幸村は耐え切れずに顔を上げた。つい先程から書き始めた文は、ようやく社交辞令染みた挨拶を綴ったのみである。けれど幸村は、その先の言葉が見つからず苦悩を始めたところで、今度は背後の気配に悩まされていた。彼はきっと、幸村から声がかかるのを待っている。手紙を書き終え、この城に流れる澱んだ空気とは真逆の、阿呆のように陽気な声で「ああ、どうしたんだ武蔵。」と呼びかけられるのを、彼は待っているのだ。だが現実、彼が待ち望んでいるような状態になるには時が必要だ。文は未だ出口すら見えていないのだ。幸村は静かに苦悩した。それは、傍目には、手紙にどう言葉を綴ろうか思い悩んでいる様にしか映らないだろう。私の我儘を優先するか、はたまた、彼の身勝手さを許容するか。彼は幸村がわざわざ気を遣ってしまったことを責めるだろうし、幸村もまた、こんな些細なことで彼の思いを煩わせることを厭う。さて、互いに面倒のない答えとはなんぞや。幸村は僅かに逡巡して、ゆっくりと振り返った。
「ああ、武蔵か。どうしたんだ?」
武蔵は幸村の視線を受け、ああ、ちょっと、と手にぶら下げているものを持ち上げた。徳利である。酒の呑めぬ武蔵にはひどく不似合いだった。いや、それを知っている幸村だからこそ、その組み合わせを不釣合いだと思ったのだろう。
「貰ったんだけど、お前いらねぇ?」
言いながらその場から身を乗り出し、幸村の身体の向こう側にある文机を覗き込んだ。彼も大概臆病者だ。幸村が文を書き終えたのか、書き終えた振りをしているだけなのか、そんな些細なことが気になってしまうようだ。幸村は隠すのもまた不自然だと、彼が見つけやすいようにさり気なく身体をずらした。武蔵は、そうして覗き込む為に伸ばした首を、すぐに引っ込めてしまった。一瞬だけ浮かんだ表情が、「あ、やっちまった!」と雄弁に語っていた。確かに、書き終えたとするにはあまりにも短い。幸村は武蔵の表情の一瞬の吐露には気付かぬ振りをして、
「なんだ珍しいな。酒を貰ったのか。」
と彼の言葉に続いた。武蔵は渡りに船、とばかりに勢いよく食らい付いた。
「そうなんだよぅ、大体の貰いもんなら喜んで、食うなり使うなりするんだけどよ、こればっかりはどうしようもできねぇ。」
武蔵は困った、ほとほと困った、と徳利を掲げる。幸村は座ったままの姿勢で身を乗り出し手を伸ばした。徳利を受け取った幸村は、ずしりと重いその栓をきゅぽんと開けた。
「良い酒ではないか。これを機に嗜むことを覚えたらどうだ?」
「勘弁してくれよ。においだけで酔っちまう。さっさと仕舞ってくれ。」
幸村はくんくんと匂っていたが、武蔵が鼻をつまみ、くさいくさいと手を振り空気を混ぜるものだから、幸村はからからと笑いながら栓を元に戻した。
「貰っても良いのか?」
「貰ってくれねぇと困る。」
「しかしこれは、お前に呑んで貰いたいと、」
「ああ違う違う。俺は体格がいいだろう?だから大酒飲みに見えたみてぇでよ。そういうわけだから、ちゃんとした大酒飲みのお前に回すのが筋だろう。」
果たして、そうだろうか、そういうものだろうか。幸村はそう思ったが、この徳利が武蔵の所有物である以上、彼の理屈に従った。武蔵の言葉を否定するならば、"大酒飲み"という言葉よりも、"体格が良い"を訂正しなければならない。確かに武蔵の身体はしっかりとしているが、上背は幸村よりも低い。
幸村は徳利を傍らに置き、文机の上を片付け始めた。その様を見るなり武蔵は、
「どっか行くのか?」
と訊ねた。明らかに、この場から去ろうとしている気配を嗅ぎ取ったのだろう。
「折角上質の酒が手に入ったのだ。呑みに行って来る。」
幸村は顎で書きかけの文を指した。
「この文の宛先人のところへ。陣払いは、きっとまだ終えていないだろうから。」
今更な話ではあるが、ここは天下の大坂城である。そしてつい先日まで戦が行われていた。今は淀の方が強引に推し進めた和議のお陰で、戦闘も中止されている。仮初の形ではあるが、幕府軍と豊臣軍は、今現在は敵同士ではない。
「兄貴か?」
「いいや。」
幸村は首を振った。生憎、兄はこちらに出向いていない。
「なら、…… "なおえかねつぐ" か?」
「、いや、」
武蔵の発音は舌足らずであった。言い慣れていないのだ。その名を幸村経由で覚えたせいだろう。彼の世界に、直江兼続は存在しない。彼が何を思いその名を口にしたのか、幸村は考えぬように首を振った。
「政宗さまのところへ、」
そう名を発したが、これでは武蔵に不親切だろう。そう思った幸村は、もう一度その名を繰り返した。
「伊達 陸奥守 政宗さまのところへ、文を届けるついでに行って来る。」
その文は途中だろう。そう言いたげに、武蔵が整理された文机に視線を向ける。
「文は書き終えたからな、善は急げと言うだろう。」
僅かに、意味が違う。けれど意外にも几帳面な武蔵だが、こういった曖昧なものに対しての煩雑さは気にならなかったようで、ふぅんと無関心そうに相槌を打っただけだった。もし相手が武蔵ではなかったら、幸村の軽挙を止めるだろう。どうしてそうも、すすんで淀の方の不興を買いたがるのか、と。
ああ武蔵、うそだ、おおうそだ。私はおおうそ吐きだ。私は文に書こうとしていたことを、己の口から伝えようとしている。伝えたくて堪らなくなってしまっている。実にわざとらしい口実を引っ提げて、私はあの人に会いに行くのだ。そうして、私のひどく無礼な言葉にどんな表情を返してくれるのか、この眼で見たくて堪らなくなってしまった。確かめずにはいられなくなってしまった。
幸村は書きかけの文をさも大事そうに懐にしまい、武蔵を置いてこの空気から逃げ出したのだった。
幸村は伊達軍の陣所を訪れていた。突然の訪問にも政宗は僅かに驚いた程度で、すぐさま奥へと通された。まだ陽は高い。酒を呑むにはいささか人目に憚れよう。しかし政宗は、よいよい、と己の杯を差し出した。ついで、幸村の分を渡す。酒好きは政宗も同様である。
二人は、決して戦の話などしない。つい先日まで互い敵に分かれて戦っていたことなど、この場の空気に相応しくないことを知っているのだ。幸村はそんな決まりきった話をしに来たのではない。もっともっとくだらない、世間話なぞでこの酒をおいしく頂戴できれば満足なのだ。
「片倉どのは、」
「何じゃ、わしの酌では気に入らぬか?」
いえ、そんなことは、と言葉を濁しながら、もう一度、「片倉どのは、」と繰り返す。
「小十郎なれば近くにおるじゃろう。呼んで参るゆえ、待っておれ。」
「私が言っているのは、重長どのではありませんよ。」
政宗は杯を置いて幸村をじっと見据えた。後にも先にも、この人を怒らせることを恐れもなくやってのけるのは己ぐらいであろう。幸村は、ふとそんなことを思った。だが、幸村自身、彼を怒らせたいわけではない。ただ、不思議と彼のツボがよく見えてしまうから、ついつい突っつきたくなってしまうのだ。この歳になっても、まだまだ好奇心は旺盛であった。猫の尻尾を引っ張り、その怒りを買うのと全く同じだ。成長していないのだ。
「片倉景綱どのは、」
「病じゃ。此度は従軍しておらぬ。」
政宗が細く息を吐き出した。幸村は静かに彼の杯に酒を満たす。左様で、と幸村は相槌を打ったが、それは知っていた。病なれば尚のこと、どうして連れて来てはやらなかったのか。病で死ぬもののふの不憫さを、このお方は知っていように。ああ違う、それは私だ。父上のあのお姿が、あまりにも不憫だったせいだ。
「あやつがおらぬ故、少しは楽が出来ると思うたか?重長の戦振りはどうであった。」
「見事なものでございましたよ。片倉家も安泰でしょう。」
ぐいと政宗は杯を仰ぎ、その片目をひやりと幸村に向けた。育ちが育ちですから、言葉を知らぬのですよ。幸村は素知らぬ顔で杯を傾ける。
「まだ生きておるわ。」
「いずれは死にましょう。彼も、私も、あなた様も。」
「お主の場合は死に行くのであろう。わしは違うぞ、死を迎えるのじゃ。」
「死ぬことに、なんら変わりはありますまい。」
酒を呑んでいるというのに、全然身体が温まらない。どういうことだろう。久しぶりの彼の人との同席を、どうして楽しむことができないのか。政宗との言葉遊びが急激に冷え始めている。理由は分かっているのだ。私が自重しないせいだ、私が、彼のツボをことごとく突っついてしまうせいだ。
「政宗さま、私は、」
言葉を切る。政宗と視線が絡み合った。ええそうです、私は今からひどく無礼で、あなた様の記憶を醜く抉る言葉を吐き出すのです。
「私は、あなたの弟君が羨ましい。」
「知った口をようきくわ。」
政宗の眸に不機嫌さが広がる。これは、彼の右目に触れる以上に、彼の母の話に触れる以上に、彼の神経を刺激する話であった。政宗の弟は、政宗によって殺されている。何よりも肉親を思いやる政宗にとって、その経緯がなんであれ、弟殺しの事実は何も変わらない。そこに他人の同情の目があるかないか。人という生き物はそういった"温情"をひどく気にかけるものだが、政宗の場合、他人の目と呼ばれる温情は、右目と一緒に封印してしまったようであった。そのような同情では、欠片とて心の慰みにならぬことを政宗は知っているのだ。
幸村は小さく笑った。この笑みすら政宗の不興を買う仕種であることを幸村は重々承知していたが、どうしても止められなかった。あなたがあなたらしく振舞うように、私も、最後まで私らしくありたいではありませんか。政宗の鋭い片目が、じろりと幸村を見据えた。そうです、私はあなたとは、更に言うのならばあなたの弟君とは全くの赤の他人です。けれど、兄を持つという共通する境遇が、何故だか親しみを覚えるではありませんか。それは遠い地で同郷の者と出会う喜びにも勝りましょう。ええ、同郷の者とは同じ草木のにおいを共有しておりますが、その心までは分かり合えますまい。
「弟君は、」
「小次郎じゃ。わしはそう呼んでおった。」
そうですか、と幸村はもう一度言葉を紡ぎ直した。
「小次郎どのは、武家の次男として、とても素晴らしいお働きをされた。お役に立つことが出来た。私はそれが、ひどく羨ましい。私どもがお仕えするはお家ではありませぬ。自分の上に立つ、たった一人の兄にして主にお仕えするのです。それを、小次郎どのは分かっておられたのでしょう。だから、手向かい一つなさらなかったのではありませんか?」
政宗が、さもつまらなさそうに鼻を鳴らす。あなたには一生をかかっても理解できぬことです。幸村はひやりと笑いながら、さあもう一献、と徳利を差し出した。政宗は何かに突き動かされるようにそれを受けた。
「折角武田家より頂いた信繁という名を、私は汚しているように思うのです。私もあのお方のように、兄の為に命を捨てたかった。兄の礎になりたかった。このように自重もせず、自侭に振舞ってはおりますが、私は、兄上の為に、もののふとして散りたかった。」
「そう今も思うておるのならば、すぐにここから抜け出し、豆州どののところへ駆けい。」
「兄上にご迷惑がかかりますよ。」
そうして欲しかったのは、この男なのではあるまいか。今は亡き幼い弟と共に戦場を駆けてみたかったのではないのか。いいや、違う。長子という存在は、己の頭ではとんと予想がつかぬ考え方をしている。兄上もそうだった。きっとこの男は、兄を主と仰ぎ生きる幸せなど見ることすら出来ず、何故わしの為に生きる、何故わしの為に死ぬ、とそう恨み言を発するのではないだろうか。なればこそ、その弟が早くに死んでしまって、もしくは良かったのかもしれぬ。私だったら、そんなことを兄上の口から直接訊ねられた日には、切腹をして果ててしまうかもしれぬ。ひどい、ひどい言葉だ。どうして私の深い思いを理解してはくれませぬ、どうして私の深い情愛を理解してはくれませぬ、そう、嘆いてしまうだろう。ああだとしたら、私は一体、いつ兄上の為に死ねたのだろう。八幡原で散った信繁さまが、ひどくひどく、羨ましく感じられた。
「幸村、」
思考に没頭していた幸村を、政宗が強引に引き上げた。何でしょう、と幸村が訊ねる間もなかった。杯を持っている腕を引っ張られ、幸村の身体は大きく傾いた。「あっ、」と気の抜けた声を発したのは、まだ僅かに残っていた酒がこぼれてしまったから、だけではない。前のめりに倒れそうになったところを、政宗が難なく受け止め、そのまま接吻されたからでもあった。幸村の口はだらしなく開いていたが、政宗は下唇を甘噛みしただけで、すぐにその唇は離された。身体が離れていくその時、丁度政宗と幸村の視線が絡み合った。遅れて、噛まれた箇所が、じんと疼いた。赤く腫れているのではないか、と錯覚した程だ。政宗はしてやったり、と餓鬼大将のような笑みを浮かべ、とんと幸村の身体を押した。幸村は尻餅をついたが、その手にはやはり杯が握られたままだった。呆けたように政宗を見つめた幸村が、次の瞬間発した言葉が、
「酒が、」
であったことは、政宗の笑いを誘った。幸村と甘い空気になるには、政宗では少々、御巫山戯が過ぎるようである。
「気の多い男じゃ。」
政宗はからから笑いながら、何を呆けておる、その歳で初めてではあるまいに。とからかう口調であった。幸村は照れるというよりは、政宗に何をされたのか理解出来ぬようで、しきりに政宗の顔を見つめていた。色恋に関しては、どうも鈍い。
「先までは、宮本武蔵がどうのこうのと語っておったな。次は誰であったか、ああ小十郎か。ようやくわしへ意識が向いたかと思えば、通り越して小次郎じゃ。それもすぐに飽き、豆州どのへ。わしにもう一度気を向けさせようとしたにも関わらず、最後は、酒、じゃ。花より団子とは、大概にせよ。」
「、…政宗さま、」
幸村がようやく声を発した。その頼りげのない声に、政宗はああやめた、と心の中で肩を竦めた。幸村に己の言葉は通じないのだと、ようやく悟ったからだ。
「ああ酔うておる。戯れじゃ、そう驚かずともよいではないか。」
うそを、おっしゃる。幸村は、けれどその言葉を止めた。舐めるように呑んだ酒で酔える程、伊達政宗という男は簡単ではない、単純ではない。そして、酔いに勢いを任せる程、臆病ではない。
「驚かずにはおられませんでしたから。まさか、政宗さまから、あのような辱めを受けようとは。」
「辱めか、よう言うわ。」
「ええ、どうも、言葉を知らぬようで。」
あとは、ただ笑うだけだった。くすくすと笑っていれば、政宗の豪快な笑みがそれに重なる。私たちの間にしんみりとした湿っぽい空気は似合わぬのです、相応しくはないのです。私たちは、互いの生に不幸を見出し、それを嘲笑いながら、酒の肴にしているのです。それこそが、この空気を共有し合える唯一の幸福でしょう。あなたの不遜さを、私の無様さを、互いに愛でているだけなのです。
「政宗さま、」
「ああ何じゃ。」
幸村が政宗の耳に唇を寄せる。内緒話をするその子どもっぽい仕種が、妙に艶やかであった。
「 」
政宗は、よう言うわ、と笑う。ええええ、笑ってください、それを見抜いているあなた様ですから、どうぞご存分に、お笑いになってください、指を差して、愚かだと罵ってください。
「それはまことに、真事であろうかのぅ。」
「ふふ、さあ、どうでしょうね。」
幸村は思い出したように徳利を持ち上げ、ああもう残り少なくなってしまいましたね、と残念そうに唇を尖らせるのだった。
『愛するひとは貴方だけ。』
弟くんについては、山岡先生の話をベースにしました。「母は……斬れぬゆえ、こなたを斬るのだ。」は、やっぱり印象的。
別名『大河の信繁さまがカッコ良かったよ記念』です(…)
あ、豆州は幸村のお兄さんのことです。この呼び方好きなんで、つい。うちの伊達さんはお兄さんとも仲良し。
07/12/24
改訂:09/07/08