一、涙をおくれ


 木村重成どの、討ち死に。
 伝令兵が告げた報は、豊臣の軍を浮き足立たせるには十分であった。特に秀頼は、兄弟同然に育った重成の死を受け止められず、全身を震わせていた。幸村はその様子を静かに見守りながら、ゆっくりと立ち上がった。軍議の席にまで出張っている淀の方が、はよう和睦致せ、と喚き散らす。ああなんて無駄なことを。最早抵抗の術を持たぬ、滅びを待つしかない豊臣を、家康が見逃してくれるはずなどないのだ。

「秀頼さま。」
 幸村の声が大広間に響いた。大きな声ではなかったが、人々のざわめき声が聞こえる中での落ち着いた幸村の一波は、本人が思っていた以上に鋭く通った。
 大砲の音が聞こえる、銃声が聞こえる。人々の喚き声が叫び声が、意味を成さぬ雑音たちが、幸村の鼓膜を刺激し、心を奮わせる。
「もはや時がありません。私は出ます。秀頼さまはどうなさいますか。城の外に出られますか、それとも、」
 ここで腹を斬りますか。幸村は最後の言葉を飲み込んだ。出陣したとて負け戦だ、もうひっくり返せはしない。それならば、潔く戦場で果てるか、それともせめて首だけは徳川に渡さぬよう、ここで腹を召すか。どちらの道を選んだとしても、それは秀頼の死であり、同時に豊臣の崩壊を示す。
「重成が死んだのだ、少し考えさせてくれ。」
「時が惜しいのです、こうしている間すらもどかしいのです、どうかご決断を。」
 非情だと思われますか、大切な者を失ったあなたに、私の言葉はきつく感じられるでしょう。けれどもこれが戦の無情、そして人の情の無常にございます。戦をしているのは、ほかでもない、秀頼さまあなたなのです。
 幸村は秀頼を真っ直ぐに見据え、次なる言葉を待った。

 秀頼は今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃに歪めた顔で幸村を見つめた。幸村の顔は、秀頼のそれと比べるとどうにも表情がなかった。木村重成は大坂城において、貴重な人材と言えただろう。磨けば又兵衛、幸村のあとを継ぐ軍師にすらなれたであろう。幸村も彼を気に入っていたし、重成もまた幸村や又兵衛を慕っていた。最早他人ではなかった。その男が死んでしまったのだ。けれど幸村は表情を変えなかった。
「秀頼さま、私は出ます。それでは、御免。」
 幸村が踵を返す。まて、と震えた秀頼の声が幸村の背にぶつかった。振り返れば、唇を噛み締め手を震わせながら、秀頼は頼りなさそうに立ち上がっていた。
「私も出る。幸村、そなたは先行して、城周辺の敵を追い払ってくれ。」
「御意に。」
 淀の方の抗議が遅れて聞こえた。しかし秀頼はあえてその声を無視して、淀の方の甲高い女独特の声を塗りつぶすように大音声を発した。
「皆のもの出陣の準備だッ。急ぎ支度せい、遅れるでないぞッ。」
 腕を振り回しながら下知を飛ばす姿に大将の落ち着きはなかったが、皆が浮き足立っていたせいで、誰もがその言葉に従った。異を唱える者などいなかった。秀頼がその口で下知する事実が皆には一番の衝撃であったからだ。
 慌しく戦の準備がようやく始まった。がちゃがちゃと、武具のぶつかり合う音だけが幸村の心を騒ぎ立てた。秀頼は慣れぬ具足を着せてもらいながら、不安そうに目をきょろきょろさせていた。
「秀頼さま、僭越ながら、一つだけご助言致します。」
 秀頼の目が幸村を捉えた。喧騒の中、凛と響き渡る幸村の声に秀頼の姿勢が正された。
「戦場に立たれましたら、後ろを振り返らぬことです、立ち止まらぬことです。」
「戦が終わればなんとする。」
「それはあなたさまのご勝手になさればよいのです。泣き喚くもよし、勝った勝ち戦だと喜ぶもよし。」
「戦が終わるまで、泣いてはならんのか。」
「いけません、戦場で泣いていては、敵の姿を捉えることが出来ません、敵の攻撃が見えません。」
 では秀頼さま、敵を追い払ってきます。今度こそ幸村が退室しようとする。秀頼は最後に一言、幸村の背にぶつけた。
「幸村、死んではならぬ。そなたまで討ち取られてしまえば、私はいよいよ泣いてしまう。泣けば私の負けなのだろう、幸村、決して、」
(お優しいお方。私に戦場を厭う心があれば、豊臣を滅ぼそうともあなたの身まで殺そうとはしなかっただろうに。秀頼さま、私はあなたに、私の信念を押し付けているのです。戦場で死ぬことこそ武士のならい。そんな時代はとっくに終わってしまったのに。私は最後の大戦の火種となったあなたさまに、最後の武士としての信念を押し付けているだけなのです。)
 幸村は秀頼の言葉を遮るように、強い口調で言った。
「御意に。」
 真田幸村の出陣であった。