一、これから古傷をつくりにいきます
幸村は、そこでようやく足を止めた。振り返りはしない。振り返ったその先に、幸村は屍しか見ることが出来ぬだろう。幸村は槍を握る手に、更に力を込めた。幸村の怒涛の進撃を止めさせたのは、伊達軍が誇る騎馬鉄砲隊だ。間合いの一歩外で、幸村は真っ直ぐに伊達の軍を見つめている。足並みの整った、煌びやかな伊達の騎馬は美しかった。伊達の軍には常に品の良さがあった。粗雑ながら洗練された何かがそこにはあったのだ。幸村は、その騎馬の足並みに一糸乱れぬ、統率された動きに目を奪われた。己が手足となるべくが軍団である。見事なまでの統率力であった。
「幸村さま、どうしますぅ。」
くのいちが訊ねる。幸村は視線を外さない。ああこりゃ駄目だ、見事に入っちゃってる。くのいちが楽しそうに笑った。
幸村が一歩を踏み出した。その動きに軍も一歩前進したが、幸村が手で制してしまった。大将がただ一人、敵の間合いへと踏み込んでいく。
「政宗さま、話がしたい。前へッ。」
その要求は、受け入れられぬのが普通である。けれど幸村は、政宗であれば現れてくれるだろうと信じていた。理由などない。幸村が直視したあの眸は、幸村の本心をよどみなく感じ取っているのだと確信していた。
「おぬしは馬鹿じゃ。」
果たして、政宗は供の者一人として付けず、前へと進み出た。真っ直ぐに、ただ幸村だけを見つめている。ああ、変わらないなあ。幸村は思う。政宗の眼差しは、幸村の心を揺さぶったあの日の大坂城の彼と何一つ変わってはいない。
「死に急ぐが真田の意地か信念か。わしには到底理解できぬわ。」
「既に政宗さまとは生きる世が違いますれば。そこをお退きください。徳川にこれ以上の義理立ては必要でしょうや。」
互いに距離を置いた会話である。当然に大音声になり、また周りを守る兵には筒抜けであった。けれど、二人にはそんなことなどどうでもよいことであった。言葉にしようとも心など伝えられぬ、声にしようとも思いなど眼には見えぬ。伝えられぬし表現できぬ、見えぬ手に取ることも出来ぬ。けれど二人は、互いが互い、こうして敵として立っている相手の思惑も願望も、子どものような欲も全てを理解していた。言葉にせずとも、その眼差し一つで感じ取ることができた。しかし、相手の思いを理解できたとしても、それを受け入れることが出来なかった。言葉を交わしても無駄であろう、何を言ってもこの男の眸の行く先は変えられないだろう。互いがそれを知っていた。知っていたが、互いの思いを誰よりも理解していたこの二人ですら、言葉という手段が最初で最後の悪あがきであった。
「それこそわしの台詞じゃ。義理立てするはどちらじゃ。既に存在すら崩壊しておる主家に、おぬしは何を依存しておる。愚かしいにも程があるわ。」
「愚鈍なのです。人が生き方を変えるのは難しい。だからこそ、」
「治部はあの時死に、おぬしは今その道を選ぶ、か。笑えぬわ、馬鹿めが。」
ええ、ええそうでしょう。笑いの種にもなりません。私は最初からこの道しか選んでいなかった。他のものになど目もくれなかった。視野の狭い男なのです。たった一つのちっぽけなことを、必死でやり遂げようとしているだけなのです。あの方も、三成どのもそうでした。そして兼続どのもそうなのです。ただただ一つの道を、ただただゆくだけなのです。あの方がそうして死んでいったように、私もまた、同じように死んでゆくだけなのです。私は、長篠からこれまで、何一つとして成長していないのです、とらわれたままなのです。愚かでございましょう。私もそう思います。あなたさまと共に戦えたらと焦がれ、あなたさまの手足となり働けたらと夢を見、けれどもそれを実現するだけの器量がなかったのです。私はただ夢を見、焦がれ、そうなれば、と非現実を願っていただけなのです。私の唯一の現実は、この槍の重みに他なりません。
「では政宗さま。あわれな私に一つ慈悲を頂けませんか。どうかこの道を開けてください。」
「この先には大御所さまおられる。退くわけにはいかぬわ。」
「いえいえ、内府に用があるのは最後だけです。」
政宗がつまらなさそうに鼻を鳴らした。知っておったか、と訊かれているようだった。ええ知っていますよ、私は兼続どのと決別をしに来たのです。戦を踏み台にして秀頼さますら利用して、私は己が決心を促す為にこの槍を掴んで、兼続どのに会いにゆくのです。政宗はおぬしの思考は理解できぬ、と眉間に皺を寄せた。理解できぬのは、あなたさまが兼続どのを毛嫌いなさっているからなのですよ。幸村は戦場に相応しくない笑みを浮かべた。
「義、義と叫べぬ義馬鹿に会うてどうする。おぬしは愚かじゃ、馬鹿じゃ。だが、愚鈍ではない。まこと愚鈍はあの山城じゃ。すっかり腑抜けておる。つまらぬ男じゃ。わしは冶部が嫌いじゃ、今もそれは変わらん。だがな、あやつの散り様は嫌いではない。あやつもやはり武士であったのだ。じゃが、山城はいかん。己が一番の不幸を背負うておると勘違いしておるわ。女々しい男じゃ、口にするもおぞましい。」
それでも私は、兼続どのは何も変わっていないと思います。あの方はあの方なりの、三成どのとはまた違った義を貫こうと必死なのです。生きることに必死なのです。私とは相容れぬ道なれど、その茨を行くのであれば、私はただその姿を目に焼き付けたいのです。
幸村はゆっくりと瞬きをし、政宗を再び見つめた。その視線に貫かれるような錯覚である。不遜な、鋭い切っ先を持つ彼の目に、幸村の心はじりじりと焦がれた。
突然、伊達の軍の背後で爆発音がした。この音には流石の騎馬鉄砲隊も動揺を見せた。最後尾は混乱に陥っているようで、その混乱が全軍に広がりつつあった。政宗は爆音にも眉を少し反応させた程度だったが、軍を預かる大将としては捨て置けぬ事態である。伊達の軍には優秀な部下が多いが、それでも大将が出張らねばならぬだろう。政宗が陣へと戻ろうと踵を返す。幸村は口元にだけ笑みを浮かべていた。
(少々、兵糧と火薬を爆破させて頂きました。一時、退いてください。私にこの道を譲ってください。)
声にはしなかったし、遠すぎたのだろう唇を動かしただけでは政宗には通じなかったようだ。だがこの混乱が幸村の仕業だとは早々に見抜いた政宗は、忌々しそうに、幸村の動きを真似るように、彼も唇だけを動かした。
(馬鹿め、わしにその首差し出すのではなかったか。馬鹿め、馬鹿め。)
(そうです私は馬鹿なのです愚鈍なのです愚かなのです。ですから政宗さま、早く軍を立て直して、私の首をとりに来て下さい。)
幸村は退いていく伊達の軍を目に焼き付けるように見届けた後、再び進軍を再開した。目指すは家康本陣の左翼に位置する、真田丸である。