一、浅ましい尊さ


 多くを語る必要はなかった。幸村は視線を外すことなく、兼続の姿を見つめた。そして一言、
「お変わりなく。」
 と手にしている槍に力を込めた。幸村は既に兼続との会話を放棄している。通じぬ世界に居るのだと思っている。誰もが、政宗と幸村のように互いのことを見透かすことが出来たのであればよかったが、幸村と兼続の理はあまりにもかけ離れ過ぎていた。
「お前は馬鹿な子だ。愚かな子だ。愚かな程にやさしい子だ。」
 いいえまこと優しい性根の持ち主であれば、兼続どのに目通りなどしなかったでしょう。私という存在は、ただそれだけであなたの心を抉ります。あなたの信念を傷付けます。あなたはそれを優しいとおっしゃるのですか。私はただ自己満足でここに立っているだけなのです。あなたのように、何かの為ですらないのです。
 兼続は幸村の心など知らず、言葉を続けた。
「お前のその目を見れば分かる。お前は私すら憎んでいない。憎んでくれ、恨んでくれ、裏切り者だと罵ってくれ。そう、文を送ればよかった手紙を出せばよかった。お前が時に兄のように慕っていた直江兼続という男は、三成の死と共にいなくなってしまったのだ、と、そうお前に伝えていればよかった。」
「人は、そう簡単には変われません。変わる必要などないと私は思います。兼続どの、私もあなたに文をしたためればよかった。あなたは何も変わっていません、あなたが見据えるその先は、今も昔も同じものを見つめているのだと、そうお伝えしていればよかった。」
 兼続は自嘲気味に笑った。ゆらりゆらりと兼続の眸に宿っている炎が揺れていた。
「お前は何も変わらぬな、変わらぬことがお前の信念であろう。けれど私は、お前のその信念がこわいのだよ。」
 変わることが出来ぬ愚か者なのです。あなたの不変は強さでしょうが、私の意地はただの悪あがきなのです。兼続は幸村の言おうとしている言葉が分かるのか、首を振って幸村の思考を邪魔した。
「お前は、死を求めてここまで来てしまった。」
 言葉にしてしまえば、ただそれだけのことであった。けれどその言葉の裏には、幸村の兼続の、たくさんの人々の思惑が交差していた。幸村がどんな生き方の末その選択を切望していたのかなど、ただの言葉では表せぬ。言葉など、所詮それだけの存在だったのだ。
「兼続どのは、私のたった一つの願いをご存知でした。口にせずともあなたはそれを知り、けれど、叶えようとはしてくれませんでした。」
「そうだ。時に共に戦い、時に戦線から遠ざけることで、私はお前を守ろうとしたのだ、お前のその願いを破ってでも、お前を守りたかったのだ、それなのに、」
 兼続どのの好意はうれしく思います。けれど、私は武士なのです、生きる場所は戦場なのです。その好意を好意と知っていても、私は素直に喜べませんでした。私は、ただただ、戦いたかったのです。
「私は軍規違反とも取れる行為を平気でやってのけました。後詰であるにも関わらず、前線に出たりもしました。」
「私はね、幸村。こわかったのだよ。私や三成がどのような策を弄しようとも、お前は常に戦の中心に居た。私たちがどれほど細心の注意を払っても、お前は戦の渦の中へと飲み込まれていった。」
 私はこわかったのだよ。兼続がもう一度呟く。
「私はおそろしかったのだ。幸村、お前にはいつも死相が出ていた。それは私の努力ではどうにもできなかった。」
「直江兼続どのらしくないことを仰います。私の死がおそろしいと仰るのですか、小隊を預かるだけの、ちっぽけな私の存在が、」
「幸村ッ、お前は何も分かっていない。お前にとっての三成がそうであったように、三成にとってのお前がそうであったように、どうして私とお前にもその絆があることを見ようとしないのだ。幸村。私にとってのお前は、それ程までにいとしい存在だったのだよ。」
 分からぬのではないのです、理解しようとしないだけなのです。理解すると同時に絶望し、この槍がもてなくなるその事実がおそろしいのです。あなたがおそれたのは私の死なのでしょう。けれど、私が唯一おそれるのは、この手が信念が心が、槍を持つその意味を失うことです、手放してしまうことです、必要がなくなってしまうことです。
「その言葉に偽りがないのでしたら、兼続どの、どうかどうか、早々にお退きください。私は三成どのの信念を見届けました。救援にゆくことも、共に果てることもせず、ただただあの方の生き様を見届けました。もし、あなたがあの時、三成どのを見送った私と想いが同じであると仰るのであれば、この道をお譲りください。私の信念を意地を義を貫かせて下さい。そしてあなたは、私の死を見届けてください。」
「、それはできぬよ、幸村。確かに私はお前がいとしい、いとしい存在だが、お前の願いを叶えることが出来ぬのだ。だからこそ私は、お前の前に立ちはだかっているのではないか。そう、錯覚したいのだ。」
 幸村は静かに微笑んだ。言葉だけが一人歩きをしていく。私の言葉は本心だろうか、彼の言葉は心からのものだろうか。そのような疑いは無用なものであったが、幸村は己が心をそのまま言葉に出来るような芸当は持っていない。言葉なのだ。私と兼続どのを、最後の最後でつなぎとめているのは、こんなにもちっぽけで何の形ももっていない、言葉だけなのだ。私の心を勝手に飛び出して一人歩きをしていくように、あなたの口から発せられた言霊も、きっときっと己が心を離脱してしまったのではないですか。幸村はそっと目を伏せた。兼続にとって、幸村の変わることを望まなかった、この、戦しか見つめることの出来ぬ目がおそろしいのだろう。私はいつだって、戦しか目に映っていなかったのだ。
「私はそうして、三成どのを殺しました。彼の人の誇りを守るために、私は彼の人の命を消してしまいました。」
 ですから私も、そうあるべきだと思いました。幸村は強く強く槍を握り締めた。幸村はふと、ああ三成どのに怒られてしまうなあと思った。理由もなく、彼の人が憎んでいる戦を仕掛ける幸村を、三成はどう思うだろうか。怒るだろうか命を大切にしろとかなしむだろうか。それとも、豊臣が武士らしく散る最期を喜んでいるだろうか。最後の選択肢だけはどう考えて三成の思考には存在しないものだったろうが、幸村はああできればそうあってほしいなあ、と思った。あの人は、武士が武士らしく散る様の美しさを知らずに死んでしまったのだ。

 既に会話は繋がらなかった。意志が通じなかったわけではない。互いに相手に望むものがあまりにもかけ離れ過ぎてしまったのだ。兼続も武器を取った。今までやんでいた戦の音が、突然に幸村の聴覚を奪った。ああこれではもう、兼続どののお声は聞こえない。兼続は、さあおしゃべりもここまでにしよう。どうも、会話がうまくない。そう唇を動かしたのは読み取れたが、声は聞こえなかった。