一、せわしない境界線近く


 のちに大坂冬の陣と呼ばれる戦いは、呆気なく終わりを告げた。戦況は豊臣に有利であったにも関わらず、徳川が放った大砲のせいで何もかもが逆転してしまった。和議が結ばれてしまった今、すぐにでもやってくるだろう開戦を、のんびりと待つしかなかった。


 戦があったとも、これから起こるのだとも気取らせぬ、春の陽気であった。幸村が城内を歩いていると、廊下を塞ぐように武蔵が寝転がっていた。確かにあたたかな陽が差し込んで、午睡には丁度よいぬくもりであったが、これは中々に迷惑である。けれど幸村は、武蔵の無遠慮な様子がおかしくなり一人笑いながら、自室へと消えていった。
 手に召し物を抱えて武蔵の元へ戻ってみると、寝ぼけ眼でぼんやりと廊下にあぐらをかいていた。幸村が呆れた調子で名を呼べば、武蔵は緩慢な動作で振り返った。幸村を認めた彼の目は、これまたのったりと手をあげた。幸村は苦笑しながらも、その隣に腰掛けた。人の通り道であったが、人通りは滅多にない。武蔵は人ごみを好まなかったし、その性質ゆえか知らず知らずのうちに人のにおいが薄い場所を探し出すようだ。
 武蔵が大きなあくびをこぼす。幸村もつられてあくびをした。伝染したのだ。あ、お前俺のがうつったな、とからからと笑っていた武蔵が、幸村の手に大切そうに抱えられていたものに気付き、無言でそれを見つめた。煌びやかな緋色の羽織である。明るい空の下では、いっそうその鮮やかさが強調されていた。暗がりでは分からないが、金糸を用いて縫われている二十年程前に流行った模様が、朱に映えている。金糸がきらきらと陽の光を反射させた。
「これはとあるお方から頂いたものだ。人にやることもできず、かと言って捨ててしまうのも忍びなくてな。」
 まだ秀吉が存命だった頃の話だ。頂いた、というよりは強引に押し付けられたような格好で幸村の手に渡ったのだが、幸村はあの日以来その羽織を着たことはなかった。けれども手入れは忘れずにしていて、時々は奥から引っ張り出してきて干したりもしている。鮮やかな、穏やかな日々を思わせるきらびやかな色である。幸村は目を細めてその色に焦がれてしまう。幸村がどこか遠い目をして思い出しているのを、何を勘違いしたのか、武蔵は少々顔を赤くして幸村から目をそらした。
「武蔵。お前はきっとものすごく下世話な勘違いをしているぞ。」
「いや、大人しそうな顔して、女に貢がせたりしてるのか、とか思ってないから。」
「これは慶次どのから頂いたものだ。」
 隠す理由はない。確かにあまりにも鮮やかな色である。どちらかと言えば色町の商売女が好む艶やかさがあった。武蔵がそう思うのも無理はないか、と幸村も思った程である。武蔵は幸村の口から出た、けいじ、という名が分からないらしく、何度もその名を繰り返して、ああ まえだけいじ、とようやく答えが出た。慶次の消息は先の関ヶ原の折、上杉撤退戦である長谷堂の戦い以降の情報が幸村の耳にすら入ってきていない。顔見知りの幸村とてそうなのだ。武蔵がその名に思い至っただけでも褒めるべきであろう。
「お前がうたた寝などしているから、かける物を探した結果だ。」
 でんと廊下を塞ぐように大きく寝転がられては、大柄ではない武蔵であってもそれなりに大きな掛け物でなければ意味を成さなかった。その結果、幸村の持ち物の中で、一番に大きいであろうあの羽織を思い出したのだ。
 武蔵はふぅん、と無関心そうに呟き、大きく伸びをしながら何気ない様子で言った。
「なら起きてよかった。俺にその色は合わねぇよ。」
 幸村は手に持っている羽織と、武蔵の眠たそうな顔を交互に見、ああそうだな、そうに違いない、頷いた。
(武蔵に、私の纏う色は似合わない。)


 冬の陣が呆気なく終わってしまったように、つかの間の停戦もまた呆気なく崩れてしまった。堀を全て埋められてしまった大坂城は、もはや堅城ではなくなっていた。
 軍議の席は未だ淀の方に振り回されていた。篭城か、はたまた野戦か。それすら決まらぬ状態である。秀頼公の出馬が願えるはずもなかった。

 武蔵と幸村は相変わらず、隙間の空いた距離を保っていた。互いにこの距離が心地よいらしい。必要以上に踏み込まず、けれども決して離れているわけでもない。何かと波長が合うのだろう、よく二人で居ては笑い声がもれていたし、気まぐれに手合わせもしていた。
 今日と言う日も同じように何故だか隣には彼が居て、何故だか己はここにいて、いつの間にやら会話が成立していた。軍議では話を振られても多弁を振るうことない幸村だが、軍議を終えた後の武蔵との会話では、その穴を埋めるようによく喋った。軍議に出席するつもりのない武蔵に、その様子を伝えるというわけではない。幸村はよく戦略を語っては武蔵を感心させているが、軍議の内容に触れたことはなかった。
 会話の途中である。幸村は何かにつられるようにして顔を上げた。武蔵も幸村に倣って顔を上げたが、そこには何もなかった。ただ青い空が広がっているばかりである。何だよぅと武蔵が口を尖らせれば、幸村は今までの会話の流れとはまったく関係のないことを言った。
「武蔵、お前は戦が始まったら逃げた方がいい。」
「はぁ、逃げるってどこに、どうして、」
「戦だからだ。場所は、九州へ行ってしまった方がいいだろう。あそこには徳川の手が届きにくい。」
 幸村はゆっくりと立ち上がり着物をはたいた。最初から汚れてなどいなかったが、幸村は見えぬ汚れを必死に落とそうと、もう一度強く叩いた。
「此度の戦は負けてしまう。この大坂城も燃えてしまう。お前は剣を活かす道を探している途中なのだろう、こんなところで死んでしまってはいけない。」
「お前はどうするんだよ。」
 幸村は武蔵が直視出来ず、背を向けてしまった。その様子に不満を抱いたようで、武蔵も立ち上がった。気配だけがそれを伝えている。こっち向け、俺見て話せ。武蔵が言葉の代わりに幸村の肩に手を置いた。幸村は振り向かない。武蔵では理解できぬ、理解できぬからこそ幸村は武蔵と共に居ることが楽しかったのだろう。お前は私が貫きたい生き方を知らない。そんな道をゆきたいと願う人の欲など、お前は知らないだろう。お前は私とは違う。違うが、お前と私の誇りの在り方は、きっと出会ってきたたくさんの人の誰よりも近いだろう。
(私はただ言葉遊びをしているだけなのだ。)
 幸村は武蔵の言葉に応えるように、静かに口を開いた。お前は私を軽蔑するだろうか、それとも軽蔑することすら出来ぬだろうか。私の言葉の意味が、お前の心には響かぬだろう。
「私は戦う。戦うことしか知らない。だから、戦って戦って、」
「死んじまったら、元も子もねぇってわかんねぇかッ。」
「死ぬ為の戦だ、いや、戦場は常に死と隣り合わせだ。お前の言葉は、戦そのものの否定にはなっても、戦をせぬ理由にはならない。」
 肩に置かれている武蔵の手に力がこもった。幸村があっと思ったその瞬間には、武蔵が強引に幸村の身体を反転させた後であった。
「死にてぇのかッ。」
 ぐらり、と身体が揺れた。胸倉を掴まれていることに気付く。少々、苦しい。武蔵は凄んだ顔を近付けて、どうなんだよおいッ、と大音声で怒鳴りつける。武蔵、そんな大声を出さずとも聞こえているぞ、耳が痛くなりそうだ。ああけれど、戦場ではもっとたくさんの音の波があって、その中へと飛び込んでいくのに、波に飲まれたことなどない。人の喧騒に幸村は馴染めなかったが、戦の狂気には同化してしまうことが出来るような気がした。私も中々、こわれているみたいだ。
「生きる為にゆくことも、死ぬる為にゆくことも、私にとっては同じだ。」
 更に力が込められた。ぎりぎりと絞め上げられ、そろそろ呼吸もしずらくなってきてしまった。死にはしないが意識が朦朧となりそうだ。頭に血がのぼってしまった武蔵をどうにかしようと、落ち着け武蔵、と手を添えてみたのだが更に煽ってしまったようで、彼の爪が深く食い込んできた。腕が小刻みに震えている。私はお前が無縁の世界で生きてきたのだ。けれどもその世界が崩壊しようとしていて、私もそろそろ苦しくなってきて、だからこそお前が理解できぬ道をゆくのだ。私は愚かでお前は阿呆なのだ。だから、私たちはその曖昧な境界がすでに違っているのだ。
「殺気立つな武蔵、疲れるだけだぞ。」
「なら、そういうこと言うんじゃねぇッ。死にたがってる奴が一番嫌いだッ。」
 むさし、と静かに幸村が名を呼んだ。すると、まるで憑き物が落ちたようにするりと武蔵の力が抜けた。わるい、頭に血がのぼっちまった。武蔵は本当に申し訳なさそうに、皺だらけになってしまった幸村の胸倉の辺りを撫でている。そんなことをしても、この皺は中々元通りにはならないのだけれど。幸村はしおらしい武蔵がおかしくて、思わず笑ってしまった。私の着物の皺よりも、お前が変な格好で座り込んでいたせいでついた、己の尻辺りの着物の皺を気にしたらどうだ。そう思ったが、言えなかった。武蔵の真剣な目は時に幸村を無口にする。幸村は武蔵の眼から逃げるように、床へと視線を移した。
「俺は逃げない。お前の背中守ってやるって約束しちまったからな。お前がが尻まくって逃げ出すんなら、俺もそれについてくけど。」
「私はお前を殺したくはないのだが、これだけは譲れない。だからお前は、本当に私の意志を尊重し、私を活かしてくれるのであれば、」
「死にたがってるお前の為に、俺が刀持てるとでも思ってんのか。死ぬ為の道を、俺が切り開けるとでも本気で思ってんのかッ。」
 幸村が欲しいのは家康の首だ。その後などどうなってもいい。家康を殺したその瞬間に、真田幸村という武将は死ぬのだろう。幸村は、徳川本陣への道を武蔵に開いてもらいたいと考えていた。本陣を守る、何重にも連なる隊一つ一つを撃破する必要はない。幸村ただ一人が突き抜けられるその隙を作ってもらいたいのだ。幸村の思いを覚った武蔵は当然首を振る。それは幸村の意地を守ると同時に、幸村という存在を殺すことになるからだ。
「武蔵、人を活かすとはどういうことだと思う。その者がその者らしく生きることを言うのではないだろうか。なればだ、武蔵。私が、」
「いやだ、いやだ。お前の為に剣をふるうのはいい、それはきっとすごく大切なことだと思う。けどな幸村、勘違いすんじゃねぇ。俺は俺の自己満足でお前を守る、だから、お前の自己満足に付き合ってやれねぇ。お前を生かす。これが俺の意地だ。」
 武蔵、武蔵。お前は本当になんという奴だ。ああお前には絶望して欲しくはない、その言葉の重みなど苦しみなど無縁でいて欲しい。けれどけれど、お前が自己満足と言った私の信念は、誰にも止められはしない。私自身、止める気すらない。これが最後のわがままだ、そう思い続けて何度目だろうか。私はようやく、そうようやくだ、このわがままを叶えることができるのだ。
「死ぬ為にゆくのだ。最後の最期、戦の終わりと共に、私も死んでゆくのだ。それこそが、武士を活かすということではないか。」

 無言が続いた。互いにじっと相手を見つめ、互いの言葉を考えている。先に幸村が口を開いた。武蔵の理を理解できないわけではなかったが、私には不要なものだと思ってしまったせいで、思考が広がらなかったのだ。
「分からないか。」
 幸村が問い掛ける。単純な問答である、武蔵もすぐに反応した。
「分かりたくねぇ。」
「分からない方がいい。」
「俺はお前をいかしたいだけだ。」
 ああ傲慢だなあ、幸村は思った。けれど幸村は、彼の押し付けがましい好意こそを好いているのだと思い知った。ああきっと一番の傲慢は私なのだろうなあと、逃げた彼の視線の痛みにもがきながら、心の中で笑ったのだった。