一、ひどいひと
幸村が兼続率いる上杉軍を抜けた辺りで、ようやく武蔵が合流した。敵の大砲を破壊し、数を頼りに攻めかかる敵兵を相手にしていたのだ、息は弾んでいたが、それでも眼は死んでいなかった。
「幸村ッ、無事か、生きてるかッ。」
「そういうお前の方が危ない橋を渡っているじゃないか。」
「うっせ、俺は強ぇからいいんだよッ。それよりお前、直江兼続は、」
幸村が振り返ることの出来ぬ代わりに、少しだけ速度を緩めた。
「兼続どのには撤退して頂いた。兼続どの相手に死合う勇気が私にはなかった。」
そうか、と一言漏らしたきり、武蔵は話に突っ込んではこなかった。ただひたすらに前を見つめている。そろそろ秀頼が出陣するだろう。敵を追い払っておかねばならない。
一時は秀頼公出馬もあり勢いが勝っていたが、数で劣る豊臣は既に風前の灯であった。乱戦になってしまっている。敵味方の区別が付きにくい今この混乱こそ、幸村が待っていたものであった。
幸村は散らばっていた真田本隊をまとめ、隊を三手に分けた。目指すは徳川本陣のみだ。未だ本陣までの道のりには無傷の隊がいくらかはあったが、その中に幸村のような乱世を生きた武将は少ない。見掛け倒しの軍ばかりである。気運に乗れさえすれば、抜けぬ敵ではなかった。
「幸村。いくのか。」
乱戦によって姿が見えなくなっていた武蔵が、まるで見計らったように幸村の背に現れた。いつかの時のように、彼は背を向けて幸村の背中を守っている。
幸村は言葉を返さない。返す言葉がなかったのだ。武蔵の言葉は問う形ではあったが、ほとんどが肯定であった。ゆく、ゆくとも、私はただそれだけのために、この大坂城に入り秀頼さまの出馬を願い、ただそれだけのために、私は色んなものを捨ててしまったのだ、壊してしまったのだ。
武蔵は、幸村が口にする義という言葉の無意味さに気付いていたのだろう、気付いていなくとも、感覚で悟っていたのだろう。既に意味を見失っている。私はただ、その言葉の存在に縋っていたのだ。意味も知らず分からず悟らず、ただ、あの日の思い出にと、すがっているだけなのだ。あまりにも穏やかでやさしく、簡単に壊れてしまうような脆さすら輝いていたあの日のぬくもりを、私は焦がれているのだ。義の心とはなんだろうか。幸村は考え思案する。が、答えは出なかった。出るものではなかった、言葉にするべきものではなかった。だから自分には理解できなかったし分かることができなかったし、手にすることができなかったのだと幸村は思っている。
(武蔵。私はいつまでも言葉に縋って生きているのだ。あの日の穏やかさにあたたかさに、)
幸村が言葉の代わりに微笑むと、武蔵は無関心そうな声で、ふぅんと鼻を鳴らしただけだった。武蔵は無関心を装っていたが、それは幸村の意地を傷付けぬための詭弁であると知っていた。ちらりと武蔵に視線を向けた。彼の拳は力を込めすぎて、ぎりぎりと震えていた。
「武蔵。」
敵の兵を一人二人となぎ倒しながら、武蔵は、うん、と声を返した。
「お前には、本当につらい戦を強いていると思う。」
「謝りたいってんなら何にも言うなよ。思い直せ。まだ引き返せるぞ、逃げ出すのが格好悪いって思ってんなら、俺が手本見せてやらあ。逃げたいって思ったんなら、迷わず俺の手を取れ。お前引きずって、敵前逃亡してやるよ。」
すまない。幸村は心の中で呟いた。幸村の表情は穏やかだった。思い直すことができればよかった、武士の志などくそ食らえと、捨ててしまうことができればよかった。けれど私が捨てたのは、武士として生きるに邪魔なものばかりだ。私は最後まで、武士としか生きられぬようだ。
幸村はそんな己を悔やむことはしなかった。ただその道へ武蔵を付き合せてしまうことが、ただただ申し訳なかった、侘びをしたかった。けれど武蔵はその言葉を望まぬ。その言葉は重いのだと、俺は俺の意志で戦ってんだ、お前の意地なんざ知るか。そう言うばかりで幸村に言葉を紡がせてはくれなかった。武蔵、武蔵、私はお前の剣を活かす道に共感したはずなのに、一番に私はお前の剣をその高い志を殺してしまう。
「幸村。」
武蔵は刀を振るう手を止めることなく、幸村の名を呼んだ。彼の視線は幸村ではなく目の前に敵に注がれていたが、幸村は武蔵の視線の眩しさを思い出して、少しだけ目を細めた。武蔵は武蔵なりに、理解しようと必死なのだ。けれど最後の最後、幸村と武蔵のちっぽけな境界を、彼は受け入れることが出来ない。武蔵は歩み寄ろうとした、幸村の志を見つめようとした。けれど、死ぬことこそが武士の意地だと、そう信じている幸村の信念を武蔵は受け入れることが出来なかった。
「半刻、半刻だけ俺の時間をやる。俺はここで敵を食い止める、お前の背後守ってやる。だが、半刻だ。それ以上は駄目だ。俺が連れ戻しに行くからな。だから、早く行け。行って家康倒して来いッ。んでもって、豊臣は勝つ。大将の生き方に選択肢が出来る。お前はその為に行くんだ。お前の意地でも信念でもない。だから早く行っちまえッ。ほら、行けってッ。」
武蔵は、まるで犬猫を払うように、しっしっと手を振った。
「武蔵、」
「死ぬなって言ってんだよッ、だからさっさとこんな戦終わらせて来い。俺は難しいことは分かんねぇッ。けどな戦場でいっちゃん大切なのはその想いだと思ってる。死にたくねぇって思ってっと、自然と死なねぇもんだ。俺はそうやって生きてんだッ。」
ああ武蔵、私はお前の強さが好きなのだ。その想いこそ幸村が落としてしまった想いであるにも関わらず、武蔵は言うのだ。
幸村は二度と武蔵を振り返ることなく、ただ前を見据えて走り出したのだった。