っていたが、この会話を楽しんでいることを二人は知っている。
「兄弟が別れて戦すると言うのか、この親不孝の兄弟め。」
「徳川とは戦をしますが、兄上と戦する気はありません。」
「私も同感です父上。幸村と戦をしたら、命がいくらあっても足りませんよ。」
「それはこちらの台詞です。」
 信幸と幸村はまこと仲睦まじい兄弟である。歳が近く、互いに才気あふれているとなると、どちかが家を継ぐかで揉めることは決して珍しいことではない。事実、昌幸は幸村に家を継がせたがっていたのだと二人は知っていた。けれど幸村は、それを望みはしなかったし、考えたこともなかった。兄ほどの素晴らしい主がいるのに、どうして自分が。それこそが二心ない幸村の真の思いであった。幸村は三成らと出会わなければ、信幸の手足となって武働きをすることになんら疑問を抱かなかっただろう。兄の為に戦うこともまた、幸村の選択の一つであっただろう。けれど幸村は、その選択を蹴ってしまった。戦の熱に焦がれているのだ。
「それで、父上。父上はどちらにつかれるのですか。大嫌いな徳川ですか、それとも勝算のない西軍ですか。」
「そうよのぅ。」
 考えるように二人を見比べた。ああ意地の悪さはやはり父上の遺伝ですね。幸村は昌幸の様子を見ながら訥々と考えた。既に腹は決まっているのに、場をじらして楽しんでいるのだ。
「石田では勝てぬだろうなあ。せいぜい引き分けで終わるわ。徳川、徳川だがのぅ、」
「父上、是非とも徳川を。さすれば御家は安泰ですよ。」
「いえいえ父上、西軍です。父上の智略で勝利を掴めばいいだけのこと。」
 信幸の顔を見、次いで幸村に目を向けた。幸村と目が合った途端、にへらと笑った。ああもう、本当にお父上ときたら。二人が同じことを思ったに違いない。
「わしは西軍につく。かわいい源二郎にねだられては、わしも折れるわ。」
「ああずるいですよ父上。私だって幸村が好きなのですから。」
「お二人とも、私で遊ぶのはよして下さい。後々の母上、義姉上がおそろしゅうございます。」
 それもそうだ、と信幸が手を叩いて笑っている。反面、昌幸は浮気がばれた時のことでも思い出したのか、ぶるりと身震いをした。


 昌幸が表情を引き締めた。真田の長の顔をしている。二人も笑顔をしまって、大仰に手をついた。
「信幸。」
「はい。」
「真田の家、しかと頼んだぞ。」
「はい、命に代えましても。」
 ここに、真田家は二分した。


 昌幸は、三成への返答、そして吉継への返答をしたためている。幸村はその文を持って吉継の許へ訪ねて行きたかったが、陣を引き払わねばならず、時がない。ここは真田本家の陣である。結論が出てしまった今、信幸は早急に立ち去らなければならなかった。
 幸村は兄の背を追いかけた。見送りをすれば父に咎められることは分かっていたが、その父が今は急ぎ文を書かねばならず、とりあえずは今止める者がいないことをよいことに、幸村は陣の出入り口へと向かった。
 信幸も余程急いでいたのか、既に馬上の人になっていた。幸村が姿を見せると、当然のことだ、とふんぞり返っているようにも見えた。かわいいなあお前は。兄上にかわいげがなさ過ぎるのですよ。眼で当然のことのように会話をしたが、ああこれももしかしたら最後のことかもしれない、と思うと、途端兄のかわいげの無さが無性にいとしく感じられた。

「あ、兄上、着物の端が、ほら、少しほつれておりますよ。糸が垂れております。どこかへ引っ掛けてしまっては大変です。お切り致しましょうか。」
 幸村はそう言って信幸の着物に手を伸ばした。ほつれた糸を糸切り歯で切ってしまおうと思ったからだ。けれど信幸は、ああいいよ幸村、と手を軽く振った。
「稲が気を抜いたせいだ、稲に直してもらうよ。」
 それはきっと、兄上が私に気をとられず、早く帰ってくるようにと義姉上がまじないをかけたのでしょう。信幸がその真意に気付いているのか、そもそも真実がどうなのか分からなかったが、幸村はわかりましたと手を離した。
「幸村、見送りありがとう。息災でね。」
「はい、兄上。」
 今生の別れになるやもしれぬ、というのにいささか味気なかったが、幸村はあえてそれには触れず手を振った。信幸も同じように大きく手を振っている。
「兄上、私のために負けてくださいッ」
 ふふ、と空気が振動した。信幸が笑っているせいである。
「それならば源二郎、源二郎も私のために勝っておくれ。」
(もし、この瞬間、兄上が天下とりに立ち上がったら、)
 幸村はその妄想を振り払って、ええ、ええ、必ずやッ、と笑ったのだった。