体勢を整えた政宗は、軍を率いて真っ直ぐに進んだ。幸村の目的は家康の首ただ一つだ。その首をとったとしても徳川は滅びぬだろう豊臣の天下は有り得ぬだろう。それでも幸村はただただ家康の首を求めた。
(わしが幸村、そなたの首を欲すように、そなたが家康の首を望むのであれば、少しは希望があったものを。)
 幸村も政宗も、相手を憎むあまりに首をとるのではない。幸村は己の為、政宗は己と、そして幸村の為である。

 政宗の軍勢は更に進み、兼続率いる上杉軍が陣を張っている真田丸へと差し掛かっていた。一戦交えた荒れた様子はなかったが、漂っている空気が不穏だった。負け戦へと臨む軍議のような暗い気が充満しており、逃亡兵も見受けられた。
「山城は負けたか、死んだか。それとも、」
 生き延ばされたか。誰に、とは言うまでもない。
 政宗は気配を感じ顔を上げた。たくさんの人で溢れているが、その中でいっそう政宗の神経を刺激する、相容れない存在が政宗の前に立ちはだかったからだ。
「死にぞこないが、わしに何の用じゃ。」
 政宗は馬から降りるつもりはない。けれど兼続はそれを無礼として認知していないようだった。いや、そんな些細なことは気にしていられない、といったところだろう。虚ろな眸がゆっくりと政宗に向けられる。腑抜けたものよ、ああまこと、愚鈍はこの男じゃ。政宗はこの男の変わり様がいっそ憐れであった。政宗の眸に罵声を浴びせかけたあの男の覇気は既にない。この男もやはり人であった。
「みにくいことだ、ああ醜いとも。貴様も幸村の首が欲しいのか、ああそうだろう、そうだろうな!みにくいことだ独眼竜、いっそ憐れなほどに貴様は醜い。」
 憐れなのはどちらであろう。政宗は汚らわしいものを見るように、兼続を視線で貫いた。
「醜いはどちらじゃ山城。武士とは誇り高き生き物じゃ。だが、それを捨てた貴様には理解できぬだろうな。幸村はな、貴様よりわしを選んだのじゃ。あやつの首を貶めているのは貴様ではないか!」
「ああそうだとも。私はみにくい。だが、あの子はこんな私を見てはいまいよ。何も知らないだろう。あの子は、」
「家康の首をとりに行ったわ。」
 政宗は聞くに堪えぬ、と兼続の言葉を塞いだ。
「なれば、その男の首を欲するは、当然の報いであろう。」
 貴様と話しをしている刻はない。政宗が兼続の隣りを通り過ぎようとした、まさにその時であった。
 政宗は己の血が凍てつくような、そんな錯覚に陥った。あの男は決して生きてはいないだろう。己がその首を取ること叶わぬだろう。分かってはいたが、理解してはいたが、あまりにその言葉は無情であった。身体の中を衝撃が通り抜けていく。

『真田幸村討ち取ったり』

 空気が戦慄した。何重にも重なる報は、政宗の鼓膜を何度も何度も震わせた。心を何度も何度も震撼させた。
 政宗は采を放り出して駆けた。軍を置き去りにして、ただただ、声がした方へと駆け出していた。政宗を呼び止める声がしただろう、けれど政宗は、決して止まることはなかった。
(幸村、幸村、その首はわしが討つのではなかったか、貴様の最期を飾るは、わしでなければならぬのではなかったか?!これはわしの過信か、妄想か?!幸村、幸村、)
 政宗は馬に鞭打ち、僅かでも早く、と己すら急かしていた。
































 くのいちは最後の使命を果たすべく、大坂城を離れていた。根津甚八が前田慶次の足取りを掴んでいたのだ。くのいちは慶次に足止めをしなければならない。それがくのいちに課せられた使命であった。しかし、戦場とは離れたこの地に居る意味を、くのいちは誰よりも理解していた。

「ここから先は通せないのよねぇ〜。さっさと帰ってくれない?ここであんたが出来ることなんて、何にもないの。」
「くのいちの嬢ちゃんかい。だが、俺も引くに引けなくってなあ。悪いが通してくれないかねぇ。」
 じょーだん!くのいちは言うや武器を構えた。くのいちの使命は慶次の足止めである。戦が終わるまで、くのいちは慶次の相手をしなければならない。けれど相手を殺してはいけないと言われていた。分が悪いが、くのいちは最後の最後、幸村のその甘さに救われていた。
「通すわけないでしょ。武士の一番の忠義は主のために死ぬこと。なら、忍びの一番は何だと思う?主の命令を何よりも優先させること。あたしの使命は、前田慶次、あんたを幸村さまに会わせないこと。」
「幸村は俺に会いたくないってか。嫌われたもんだねぇ〜。」
 慶次はそう言って笑ったが、目の奥は笑っては居なかった。隙を見ては突破する腹積もりなのだろう。くのいちも手にしている武器に力を込めた。力量では、慶次に敵わない。
「幸村さまはね、欲張りなの。本当に、どうしようもないぐらいに欲張りで我侭で。あんたとの関係ぶち壊してでも、家康の首が欲しいだけなの。」
 幸村が最後の戦に求めたのは、家康の首ただ一つだった。富でも名誉でもなく、金でも禄でもなく、ただただ家康の首を欲していた。それをくのいちは欲張りだと言った。家康は既に天下人として雲の上のような存在である。そのような存在である男の首がほしいのだと、幸村は子どものように言う。くのいちにとっては、我侭で欲張りな子どもと大差なかった。けれどくのいちは、子どものような我侭を言う幸村が好きであった。
「あんたはね、戦場の空気を知ってるだけあって、幸村さまの心理を突く。だけど、今、最後のこの時に会ったら、幸村さまの何もかもが崩壊しちゃうの。戦の観念から、理由から、全部全部、あんたはチャラにしちゃうの。だからさ、あたし殺してもいいけど、ここは通させないよ。」
 くのいちは慶次の言葉には耳を貸さず、来ないならこっちから行くけど?と今にも飛び掛らんばかりの勢いである。そんなに息巻いてくれるなよ、と慶次は笑ったが、くのいちは一縷の隙も見せない。
 くのいちは己の今の状況を思うと、いっそ笑いが込み上げてきた。己は幸村とは死ねぬのだ。幸村の生と共に生れ落ちたと錯覚している己なのに、最後まで付いてゆくことが出来ない。幸村はそれを喜んでくれるだろうか。自分は悲しい苦しい悔しいと嘆いているけれど、幸村は、
「ぶっちゃけね、あたしはあんたが幸村さまを救ってくれればいいなあ、なんて甘ったれたことまで考えてたの。でも、幸村さまはあんたからの手を望まなかったし、あんたはあんたで、その手を差し出さなかった。だからあんたと幸村さまとの絆はもう終わってるの。あんたが終わらせた。」
「ああ、確かに今更だ。だから今更、どうこうしようってんじゃない。ただ幸村に会いに来ただけだ。」
「会えないよ。もう会えない。死人には会えやしないんだから。」
(あたしは、幸村さまの"死"だって守るよ。)
 それが合図であった。くのいちは持ち前の身体のばねを活かして、大きく跳躍した。慶次の気絶させる程の強烈な一撃を食らわせれば己の使命は完遂するが、慶次がむざむざそれを許すわけがない。こうなれば持久戦である。元からそのつもりだ。時間を稼ぎさえすればいい。いつまで?何が終わるまで?それは至極簡単な答えである。
(あたしは幸村さまが討ち死にするまで、あんたと踊るんだ。)


 忍びであろうとも人である。疲労は確実にくのいちの身体を蝕んでいた。放蕩生活を送っていても、やはり前田慶次である。くのいちの攻撃を軽くいなし、更に容赦ない反撃を繰り出す。くのいちは慶次の攻撃を苦無でそらしながら荒い息を吐き出す。もう、もたないかもしれない。だが、早く、とは祈れぬ。それが何を意味するのか、くのいちは考えることを放棄した。己はただ、我侭な主の我侭な命令を遂げようとしているだけなのだ。そう思わなければ、くのいちは苦無を持つ力すら失ってしまいそうだった。
 その時であった。くのいちは放っていた殺気が、身体の中から消えてゆくのを感じた。大坂城からは離れているとは言え、戦の喧騒は町外れにまで届いている。その声が言うのだ。その喧騒が叫ぶのだ。くのいちはだらりと手をおろし、大坂城がある方角を向いた。

『真田幸村討ち取ったり』

 戦意を失ったくのいちに攻撃を仕掛けるような男ではない。慶次はくのいち程聴覚が優れていなかったが、もしや、と思うものがあったようだ。先程まで刃を交えていた相手に背を向けてしまったくのいちを、ただ何も言わず眺めている。
「行く。」
「え、おい!」
「行く。あたしは行く!」
 慶次は咄嗟に手を伸ばしたが、くのいちは先の息切れが嘘のような素早さで駆け出した。
「前田慶次!あたし、殺さないでくれて、ありがと。」
 くのいちは一瞬だけ笑った。泣き笑いである。ああ幸村さま幸村さま。あたしを置いて行ってしまった幸村さま。あたしは一生幸村さまをうらむよ。うらむことを知らなかったあなたを、あたしはうらむよ。















































 望月六郎は幸村として率いていた小隊の足を止めさせた。立ちふさがる軍勢を退けなければ、前に進むことはできない。
「小助どの、いえ、望月六郎どの、ですね。」
 稲姫である。六郎は幸村と同じ所作で頷き、前へと進み出た。特に深く交流をしていたわけではなかったが、稲は幸村の影を一度として間違えたことはなかった。
「お久しゅうございます、稲姫さま。」
「そこをおどきなさい。今ならまだ間に合います。幸村を連れ戻すのです。」
「きけません。あなたさまの言葉であっても、きくことは叶わぬのです。」
 六郎の瞳によどみはない。真っ直ぐに稲を見つめている。その時間すら惜しい稲は、じれたように足を一歩踏み出した。それに反応して、真田の小隊も手の武器に力を込めた。突破をさせる気など、たとえ相手が幸村の義姉であっても、さらさらないのだ。
「あなたたちが、幸村を殺すのですよ?!」
 稲は声を上げたが、六郎は静かに佇むだけだ。六郎の顔はそれ程幸村に似てはいなかったが、纏う雰囲気がおそろしい程に瓜二つであった。
「たとえわたしが幸村さまを殺すことになったとしても、幸村さまの御心は殺させはしません。稲姫様、幸村さまをどうなさるおつもりですか?あなたさまのその行動こそ、幸村さまを殺してしまうのではありませんか?」
 六郎の声に動揺はない。凛としたその声の張りは、まさに幸村である。
「あの人に会わせます。説得させます!幸村がこんな戦で死ぬ必要はないのです!」
「信之さまは何もおっしゃいますまい。犬伏のあの日より、互いに覚悟はできております。兄と弟、わかれて戦うその意味を、一番に理解していた方々です。」
「お前に何がわかるのです!」
「分かりますとも。幸村さまの御心を共有できずして、影は務まりません。」
 その時であった。その声は二人の鼓膜を激しく揺さぶり、余韻を残して消えていった。稲は目を見開いて声がした方を凝視した。

『真田幸村討ち取ったり』

 稲は唇を震わせて、何度も繰り返される報を聞いていた。やがてはその声も走り去った頃、既に望月六郎をはじめ、六郎に付き従っていた海野六郎、三好清海の姿はどこにもなかったのだった。















































「政宗さま。」
「ゆき、」
 むら、と呼ぼうとして、政宗は途中で声を切った。その声は気配は雰囲気は彼であった。しかし、彼は真田幸村ではない。幸村であるはずがない。
「誰だ。」
「穴山小助と申します。幸村さまの影にございます。」
「幸村の影が、幸村を守らず、わしに何の用じゃ。」
 小助は笑った。ああ本当にその通りだと思ったからだ。幸村さまの命を守れなかった自分は、せめて幸村さまの願いを守りたいのだ。
「あなたさまに願いがございます。どうか私と一騎打ちをして下さい。そして、叶わなかった幸村さまの代わりに、私の首をあなたさまに捧げさせてください。」
 政宗は息を詰めたが、次第に顔を弛緩させ、大声で笑い始めた。小助が幸村の死を認めてしまった、その事実は政宗にとって最早笑い飛ばすしかなかったのだろう。
「おぬしは愚かじゃ。まっこと主に似ておるわ。何故わしの前に現れた。何故逃げ出さなんだ。」
「私は幸村さまの影でございますれば。私に何がありましょうや。幸村さまがお討ち死にされた今、影である私も死ぬべきなのです。けれど私は幸村さまの影として一生を終えたい。なれば、影は影らしく、幸村さまが叶えられなかった願いを叶えて死を飾りたいのです。」















































 武蔵は無我夢中であった。背後から狂気におかされた叫び声が聞こえた途端、武蔵の中で何かが切れてしまった。武蔵に届いた叫び声は確かに『真田幸村討ち取ったり』と叫んでいた。その報を聞いた武蔵は、幸村の許へと駆け付けようとしていた。戦場では誤報など珍しいことではない。この目で確かめねば信じないと、そう思いながら駆けていた。あの男はこの戦の終わりには生きていないだろうと分かっていたが、それでも武蔵は敵の中を駆けずにはいられなかった。
 その武蔵を止めたのは海野六郎であった。幸村は既に討ち取られている。武蔵がその場へ駆けつけたところで、同じように討たれるのは必定だった。六郎は強い力で武蔵の腕を掴んでいたが、それでも武蔵は振り払って進もうとする。指が武蔵の腕に食い込んでいたが、武蔵は痛いと喚くよりも離せと嘆いていた。

「武蔵どの。」

 その声は張りは、心地良く武蔵の鼓膜を振動させるその音は、確かに幸村のものであった。幸村、と呼ぼうとして声が潰れた。が、武蔵はようやく今の状態を自覚した。目の前に居る男はやはり海野六郎という存在で、武蔵の心を静めた幸村ではなかった。
「武蔵どの、お逃げ下さい。」
 六郎は尚も言う。幸村の声ではないと分かっていても、武蔵は動けなかった。
「その羽織りは目立ちます。この場に捨てて行った方がよいでしょう。」
 天下無双と描かれた武蔵の羽織りは、幸村の赤とは相反する色であったが、それでも戦場では目を引いた。
「俺はこいつと一緒に生きてきたんだ。関ヶ原から今まで、こいつで戦場に立った。」
「私が責任をもって処分いたします。頂いてはいけませんか。」
 先程六郎は捨てろと言ったが、武蔵はその言葉の意味を分かっていた。餞別などという言葉が、幸村の死と重なって嫌に現実感をかもし出していた。
「俺、前にあいつに言ったんだ。あいつの色は俺に合わねぇって。俺の色も、あいつには似合わねぇだろうよ。」
 いいのです、きっと幸村さまは喜びます。そう言って武蔵の背を押した六郎の表情を、武蔵は一生忘れぬだろう。





 たくさんの人を斬った。戦だそれも仕方がないだろう。けれど武蔵は幸村という存在一人が死んでしまったというその事実に、ひどく傷付いていた苦しんでいた。あああいつは俺にとって本当に大切な奴だったんだと今更ながら思った。武蔵は幸村の見つめる先を邪魔したくはなかったし、お節介を焼きたくもなかった。彼の信念と呼んだ意地をけがしたくはなかった。それ故の選択であったはずだ。しかし、武蔵は悲しかった。そして、今まで自分が斬って来たたくさんの人が、武蔵にとっての幸村であったと思うと、どうしようもなく胸が苦しかった。

 武蔵は、そこで思考を中断させた。見知った気配が、武蔵の顔を覗き込んでいたからだ。
「わりぃ。」
 武蔵は刀を胸に抱き、立て膝をした状態で、木にもたれかかっていた。くのいちは先に声をかけられて驚いたようだったが、表情には出さなかった。隣りにしゃがみ込んで、あーあと呟きながら空を見上げていた。喪失感は、武蔵以上のものがあるだろう。
「どうしてあんたが謝るの。やめてよね、傲慢にも程がある。」
 くのいちは傲慢だと言った。武蔵はその通りだなあと、訥々と思った。けれど武蔵は、今この時、くのいちにかける言葉は謝罪しか見つからなかった。くのいちにとって、真田幸村という存在がどれ程大きなものだったのか、大切だったのか、分からない。けれど武蔵が抱いている喪失感とも呼べる感情が、彼女の胸の中にもうずくまっているのだと思うと、武蔵はそれだけで泣きたくなってしまった。
「でもね、幸村さまはねあんたのことが好きだったの。あんたの強さが好きだったの。あんたのどうしようもない傲慢が好きだったの。だから六郎はあんたのこと助けたわけ。幸村さまはあんたを死なせたくなかったから、だから助けちゃったわけ。でもね、矛盾してるでしょ?幸村さまはあんたのことが好きで、あんたも幸村さまのことが好きだったのに、あの人はね、それに気付いてたのに、その矛盾には気付かなかった。幸村さまがあんたに生きてほしいって思った分が、自分にも返ってくるものだなんて、全然考えもつかなかった人なの。」
 馬鹿な人でしょ、本当に馬鹿な人だよ。くのいちの口調は穏やかで、武蔵はそれ以上の言葉を失った。

「大将は、」
「毛利が城に連れ帰った。切腹でもして事切れてるんじゃない。そろそろ火の手もあがるよ。ちなみに後藤は一番に逝った。潔い散りっぷりだったって聞いた。」
 毛利勝永と後藤又兵衛のことである。武蔵は思考がついていかず、そうか、としか返せなかった。
「 、ゆき むら は、」
「これあげる。」
 くのいちは武蔵の言葉には返事をせず、血と土ぼこりにまみれた、くすんだ朱色をした布を差し出した。使い古された布切れには、武蔵も見慣れた六文銭が染め抜かれていた。幸村の額に常にあったものである。
「これだけしか持ち出せなかった。これは幸村さまの魂だから、だからあんたにあげる。でもあんたがこれをもち続ける勇気がなくって、この重みに耐え切れなくなったら捨ててもいいと思う。あんたは生き残ったからその選択肢があるし、幸村さまは死んじゃったから先が何にもないの。」
 くのいちがあの一報を聞き、幸村の許へと駆け付けた時には、寄り添うように六郎や十蔵たちの骸があった。佐助や才蔵はまだ奮戦していたが、幸村の亡骸を守るには相手があまりにも多すぎたし、味方があまりにも少なすぎた。くのいちは首を守ることすら叶わず、ただ一つ、彼が最期の時まで身に付けていたはちまきを掴んで逃げ出した。それが佐助たちの願いでもあったからだ。
「あたしはね、あんたにこれを届ける為だけに、今まで生き延びてきたんだと思うの。才蔵も佐助も六郎も小助も、十蔵も甚八も、みんなみんな、あたし、一緒にいけなかった、いかなかった。だから、そうでも思わないとやってらんない。じゃないと、あたしの人生、不幸すぎでしょ。」
 でもね。くのいちは今度は穏やかに笑った。武蔵はその横顔をちらりと見、本当にこの娘は幸村のことを大切に思っていたのだと痛感した。
「でも、幸村さまはね、自分を不幸だなんて思ったことないんだよ、きっと。そういう観念を持ってなかったんだよ。だからね、あたしは自分が不幸だって知らずに死んでしまったことがひどく悲しいけど、反面ね、不幸だ不幸せだって嘆くことを知らずに死ねた幸村さまは、幸せだと思うの。」

 静かに時が過ぎた。ここは大坂城から僅かに離れてはいるが、直に落ち武者狩りが始まるだろう。あれだけ暴れまわった武蔵だ。首を狙われるだけの理由は十分だ。しかし、武蔵はその場に座り込んだたまま動けなかった。見上げた空は青く澄んでおり、武蔵の思考を奪った。こんなにも穏やかで、胸のすくような晴天に、自分達は一体をしていたのだろう。
「みんな、みんな死んじゃったね。」
 くのいちは笑った。悲しい笑い方をするな、と武蔵は思った。こういう時は泣けばいいのだ。だがくのいちは泣き方を知らないのだろう。泣く代わりにすら、笑うことしか知らぬ娘なのだろう。


 大坂夏の陣は、たくさんの人々に傷跡を残しながら終結した。そして、乱世の英傑達と共に戦もまた、なくなったのだった。