三成と左近
三成は馬に揺られながら、三成を守るように隣りをゆったりとゆく左近に目をやった。三成の視線に気付いたのだろう、左近は苦笑しながら、なんです?と訊ねた。どうやら、相当険しい顔をしているらしい。
「幸村は、」
三成は一旦言葉を切った。この場で幸村を話題にするのは、おかしいのではないだろうか、まるで慕情しているようではないか。そう思った途端、次には、左近に幸村のことを訊ねてもいいだろうか、と三成は思った。武田、という言葉を軽はずみに口にしていいものだろうか。三成は考えたが、相手が左近であるということを思い出し、考えることを諦めた。何を言ったとて、この男は三成を裏切ったりはしないだろう。考えること自体が無駄なのだ。
「幸村は昔からああか?」
三成の口から飛び出した言葉は曖昧であった。左近も三成の思考回路を考慮した上で、一度は答えをしぼり出そうと努力はしたようだったが、やはり言葉が曖昧過ぎたようだ。左近は一呼吸を置いて、ああ、とは?と訊ね返してきた。三成は言葉を探す。
「味方の危機に、なりふり構わず駆けつけるのか?」
左近は三成の問いにそうですねぇ、と考える素振りを見せた。左近の知っている幸村と、自分の知っている幸村はどれだけの差があるのだろう。ふと疑問に思ったが、それこそ言葉にすることが困難であったが為、三成は左近の答えを待った。
「昔から、結構ああでしたよ。」
意趣返しか、それとも左近も言葉が見つからなかったのか、ただ三成の言葉を繰り返した。三成は左近の台詞で理解できることが何一つとしてなかったが、何かを納得してしまった己の心は、短く「そうか。」と相槌を打ち、すぐにまた視線を前に戻したのだった。
左近と三成
左近は酷使された身体が軋むのを感じながら、ゆっくりと身を起こした。休んでいる場合ではない。敵は本陣近くにまで迫っているという。殿には落ちてもらわなければならない。なれば、こそ。
「左近、もう少し休んでいろ。すぐに劣勢など引っ繰り返る。」
引っ繰り返ることなんて、ありませんよ。左近は三成に見えぬように自嘲した。小早川が怒涛の勢いで進軍しているのだ。兵は弱くとも、数は多い。戦闘で疲れきっている石田の軍には無策の突撃こそが一番きつい。
「俺は不甲斐ないな。秀忠が参戦していないということは、幸村が見事引き付けたのだろう。」
十倍の兵数差をものともせず、幸村は三成との約束を見事に遂げたのだ。それが、自分はなんだ。この体たらくはなんだろう。幸村と比べれば、大した兵数差ではない、むしろ互角であろう。左近は三成の顔に浮かんでいる表情で、彼の心情をも覚る。
「幸村は怒るだろう不甲斐ないと落胆するだろう。いや、兼続であってもそうだ。志を共にした。だが結局俺は、家康に勝てる器量を持ち合わせていなかったのだ。」
殿、と声をかけようと思ったが音にならなかった。咄嗟に伸ばした手が血糊で汚れていて、ああ今は戦の最中なのだと他人事のように思った。左近の傷は深く、最早助からないだろう。
「何より俺は、幸村をまた、」
突然のことに三成の言葉が何を指しているのか、左近には分からなかった。が、意外にも冷静な頭が、ああきっと長篠の、そして武田のことを言いたいのだろうと答えを弾き出した。
「殿、今だから言いますけど、」
そう切り出したのは、三成が戦を忘れて落ち込んでいるせいである。早く逃げなければならない。立て直すことはもう不可能だ。それをこの御仁は理解していない。それを説かねばならなかった。それが左近の役目であるからだ。だが左近は、その役目を一時放棄してしまった。三成の何も知らぬ目が哀れだったのかもしれない。
「殿が幸村を俺に紹介した時、俺は大層驚いたんです。」
「ああそうだろう、お前は長篠の戦には参加していないと言っていたからな。幸村はあの戦で、」
三成の言葉を遮るように、ゆっくりと首を振った。僅かな振動すら傷に響いたが、先程より良くなっているように思うから不思議である。ただ単に、感覚が鈍っているだけだと分かっていたが、今はそれが有り難かった。
「違うんですよ、殿。幸村は、驚く程、何も変わっていなかったんです。」
長篠の地は地獄絵図そのものだと聞いていた。鉄砲が主力となる新たな時代の幕開けであった。だからこそ、その地から生き延びた幸村は、まるで地獄から命からがら逃げ出したようなものだと思っていたのだ。人生観そのものが大きく変わってしまうだろう、と左近はそう思っていたのだ。けれど。けれど。槍を持つ幸村の姿勢は、敵を射抜くその視線は、何一つとして変わっていなかった。変わったとすれば、その槍の切っ先を向ける相手であり理由であった。それでも幸村は戦うことを捨てはしなかった。しかし左近には、どこか、捨てることを忘れてしまっているようにも映った。
戦の最中の会話ではないな、と左近は語ってから思った。今は時が惜しい。こうしている間にも、敵は一歩一歩本陣へと近付いていることだろう。手遅れになる前に、三成には逃げてもらわなければならない。
「さあ俺の話は終わりです。殿はさっさと逃げてください。撤退なんて言葉は使いませんよ。尻尾巻いて、早く退散しちまって下さい。俺はあとから駆け付けますから、間違っても誰かに討たれるようなことだけは、なしですよ。」
「約束だな、左近。違えるなど、俺が許さんぞ。」
「はいはい、殿の怒りに触れることがどれだけ恐ろしいのかは、左近が一番承知していますよ。」
これが二人の今生の別れであった。
くのいちと三成
くのいちは気配を殺すことすらせず、洞窟に入り込んだ。じめじめとした洞窟である。長時間を過ごす場所には適さぬことは分かっていたが、くのいちはここに何が居るのかを知っていた。関ヶ原から逃亡した石田三成は、この洞穴で匿われているのだ。
くのいちが姿を見せても、三成は驚きもしなかった。落ち武者狩りが日々激しさを増していると聞く。だが三成は、そういったものから隠れようとしている様子はなかった。不遜な態度は相も変わらずである。
「狐、幸村の恨み言でも伝えに来たのか。」
くのいちと三成は顔見知りであった。しかしそれだけの関係である。幸村を通して親しくなったかというとそうではない。幸村と三成が側に居る時くのいちは近付かなかったし、同様にくのいちも三成の前には極力現れなかった。互いに、合わないと感じ取っていたのだろう。
「ばっか、あんた超ばっか。幸村さまはあんたにかける言葉なんて持ち合わせてないって。にゃは、見捨てられてんの!」
少しでも傷付いた顔をしてみろ、とくのいちはそう言葉を吐いたが、しかしくのいちが予想したような顔を三成は見せず、ただ無表情にそうか、と呟いたきりだった。
「助けてくれって命乞いでもすればいいのに。そうすればあたしが幸村さまの所まで連れてってあげるのに。」
「だが、幸村はそれを望まぬのだろう。だから俺はお前には縋れん。」
馬鹿だと思った。だからくのいちは素直にそう言ってやった。幸村が何故それを望まぬのか、この男が見透かしている事実が何より気に食わなかった。
「馬鹿みたい。馬鹿みたい!あんたはそうやって簡単に死んじゃうんだ。いいじゃん別に。あんたの命はあんただけのもんだし、それを幸村さまが口出しできるわけないのに。」
「幸村は俺を美化しすぎていた。だが俺はそれが不思議と不快ではなかった。俺は幸村が眩しかった、焦がれていたのだと、ようやく気付いた。そして、幸村も同じなのだと知った。だからこそ、今際の時、俺はお前には縋れん。幸村に縋れん。俺は幸村が夢を見ている俺の姿を全うしなければならない。」
何の為に?くのいちは問う。ひどく冷ややかな声であった。もしその口でその声で、救われたと錯覚しているような表情で、くのいちが今一番ききたくない言葉を言うのであれば、くのいちの手の内に潜ませている苦無が三成の急所を貫いていたことだろう。三成は無表情に言った。
「俺のためだ。豊臣のために兵を出した俺が言えた台詞ではないだろう。だが、俺は俺のため、お前の手を振り払う。」
馬鹿な男。くのいちは苦無を振るう力が抜けていくのを感じた。
くのいちと清正
くのいちは隠していた気を少しだけ辺りに散らした。手練れであればくのいちの居場所を突き止めることができるだろう。くのいちは屋根裏から下の様子を伺っている。男はくのいちに背を向けた形で文机に向かっていた。もし、この男がくのいちの存在に気付かなければ、くのいちは何もせずに帰るつもりである。懐の文はびりびりに破いて焼いてしまえばいい。燃やすのだから破く必要はないのだが、それではくのいちの気がすまない。
男は動く気配がなかった。くのいちはそろそろ帰ってしまおう、折角幸村がしたためた手紙だが、破いてしまおう、そう決心した時であった。男は振り返ったかと思えば、迷うことなく天井を見上げた。目が、合ってしまった。男は加藤清正と言う。
何者だ、と静かに声がかかった。くのいちは潜んでいる必要性がなくなったことに少しだけ残念に思ったが、静かに下へ降り立った。
「怪しい者ではありません。主より書状を預かっております。必ず、あなたさまにお渡しするようにとの命でございました故、ご無礼をお許しください。」
片膝をつき、頭を垂れたくのいちは、神妙にそう言った。融通の利かぬ者であれば、この時点で大騒ぎになっているだろう。しかし清正は落ち着いた様子でくのいちを眺めていた。肝は据わっている。秀吉が亡くなった今、家康が最も恐れる男は加藤清正だという風評も中々的を射ているようだ。
「主とは、」
「それは言えないにゃー。ただ、あたしの主人はひどく変わった人だから、この文はあんたを不快にさせるだけかもしれないよ。」
急に態度が変わったくのいちに、清正は一瞬眉をひそめたが、元々の出が出である、そういった儀礼染みたことには特にこだわらないようであった。くのいちは、どうせならここでこの男が逆上して、この文を破いてしまえる口実を作ってくれればいいのに、とすら思った。幸村は死んだ者に優しすぎるのだ。
「でも、あたしの主は、あんたにこそ、この書状を読んで欲しいの。そう言ってたの。」
くのいちは言って、懐から取り出した紙束を、乱暴に畳の上に放った。畳をすべり、清正の許にまで書状が届く。
「でも、今読む必要はないよ。ううん、むしろ今は読まない方がいいかも。そこにはね、あの狐のことが書かれてるんだって。今のあんたじゃ、頭に血がのぼるだけかもね。あたしの主はね、そりゃあもう自分勝手で我侭で、ひどい人なんだけどね、でもね、この書状はね、あんたに後悔してほしい為のものじゃないの。ただ、あんたにも色んなことを知って欲しいだけなの。」
「狐、とは三成の、」
「はい、あたしは今はやめといた方がいいって、忠告したからね。」
当然清正からの問いがあった。が、くのいちは意味深な笑みを浮かべ、そのうち分かるよ。嫌でも分かる。とだけ告げ、姿を消した。その後、清正が文を読んだのか捨ててしまったのか、その真偽は清正しか知らない。
くのいちと兼続
「直江山城。」
くのいちは静寂に溶けるような声で、兼続の名を呼んだ。兼続がくのいちの存在を確認する前に、くのいちはその前に降り立った。忍びらしからぬ行動だが、兼続はあの幸村の忍びなればと思えば、それ程違和感を抱かなかった。
「幸村の忍びか。何だ私の首でもとりに来たのか。」
「そんな生臭いものに興味ないのよねぇ〜。」
くのいちは軽口を叩くが、兼続はそうかそうなのか、と一人納得をしてしまった。くのいちは兼続の、一人勝手に幸村のことを理解している風を装っている姿が嫌いだった。この人が幸村さまの何を知っているのだろう、幸村さまのためにこの人は何をしてくれたのだろう、そう思うと、ふつふつと怒りがわいてくるのだ。否、それは怒りよりも憎しみの方が近いかもしれない。くのいちは義だ不義だと叫びながら、纏う空気の不穏さが胡散臭くて仕方がないのだ。
「幸村さまにね、あんたのとこ行くから何か用事ない?って訊いたんだけどね、何にもないって。言葉伝えるのも文を書くのも嫌なんだって。にゃは、捨てられたね、あんた。嫌われちゃったね、にゃは、にゃは。」
「……。」
くのいちは兼続をからかうように指をさして笑ったのだが、兼続はひっそりと顔を背けただけだった。反論があるものだと思っていたくのいちは、ああもう!あんたも相当面倒!と兼続の顔を覗き込んだ。
「うっそ、嘘に決まってるでしょっ。幸村さまがあんたの決心挫くようなことするわけないしぃ。これはあたしの独断。」
きっと幸村さまはあたしがあんたの所に行くだろうことを分かってただろうけど。くのいちはそう確信していたが、言葉にはしなかった。幸村が文を書かなかった理由は、ただただ言葉を知らなかったのだとくのいちは思っている。この男にどんな言葉をどんな文を送ればいいのか、幸村は知らなかったのだ。言葉を持っていなかったのだ。それは悲劇だろうか、それとも、些細な救いだろうか。
「あんたはね、もっと自惚れればよかったの。でも、あんたはそれが出来なかった、度胸がなかった、器じゃなかった。意気地なし。ああ本当に。」
意気地なし意気地なし。くのいちは歌うようにそう言いながら笑った。既に兼続から背を向けていた。くのいちは兼続が、背後から斬りつけてくる気力がないことまで見抜いていたのだ。
「あたしたちは、だからあんたに勝ったわけ。そりゃあ完勝、楽勝ってもん。幸村さまは死んでしまうけれど。あたしたちもきっと、死んでしまうけれど。でも、あたしたちは勝った。あんたは死んでいくあたしたちにすら、負けちゃったわけ。」
無様だよねぇ、ホントホント無様過ぎて笑えない、や、あたしは笑うけど大笑いしてやるけど。
「でも、あんたが無様だと幸村さまは悲しむから、ここで笑い納めして帰ってあげる。」