一、澱みない視線


 幸村は縁側から、一枚の葉がひらひらと落ちていくのを眺めていた。庭と呼ぶにも小さい、荒れた風景が広がっているだけだが、幸村は縁側から外を眺めるのが好きであった。思い返せば、沼田でも上田でも大坂城でも、いつもいつも時間をもてあました時は縁側で過ごしているような気がした。
 すっと目を細める。背後で空気が揺れた。
「幸村さま、豊臣が重い腰を上げました。二条城にて、徳川方と会見なさるようです。」
「徳川の忍びの動きはどうだ。」
「それよりも、牢人たちの動きが妙です。特に、佐々木小次郎という剣豪が、牢人たちを集めています。」
 幸村は短くため息をついて、ああそろそろ私も腰を上げなければ、と座ったまま上半身だけを反転させた。望月六郎が膝をついて幸村の下知を待っている。望月六郎は霧隠才蔵、猿飛佐助と比べ忍びの術では劣るが、諜報活動をさせれば十勇士の中でも群を抜いていた。
「才蔵と佐助、海野の六郎、小助、くのいちを呼んでくれ。」
 幸村が名を呼んだその瞬間である。御前に、と小助が五人を代表して声を発した。どこから現れたのか、目の前で望月六郎と同じように膝をついていた。
「ここで秀頼さまを失うわけにはいかない。出るぞ。小助、いつものように頼む。」
「はい、幸村さま。」
 真田幸村は、静かに出陣した。





 秀頼の碗に毒を盛るのではないか。幸村の懸念はそこであったが、どうやら徳川も最終手段とも言えるその方法はとらなかったようで、幸村が二条城近辺に辿り着いた時には牢人たちに囲まれながらも、秀頼は元気な姿をしていた。加藤清正に脇を固められている。幸村は遠目でそれを見つめた。清正の忠誠の尽くし方が、幸村には懐かしく思えたからだ。幸村は清正、福島正則といった豊臣恩顧の武将に好感を持っていた。既に豊臣を見限っている者が居る中で、清正らの真っ直ぐな誠意が、未だ乱世を思わせて幸村はただただ嬉しいのだ。

 幸村の得意とする戦法は奇襲である。今も、あえて牢人たちが溢れ返っている路地で槍を奮っていた。頃合を見計らって撤退し、徐々に敵の士気を削ぐ算段であった。単騎で突入したこともあってすぐに敵に囲まれたが、相手は大将をもたぬ、小隊とも呼べぬ集まりである。囲みを突破することは難しいことではない。四半刻ほど敵と相対し、そろそろ離脱する頃合だろうか、と思ったその時である。
「馬っ鹿野郎ッ。何考えてんだッ。」
 喧騒を突き破るような大音声だった。幸村は槍を握る力はそのままに、声がした方へと視線を向けた。幸村を取り囲んでいる牢人たちの人垣が割れた。強引に一点だけを突破されたらしい。幸村は茫然とその男の行動を見つめた。斬りかかって来る牢人の刀を避けながら幸村に近付き、迷うことなく幸村の背に背を合わせた。宮本武蔵であった。
「背中守ってやるから、あんたは目の前の敵だけ倒しな。」
 幸村は言われたことが咄嗟に理解できずぽかんとしていたが、じわじわと武蔵の言葉が浸透した。言葉を理解した途端、思わず笑ってしまった。くすくすとその場に似つかわしくない笑い声が漏れた。
「私は真田だ、真田幸村。」
 武蔵にしか聞こえない小さな声で幸村は呟いた。思わず視線を向けようとした武蔵に、幸村はそのままで、と言う代わりに、ああ他言無用で頼む、と言い捨てるや駆け出した。ああおいッ、武蔵の怒号が背中に当たった。なんて無茶するんだよッと武蔵が更に怒鳴っていたが、幸村はくるりと振り返って、背中を守ってくれるのだろう、と笑った。丁度その時、空いた二人の空間から、幸村の背に向かって斬りかかる者が居た。間に合わない距離だ。武蔵が素早く動くが、彼よりも刀が振り下ろされる方が早い。ああ、と武蔵が呻った。しかし、幸村が傷を負うことはなかった。幸村は気配だけで察知し、襲い掛かってきた男を直視することなく、槍で一突きしてしまったからだ。

 何十倍という人数で囲んでいるにも関わらず、戦況は埒が明かなかった。それどころか、斬りかかれば一刀のもとに倒されてしまい、牢人たちの士気が下がるのも無理はない。敵わない、と一人が逃げ始めれば、あとは雪崩れの如くである。ついには二人を囲んでいた人垣が崩壊し、牢人たちは散り散りになって逃げてしまった。どれ程引き付けていたのか正確な時は分からなかったが、おそらく秀頼一行はいざという時の為に待機していた福島正則と合流しただろう。幸村は忍びの報告を待った。

 背後で短く息を吐いた音が聞こえた。武蔵が血糊を払って、刀を納めているところであった。幸村はようやく、まじまじと武蔵を見た。幸村は宮本武蔵なる剣豪を噂話でしか知らなかったのだが、剣の腕は噂に違わぬものだったが、想像していたよりも随分と若く感じられたからだ。何より、武蔵の目は人好きの目である。剣豪は、裏を返せば人斬りである。戦の痛みを知り、人を斬る痛みも知っている男の目にしては、真っ直ぐすぎるように幸村には感じられた。
(この男は、人が欲だらけの生き物だと知ってはいるが、それでも人が好きなのだろう。)
 幸村の視線に気付いたのだろうか、武蔵は素早く幸村との距離を縮めて躊躇うことなく幸村の間合いに入り込み、幸村の目を睨み付けた。
「助太刀は感謝する。だが、どうして助けた。俺は強いッ。背中を預けるのは真っ平ごめんだッ。」
「足手まといだったか。」
 幸村が問うと、武蔵は言葉に詰まったようで、顔を顰めていた。
(性がやさしいというのに、この男は剣の道を選んでしまった。それがこの男の不幸だろう。やさし過ぎる性は、戦の狂気になじむことができないだろう。)
 幸村は、心の中で呟いた。私のまわりには、性と道がかち合わぬ人ばかり居るような気がする、と。


 空を切る音に、幸村は顔を上げた。耳元を駆け抜けていく音に、咄嗟に身体を乗り出した。
「武蔵ッ、」
 幸村が叫び声を上げた。察知できなかった。死角から放られた苦無が武蔵へと飛んでいく。けれど武蔵は先程の幸村と同じように、見ることなくその苦無を刀で弾いてしまった。金属同士がぶつかり合う鋭い音をたてて、苦無は地に落ちた。誰が仕掛けたことなのか幸村は気付いている。人を試すことが悪いとは言わないが、あまりに心ノ臓に悪い方法である。
「くのいち、悪ふざけはやめろといつも言っているだろう。」
 えーでも一番手っ取り早いしぃ、と文句を垂れながらくのいちが姿を現した。くのいちは幸村の隣に降り立ち、素早く武蔵との距離を詰め、その顔を覗き込んだ。ふぅん、とくのいちが鼻を鳴らす。幸村の言葉に反省した様子は微塵もなかった。
「腕は本物みたい。」
「くのいち、失礼だろう。」
「でもでも、幸村さまの背中はあたしたちが守るって決まってるのに、こんな男にしゃしゃり出てもらってもぉ、」
 くのいちは先の武蔵の発言が気に入らないようで、じろじろと値踏みするような視線で武蔵を見ている。馬鹿にされていると思った武蔵が顔を赤くしてくのいちを怒鳴りつけようと口を開いた、その瞬間だった。今まで姿を消していた、引き連れてきていた十勇士の面々が闇から現れた。才蔵、佐助が脇を固め、筧十蔵、海野六郎、望月六郎が更にその隣に、幸村を囲むように立ち、一様に武蔵に視線を向けていた。それが好意を含んでいないことを、武蔵は肌で感じ取ったのだろう。武蔵が息を呑む音が、幸村の耳にまで届いた。
(幸村さま。)
(六郎か。秀頼さまは、)
(はい、無事福島さまと合流されました。)
 その間、数秒である。幸村と六郎は忍びの者が使用する独自の読唇術で会話をした。当然、武蔵は気付かない。
「武蔵どの、秀頼さまはもう大丈夫ですよ。」
 幸村の声に、佐助、才蔵を除く三人が殺気を緩めた。穏便派の彼らは、相手に敵意がない以上、こちらがどれほど警戒しても無意味であることを知っているのだ。幸村が微笑を浮かべたことで、武蔵も場の空気を和めようとしたのだろう、ああそうかい忍びってのは便利だなあ、とこちらも笑いながら、幸村の背をばしばしと叩いた。馴れ馴れしいその様子に、佐助、才蔵の眉がぴくりと動いたが、ああお前たちはどうしてそうも猫のように警戒したままなのだ、と幸村が二人を振り返って笑うと、流石に大人気ないと思ったのか、とりあえず剣呑な視線だけを伏せた。それに気をよくした武蔵が更に言う。
「武士ってのは堅っ苦しいなあ。さっき俺を呼び捨てたじゃねぇか。あんな感じでいいんだよ、こっちまで気疲れしちまう。俺はたった今あんたと出会ったばっかなんだし、あんたは素のまんまでいればいいんじゃねぇの。知将だ勇将だって言われてる真田幸村なんざぁ、俺は知らないね。」
 ああそんなことよりも。武蔵が幸村の目を覗き込む。澄んだ、澱みない目をしているなあ。幸村は同じような目の輝きをもった人がいたことを思い出した。
(あの方は自分を守る術を知らなかったけれど、この男は己の身を滅ぼす軍を持たないのだ。それは、)
 すごいことだなあ、と幸村は訥々と思う。この男は戦う理由すら纏っていないのだ。
「幸村、いいのか。あんた今、」
「九度山に居なければならない身だ。だから目立った行動は出来ない。本音を言えば堂々と兵を出したかったのだが、」
「徳川の監視が厳しのか。」
 幸村は武蔵の言葉に思わず笑ってしまった。ああそんなもの。徳川の諜報網は天下に渡っていたが、あまりにも範囲を広げすぎたのだろう、真田の忍びにとっては穴だらけと言っても過言ではない。
「いいや、兄上に迷惑をかけてしまうからな。ああ兄上と言うのは徳川の家臣で、名を信之と言って、」
「それぐらいは知ってる。」
「今も真田幸村は九度山で病床の父上の世話をしているはずだ。」
 だから私はここに居ないのだ。幸村は楽しそうに笑う。こういったところは父の遺伝だろう。子どものような悪戯を考えるのが幸村は好きなのだ。相手の度肝を抜いて楽しむ心を忘れられない。

 手に血糊のついた槍を持ちながら、からから笑う幸村がおかしかったのだろうか、武蔵にも幸村の笑いが伝染した。意味もなく声を上げて笑い、波が去ると武蔵は幸村を指差して言った。
「あんた、変な奴だな。」
 武蔵は突然にそう言い、幸村の目をじっと眺めた。幸村も負けじと武蔵の目を見つめた。
「お前の方こそ。」
「よく言われる。だから、そんな俺と会話してるあんたも、相当変な奴だ。」
 妙に波長が合った。幸村は久方ぶりにたくさんの笑いで包まれたような気がした。六郎が、そろそろ、と袖を引くまで時間の経過に気付かなかった。
「武蔵。私はそろそろ帰らねばならないようだ。」
 幸村が踵を返す。
「幸村、一つだけ教えてくれないか。どうしてここに来た。あんたは何の為にここに来たんだ。」
 三成が守ろうとしていた豊臣は、最早崩壊しているようなものだ。早く徳川の天下に屈するべきなのだ。それこそが豊臣家安泰の道だろう。幸村が忠誠を尽くす豊臣の姿は、すでにどこにもないのだ。
(三成どのが守りたかった豊臣を守る、なんて理由にはならないだろうな。あの方はもういない、豊臣も既にない。私はただ、逃げているのだ。平安から、背を向けて、戦のにおいに誘われるまま、)
 けれど、この男には言うまい。言ったとて通じないだろう。人好きの男には、人を殺める戦場へ思い馳せる幸村の想いなど分からないだろう。答えに詰まってしまった。言ってしまえば、幸村が幸村らしくある為、己の死に場所を必死になって探して生きている、その衝動のままにここに来てしまったのだ。もし、あの方ならばなんと答えるだろう。なんと答えることが正しいだろう。私は、まだこの言葉が捨てられない、忘れられない、あの日の穏やかさをあたたかさを、桜の薄紅が瞼の裏でゆらゆらと揺れていた。
「それが、義だ。友が教えてくれた言葉だ。」
(兼続どの、私はまだこの言葉に縋ります。)
 小田原の桜が脳裏によみがえった。幸村が思わず懐かしむような遠い目をしたことに気付いたのか、それとも、彼の人を名で呼ぶことが出来ぬ己を気遣ってくれたのか、武蔵は踏み込んだことを訊ねはしなかった。代わりに、
「義、ねぇ。なんかぐっときたぜ、」
 と笑った。
(きっと、武蔵の義は、兼続どの、あなたが掲げている信念とも、私の抱えている錘とも違うのでしょう。けれども、けれども私は己が義を貫いて生きてゆきます。兼続どのもどうか、どうか、)
 戦の澱んだ空気が、少しずつ少しずつ、時に滲み出していた。