一、まじわることのないすべて


 真田幸村は粛々と大坂城へと入った。軍団と呼ぶことすら出来ぬ少ない手勢だったが、幸村は堂々と真田の紋を掲げ、粛々と、粛々と、大坂へと入ったのだった。

 幸村は手を上げて馬を止めさせた。丁度大坂城が一望できる距離である。幸村はゆっくりと大坂城を見上げた。以前なれば、太閤さまの御威光と呼ばれていた巨城も、今や不穏な空気で包まれていた。
「幸村さま、懐かしいんでしょ。」
 いつのまに隣りつけたのか、くのいちがそう訊ねた。幸村は目を細め、大坂城を眺めている。
「ああ、懐かしいとも。」
 姿形は変わらずとも、この城を取り巻く人も空気も環境も、何もかもが変わってしまっていた。なつかしいという言葉は正しくはなかったが、幸村はもう一度繰り返した。
「ああ、なつかしいとも。」


 大野治長へと通される中、幸村は何人もの女中たちと擦れ違った。何分、女が多い城である。忙しそうに動き回りながら、その時間すら惜しいのか世間話は尽きることを知らなかった。どこそこの牢人が入城なさって、先日入られた誰々という方は物腰穏やかで、それに比べて今日入られた方はどうも愛想がなくって。日々移り変わっていく城の内情を出汁に話に花を咲かせていた。幸村は彼女たちの会話の中に、たくさんの名を聞いた。後藤又兵衛どの、毛利勝永どの、長曾我部盛親どの、明石全登どの・・・・・・。世に名の聞こえた名将ばかりである。乱世を生き抜いた勇将である。けれども幸村は、それでも大坂方は勝てないだろうと信じていた。これ程の人物が集まりながらも、幸村はそう信じて疑わない。そして、彼らもその答えは同じであろうと幸村は思っている。ただ、名将と呼ばれる彼らが、死ぬる為だけに、この城を枕とする為だけに大坂に集まっているという事実が、幸村の身体をふるわせた。
(負け戦、されど、こんなにも高揚する負け戦など、今までの戦において、あっただろうか。)
 勇将たちが、死ぬ為の戦をしようとしている、死に花を咲かせようとしている。幸村は己が血が滾るのを感じた。えも言わぬ興奮である。
(私は、そんな方々の中で、そんな方々と共に死ねるのだ。)
 こんな名誉があるだろうか、こんなにも素晴らしい巡り合わせがあるだろうか。幸村の胸が騒いだ。ここには、乱世に置き去りにされた存在が無数にひしめいているのだ。


 数日が何事もなく過ぎた。相も変わらず、淀の方は軍議にまで口を出し、徹底して秀頼公出馬を拒んでいる。戦は家臣がするものだと思っているようであった。ここで秀頼公が出陣するとなれば、この戦の勝敗が分からなくなるだろうと、幸村を初め戦慣れした者は感じ取っていた。けれど、それも叶わぬのが此度の戦である。牢人たちに術はなかった。


 幸村が、のちに真田丸と呼ばれる出城を建設している時であった。もとは後藤又兵衛の縄張りであった場所だが、幸村が頼み込んで譲り受けた場所である。又兵衛も幸村の戦眼に感心したようで、怒っていたのは最初だけで、すぐに二人は打ち解けることが出来た。そんな又兵衛と性が合うのか、武蔵は鍛錬をしていない時は、又兵衛の陣中に身を寄せていた。元より家来を持たぬ武蔵である。どこで寝食をしようとも自侭であった。
 武蔵は、幸村が真田丸建設のため声を涸らして指導している中、休憩をしている時に姿を見せた。好奇心が旺盛な、子どものような男である。瞬く間に出城の形が整う様が面白かったのだろう。
「よぅ、精が出るなあ。」
 座り込んでいる幸村を覗き込むようにして武蔵は言った。幸村は突然に影になったものだから、誰だろうと思いながら顔を上げた。
「ああ、武蔵か。お前は相変わらず暇そうだなあ。」
 嫌味ではなく本心である。武蔵も自覚しているのか、からからと笑いながら、ああそうなんだよ、暇でよぅ、いっちょう手合わせしてくれよぅ、と幸村の前に腰を下ろした。幸村は心身ともに疲れていたが、そう言えば工事にかかりきりでここ数日ろくに槍を振るっていないことを思い出して、ああそれもいいな、と思った。こうして何かを作ることも幸村は好きだったが、やはり槍を振るっている時が一番すきなのかもしれない。特に、武蔵のような手練れとの手合わせは槍を振るうことだけを無心に考えることが出来て、なんとも心地良いのだ。
「武蔵、手合わせをするのは賛成だが、お前ですら得物を持っていないぞ。」
「ああ、又兵衛の旦那んとこに木刀忘れてきちまった。」
「戻ってとってくるのか。」
 幸村が立ち上がると、武蔵ものそのそと腰を上げた。なんだ、この男はやる気があるのかないのかよく分からぬ奴だ、と幸村は思った。眠いのか、何度も瞬きを繰り返していた。
「いいや、面倒だろう。お前の気が変わっちまうのも勿体ねぇ。いいじゃねぇか、取っ組み合いでさあ。」
 幸村は武蔵ほど気まぐれでもなければ、ものぐさではなかったが、確かに彼の言うとおり、やはりやめた、と思わない保障はなかった。何より、幸村は今疲れているのだ。武蔵に付き合うこと自体気まぐれであろう。
「言っておくが、武蔵。私は忍びの者に体術を習っているぞ。」
「げ、俺勝ち目ねぇじゃん。」
 どうする、と視線で問えば、武蔵が先に構えをとった。やはりやめないのか、と幸村は少しだけがっかりしながらも、同じように構えたのだった。


 幸村と武蔵の手合わせに、正確な勝敗などない。もしこのような手で攻めたら、相手はどのような反撃をしてくるだろう、戦場でこの手は使えないだろうか、こうして反撃されたらどう反応すべきだろう。その実験を互いにしているに過ぎない。だから、無謀な攻め手を仕掛ける時もあれば、命すらひやりとしてしまう強烈な反撃が返ってくることも珍しくはない。互いに容赦しなくともよい、という意味では絶好の相手であると言えるだろう。

 互い、ついに策をなくし、力なくその場に寝転がった。土ぼこりが舞ったが、既に取っ組み合いを済ませた二人は、それに気付けぬ程土に塗れていた。武蔵が幸村の顔を笑い、幸村もまた武蔵の顔を笑った。
 息が整った頃であろうか。武蔵が何気ない様子で訊ねた。互いに空を見上げている。相手の表情は見えなかった。
「なあ、どうしてこんなとこに来ちまったんだ。何のために戦うんだ。」
 客将として滞在している武蔵とは異なり、幸村は己の意志で入城を果たした。武蔵が疑問に思うのも仕方のない話だろう。この城全体が、既にまともに機能すらしていないのだ。
 幸村は武蔵の問いに、死ぬためだ、という台詞を飲み込んだ。脳裏に映った武蔵の目があまりにも眩しくかったせいだ。
(お前は軽蔑するだろう理由でここに居るのだ。豊臣の御為だ義を貫く為だ。そう私は言葉に縋りながら、ただただ私の為だけに前を見据えているにすぎない。)
 幸村は答えることが出来なかったが、そのやましさを誤魔化すように、
「武蔵はどうなのだ。」
 と、武蔵の方を見ながら、そう訊ね返した。幸村がこちらに顔を向けたことに気付いたのか、武蔵も同様の動作をした。幸村が本心を告げなかったことに多少なりとも不満を抱いたようだったが、表情にちらりとこぼれた程度で、直接には触れてこなかった。幸村は答えたくないらしい、と武蔵が判断したのだろう。武蔵は好奇心旺盛で、よく口も動き、幸村の武勇についても根掘り葉掘りと訊ねてきたが、決して一線を越えようとはしなかった。幸村が必死になって隠そうとしているものを、気付いていながら何も知らぬ振りをしているのだ。幸村は、武蔵との距離間が心地よかった。
「俺ぁ、乗りかかった舟だ。清正の遺言、つったら遺言でもある。何より、俺は大将が好きなんだよ。」
 なれば、武蔵。秀頼さまを殺す理由を作る私を、お前は早々に斬ってしまった方がいいぞ。お前ならば、秀頼さまただお一人、どこか、九州かどこか異国へとお連れすることができるだろう、それが唯一の生きる道だ。豊臣ではなく、秀頼さま御身のたった一つの。
(だが私は、)
 その道を拒むのだ、選ばぬのだ。これがどういう意味なのか、武蔵は知らないだろう。武士として生きた。なればこそ、武士として死ぬことこそが、武士の一生といえるのではないだろうか。
 幸村の思考を断つかのように、武蔵が勢いよく身体を起こした。幸村はその時起こった土煙が目に入って、少々涙が出てきてしまった。
(お前は、傍観者で居てくれ。)
 武蔵は何も言わず、来た道を引き返して行くのだった。