兼続と三成
三成が自室へと戻ると、何故かそこには兼続の姿があった。しかも、だ、寝転がってまるで自分の部屋ですとでも錯覚させるような寛ぎようだった。三成はため息を吐き、とりあえず部屋へと入った。
しばし無言が続いた。兼続へと視線を向ければ、変わらずだらけた顔をしていた。三成は口の中で転がしている言葉をどうしようかと迷ったが、この男があまりにも自分に無関心であった為に、ああどうでもいいか、と口に出した。
「兼続は戦が好きか?」
三成は静寂を破って、突然に訊ねた。しかし本来脈絡のない会話を吹っかける張本人である兼続は、その流れの不自然さを別段気にした様子はなかった。
「その問いは至極難しいな。」
「難しいのか。」
三成が鸚鵡返しに問えば、ああ難しい、とても難しい問いかけだ、と兼続は再び繰り返した。
「戦は忌むべきものだ。金も物もたいそう消費する、人がたくさん死ぬ。敵も味方もだ。それに何より、民の生活を脅かす。」
兼続が言葉を切ったところを見計らって三成が口を挟もうとしたが、兼続はそれを手で制し、だが、と先を繋いだ。
「我らは戦でしか物事を解決する術を知らぬ。故に、私とて戦を知らぬわけではない。戦を仕掛けたことがないわけではない。それは三成、お前もだろう。」
兼続が問えば、三成は口を閉ざした。
「嫌いだからせぬ、好きだから赴く、そういった類のものではない。だからこそお前の問いは難しい。中には戦でしか己を見出せぬ者もいる。その者にしてみれば、お前の答えとは真逆かもしれぬな。」
三成は兼続に仔細を話してはいない。だが、おそらく兼続の憶測は事実に近いところにあるだろう。三成は口を噤んだままだ。もし、あの時幸村に問い返していれば、彼は何と答えただろうか。三成は訊くべきだったのだと今更ながら思った。そして、自分のあまりにも率直で愚直な答えは彼を傷付けたのではないかと思った。三成は戦が好きだと答える者が居ることすら、念頭になかったのだ。
(幸村は、)
戦が好き嫌いの括りでまとめることが出来ぬことを知っていて、あえて訊ねたのだろうか。簡潔な答えが欲しかったのだろうか。それとも、
ちらり、と兼続を見てしまった。見てしまってから、後悔した。兼続は三成の悩んでいる表情をさも楽しそうに眺めていたからだ。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、何だ、と表情で訊ねれば、兼続は本当に楽しそうに朗らかな声で言う。
「お前が人らしい顔で悩んでいるのが新鮮でな。お前はもっと悩め。俗世染みた内容で、もっと悶々と悩めばいいのだ。」
左近と三成
「幸村に会いましたか?」
左近は机に向かったまま、三成には背を向けた形で声だけをよこした。左近が処理できる書類は片付けてくれているのだろう、三成は左近の仕事の邪魔をしないよう、短く、ああ、とだけ頷いた。
「行き違いにならなくてよかったですねぇ。幸村に頼んでからそのことに気付いたもので。」
まあ、無事会えたわけですから、よかったんですがねぇ。左近はやはり振り返ることなく言う。主に対して不遜な態度であろうが、三成は元々そういったことを気にしない性質であった。
三成はこの時、唐突に、左近が以前武田で世話になっていたことを思い出した。幸村とも旧知の仲であるらしい。三成は、衝動に突き動かされるままに、
「、左近。」
と彼の名を呼んだ。先程、川の魚をうらやましそうに覘いていた幸村の姿が、三成の脳裏をよぎる。何を思っていたのか、何を考えていたのか、三成には分からない。ただ、ただ唐突に、寂しそうに懐かしそうに水面を覘く幸村の横顔をいとしく思った。
かた、と無機質な音が響いた。左近が筆を置いた音だ。三成は思考はそこで中断した。左近は振り向き様に、
「何です?」
と訊ねたが、彼の名を呼ばせた衝動は、左近の顔を見た途端にどこかへと行ってしまった。
十勇士と幸村
祭りの夜から数日後、幸村は薄暗い室内で書を読んでいた。が、ゆっくりと顔を上げ、名を呼んだ。忍びの気配を感じ取ったからである。
「六郎。」
幸村の声だけが部屋に響いた。音もなく、海野六郎が姿を現した。
「首尾はどうだ?」
「はい。雑賀さまが必死に説得を試みていますが、最早手遅れでしょう。兵を退かせるつもりは毛頭ないかと。」
そうか、と幸村は無感動に頷いた。六郎はその僅かな言葉の中から、幸村の思考を感じ取る。もし、慶次に語ったように大坂城を攻め立てれば、秀吉の意識は日の本へと戻ってくるのではないか。幸村はその妄執が捨てられぬ。だが、幸村の手勢ではそれも叶わない。父ならば、もしや、と。六郎は幸村の思考を塞ぐように再び口を開いた。
「昌幸さまは動かぬそうです、幸村さま。」
幸村は手元に視線を落としながら、再度、そうか、と繰り返した。
「幸村さま、報告しなければならないことがもうお一つ。雑賀さまに気取られてしまいました。」
追っ手は?いえ、特には。どうやら気付いていない振りをしてくださるようで。目で会話の出来るのが十勇士である。二人はその視線だけで相手の言葉を読み取った。幸村は暗い夜の気を払うかのように、短く息を吐き出した。苦笑に近いものだった。
「あの方も、戸惑っておられるのだろうか。」
幸村が孫市を監視させたのは、ひとえに豊臣の内情を知る為であった。しかし、その情報をどうこうしようと企んでいるわけではない。父に知らせるつもりも毛頭なかった。幸村が純粋に知りたかっただけなのだ。六郎もその辺りの機微は心得ている。
幸村はしばらく考えるように、開いたままの書に視線を落としていたが、ご苦労だった、もう手を引いてくれ、と告げた。六郎はその言葉をそのままに受け取り、ああこの主は何かに満足し、ご自分が受け入れるべきこれからを見付けたのだと悟った。御意に、と一礼し姿を消したのだった。
三成と兼続
三成は祭りの夜が明けても、仕事に追われていた。兼続はそんな三成の様子にも構わず、三成の部屋に上がりこんでいた。
「祭りは中々に盛大だったぞ。お前も一緒だったらよかったのになあ。」
本当ならば三成も行きたかったのだが、仕事がそれを許してはくれない。今も片付いていない状況なのだ。三成は人の神経を逆撫でしていく兼続の言葉に、不機嫌さを隠すことなく、それはよかったな、と刺々しく言った。少しだけ、走らせる筆の速度が落ちてしまった。
「ああよかったとも!」
兼続は、己の言葉がどれだけ三成の神経を刺激しているのか分かっているのだが、気にした様子もなく、更に三成の眉間の皺を増やす。
「だが、お前が来ていたら私は幸村とはぐれずに済んだだろうし、幸村もあんなことを言わなかっただろう。ああ残念だ。」
「何だ、お前は意気揚々と出掛けて行ったくせに、はぐれてしまったのか。」
兼続は三成の言葉に返さない。残念だ、悲しいことだ、と繰り返すばかりだ。三成は己の問いに反応を示さない兼続にうんざりしたが、それに何とか蓋をして、何が残念で悲しいんだ?と再度訊ねた。
兼続は三成の言葉に呟きを止めた。兼続は眺めるような、遠くを見つめるような眸を三成に向けた。何だ俺は当然のことを訊いただけだぞ。三成の目に込められた反論が兼続には届かない。
「あの子は平穏を生きる術を知らない。知らな過ぎる。私はそのことが残念でたまらない、悲しくてたまらない。」
ああそういえば、私はお暇しよう。お前程ではないけれど、私も中々多忙な身でな。三成が呼び止めるのも聞かず、兼続はさっさと退室してしまったのだった。
三成とねね
三成は息抜きを兼ねて陣をこっそりと抜け出していた。少し歩こうと思い、歩を進めていたのだが、見慣れた、ここにはいないはずの姿に三成は動きを止めた。三成が息を呑んだその音を拾い上げたのか、その人はゆっくりと振り返った。
「久しぶりだね三成。ちゃんと食べてる?顔色悪いよ?折角の美人さんが台無し。」
ねねである。ねねは三成の顔を指差してくすくすと笑った。懐かしい顔であった。三成以上に擦り切れているはずの彼女は、昔と変わらぬ顔で笑っている。
「どうしてここにおねねさまがいらっしゃるのです?早くお帰り下さい。秀吉さまはこのことを知って、」
「お前はもう子どもではないし、あの子たちも、もうあたしの手元に置いておくことはできないけれど、ねぇ、三成。」
慈母の眼差しに、三成の言葉が止まった。この方は何もかもを見通しているのだ。三成は、この母の元で生きてきたのだ。三成は繕うことがどれ程無意味なのかを、その眼差しで感じ取った。
「お前は生きにくい道をゆくのかい?たくさんの人を、何よりも、三成、お前自身を不幸にしてまで、お前はその道をゆくのかい?」
「意味が分かりません。もっと具体的にお願いします。」
けれどねねは穏やかに微笑んで、三成の言葉を流してしまった。
「お前たちの人生だもの、好きにするのは当然だよ。お前たちが争うのも、お前たちが選んだ道なら、あたしは口出しも手出しもしないよ。」
それは清正や正則たちのことを指しているのですか?三成の問いにねねは答えない。穏やかに、どこまでもあたたかく微笑むばかりである。
「でも、忘れないでおくれ。あたしはお前たちを認めているし、お前たちの生き様に指図するつもりもないよ。でもね、忘れないでおくれ、あたしはお前たちのお母さんだから、だから忘れないでおくれ。あたしは悲しむよ。」
おねねさま、とその一言すら声にならなかった。
ねねはふと思い出したように空を見上げ、三成から眸をそらした。三成からはねねの表情は伺えなくなってしまった。穏やかな口調で、ねねは言葉を続けた。
「幸ちゃんはいい子だね。お前には勿体ない、本当にいい子。けど、あの子は三成、お前のそばじゃないと生きていることを忘れてしまう。そのことを、お前は肝に銘じておきなさい。ああ本当に、」
お前には勿体ない子だし、あの子にお前は勿体ないよ。ねねは最後にそう繰り返したのだった。
慶次と兼続
兼続は、城へと帰っていく幸村の後ろ姿をじっと見つめていた。慶次はその隣に立ちながら、同じように兼続の視線の先を追っている。
「随分と、執心だねぇ。」
兼続の視線には熱すらこもっている。慶次がそう思うのも無理はなかった。慶次は熱心な彼を茶化したつもりだったのだ。けれど兼続は、ああもちろんだとも、と静かに空気を震わせた。振り返った兼続が、慶次の目を捉えようと目線を上げた。そこには明らかに表情と呼ばれるものが貼り付けられていたが、慶次は彼の感情の名が分からなかった。哀しそうに、でもなく、寂しそうにでもない。
「私はきっとあの子がおそろしいのだ。」
兼続は幸村のことをあの子と呼ぶ。慶次は違和感を覚えたものの、彼なりの愛着の示し方だろうと指摘はしなかった。
「あんた程の御仁でも、おそろしいものがあるのか。」
慶次は大きな声で笑った。慶次は兼続が、幸村の何をおそれるのか、分かるような気がしたからだ。故の誤魔化しである。長篠の戦から今日まで、あの男は何一つとして変わっていないのではないだろうか。慶次の目には、幸村の真っ直ぐすぎる程真摯に敵を見定めるあの視線が、どうも頭から離れない。
「私はきっとお前が思っている程人格が出来ていないだろうよ。だからおそろしいものがたくさんある。たくさんあるが、何一つとして克服出来ていない。ああ私は、」
兼続は視線をそらした。その感情の名は何だ。慶次は見定めようと彼の眸を探る。しかし、まるで薄膜で護られているかのような黒黒としたその眸は、決して無機質ではないのだけれど、その感情の名を覚らせようとはしなかった。
「私は、驚いたと同時に戦慄したのだ。あの子は、あんなにも少ない手勢で、愚かにもかけつけてしまった。三成の救援どころか、己の命すら守れぬかもしれぬあの少ない数で。私はその事実が、おそろしくてたまらないのだよ。」