一、終わる夏が死んでゆく


 季節は冬になっていた。既にさかりの季節は過ぎていた。青々とした葉も枯れて落ちるだけである。
 幸村は顔を上げて、小窓から外を覗いた。春は穏やかに流れ、夏は矢のように駆け抜け、秋は鬱々と過ぎて行った。眼前には寒々とした庭が広がっているばかりである。
「くのいち。」
 声ではなく、唇がその言葉を形作っただけだったが、くのいちは当然のことのように姿を現した。幸村は一瞥しただけで、すぐに文机へと視線を落とした。そこには既に一通の書が置かれていた。幸村がしたためたものである。
「これを、」
「狐はもういないよ。それとも、義狂いに渡せばいいの。」
「加藤主計頭どのへ。」
 幸村はずい、と文を差し出した。くのいちが顔を顰めたのが分かったが、幸村は見なかった振りをした。
「必ず、加藤どのに読んで頂きたいのだ。すまない。」
「べっつにいいですけどねぇ。あれ以来ずっと山城とは連絡とってないけど、いいんですか。何を牽制し合ってるのか分かんないけど、あたし、幸村さまが直江宛に手紙書いてるの、知ってるんですから。」
 くのいちは唇を尖らせながら言う。
「幸村さまは逃げてばっか。あの男と言葉を交わすのが、そんなにこわいんですか。」
 石田も案外幸村さま見てましたよねぇ、結構的を射た発言だったしぃ。くのいちがふざけた調子で言う。聞いていたのか覗いていたのか。幸村が視線で問うと、覗いてたし聞いてたし、覚書までしちゃいましたよ。ほら、あたし、趣味悪いし。だから幸村さまと一緒に居るんでしょ。どういう意味だ、と幸村は言いながら笑ってしまった。言葉とは裏腹に、くのいちの顔は真剣だったからだ。だって、だって、幸村さまはすぐに死地にばっかり赴きたがって、あたしはその隣にずっと居たがって、ほら、悪趣味。くのいちがからからと笑う、幸村は思わず苦笑する。
「幸村さまはこわいんでしょ、だから最後の最後で尻込みしてる。」
 くのいちは幸村の眸を覗き込みながら笑っている。
「ああそうだ。私はこわいのだ。」
 兼続どのが、何も変わっていないかもしれない、というその、真実かもしれない答えが。激動だったと言えるだろう、兼続は時代が変わるとまで言った。時代は変わってしまった。
(けれど私は何も変わらなかった。変わることを拒んでしまった。けれど、けれど、私たちを取り巻く環境は何もかもが様変わりしてしまって、もう以前のような間柄ではなくなってしまって。)
 その中を、兼続が貫いていた義の心変わらぬまま生きているかもしれぬと思うと、幸村は彼と文であったとしても、言葉が交わせなかった。
(さっさと私のことなど忘れてくださればいいのです。さすれば私だけが、ただあの日の穏やかな面影を抱きながら、鬱々と生きるでしょう。けれど、ああけれど。すべてを背負って生きるのは苦しい。過去を懐かしみ過去を思い過去に焦がれる生は、何よりも空しい。)

 くのいちが場の明るさを壊さぬように、無理やりに笑顔を保ちながら、幸村の腕を引いた。彼女の片方の手の内には渡した文が無残にも潰れていた。彼女が丁寧に扱わぬものだからぐしゃぐしゃになっている。幸村はひっそりとため息を飲み込んだ。彼女の空いている方の手が兼続への手紙を催促しているように映ったが、幸村はゆっくりと首を振った。実は清正への手紙を書く前に兼続へ文をしたためていたのだが、書き終わらぬうちにびりびりと破いてしまったからだ。文は言葉でしか綴れぬというのに、彼へと宛てる手紙ときたら、思いを表現する言葉が感情を無視してこぼれ出てしまった気がしたのだ。三成が否定したかった言葉にすら、幸村は形作ることができない。

「いいのだ。」
 幸村がきっぱりと言ったせいだろう、くのいちはそれ以上踏み込んではこなかった。代わりに、なんでまたお虎(加藤清正)になんか、と小言をこぼしている。幸村もまた、ああなんでだろうなあ、と思った。どうしてまた、この時を選んでしまったのだろうか。
「ただ、誤解を解きたいのだ。三成どののお心に豊臣を乗っ取ろうとする考えすらなかったこと、先の戦は、豊臣の御為だけを真っ直ぐに思い起こしたこと。もう、遅いけれど、」
 それでも、三成の存在をけがされるのが許せなかった。あの方はあんなにも清廉に潔白に、欲の一つもかかずに、ただただ豊臣を思っていたのだ。だからこそ、三成は負けてしまった死んでしまった。敗れた武将はみじめなものである。だが幸村は、三成の存在までもを貶めたくはなかった。三成どのはあなたと同じ理由で、あなた方に槍を向けたのですよ。そのことを誰も知らぬという現実が、幸村は許せなかったのだ。
「未だ憎しみが治まらないのならば今でなくともいい。清正どのの最期の時でも構わない。けれど、必ず読んで頂きたいのだ。三成どののおろかさを、つたなさを、一途さを、知って頂きたいのだ。あなた方を陥れることなど出来ぬ方だったと、考えもしなかったのだと、ただただ分かって頂きたい。そして、できることなら、三成どのの死を、ただただ、かなしんで頂きたい。」
 幸村は静かに微笑した。くのいちは不満そうに頬を膨らませていたが、渋々といった様子だが、確かに懐に文をしまった。
 くのいち、私は誰もうらんでもいなければ、にくんでもいないのだ。ただ、兼続どのが何を思っているのか、それがまったく分からない。配流される真田家を憐れんでいるだろうか、愚かでああなんと馬鹿な子だろうと思っているだろうか、それとも、羨ましいと思ってくださるだろうか。主家をもたぬ、しがらみをもたぬ私を、膝を屈することを知らぬ私を。いいえ、私はあなたを羨ましいと思ったことはありませんでした、ただ、ずるいと感じることはあったかもしれません。
 眸が合った、その瞬間、馬ッ鹿みたい、とくのいちの唇が動いた。幸村はくのいちの呟きに素知らぬ顔をして、さあ早く届けてきてくれ、と彼女の背を押すのだった。





 真田昌幸、幸村は父子は九度山へ配流された。関ヶ原の戦に伴い、上田城で徳川秀忠の軍を見事遅参させた真田であったが、その供の数は僅か二十にも満たなかった。関ヶ原の戦から三月後のことである。