幸村と小助(それがこの主の、唯一 ひと らしい所なのです)
小助は幸村の隣りに腰掛けて、ちらりと様子を窺った。縁側に腰掛け、膝に置いた湯飲みを両手で包み込んで、じっと彼を見つめている。視線の先には宮本武蔵が、才蔵を相手に手合わせをしている。手練れ揃いの十勇士の身体能力を見慣れている小助の目にも、武蔵の剣の才能にはうなるものがあった。
「もう、ご友人は作らぬものだとばかり思っておりましたが、」
独り言に近かった。幸村はまばたきすら忘れているのでは?と思わせる熱心さで、武蔵を見つめている。こうなった時の主は、周りのことなど一切目に入らない。その集中力は小助には真似できぬ芸当ではあるものの、少々無用心過ぎるとも思っている。この主は、なまじ体術に秀でているばかりに、無防備をさらすこともしばしばだからだ。隙をさらしているせいで一時的には危機に陥るものの、そこから回避する術を十分に心得ている。押し倒されても、一発急所を殴りつけて投げ飛ばせば良い、と笑顔で語った主には、最早呆けるしかなかった。
小助はわざと声を発したが、幸村からの返答は期待していなかった。もしかしたら、小助が隣りに座ったことすら気付いていないかもしれないのだ。しかし、小助の予想に反して、幸村は小助に向き直り、
「あきれたか?」
と、笑顔で訊ねた。小助は咄嗟に目を見開いて驚いたものの、人をからかって楽しむ幸村の性格を知っている。さらりと流して、己の動揺をなかったことにした。
「いえ、小助はうれしゅうございます。もう人と関わることに嫌気が差しているものだと思っておりましたから。ただ、」
ちらり、と小助は幸村の表情を覘いた。彼は笑顔を小助に向けるばかりで、その真意を探らせようとはしなかった。武蔵のことに関しては、小助にさえ幸村の心は分からなかった。彼以外のことであれば、当人のことのように彼の思考を感じることはできるのだけれど。彼の今までの生に、武蔵のような人間がいなかったからだろうか。
「大坂へは、連れて行かぬ方がよろしいかと思います」
本来ならば、小助が口出しすることではない。また、小助が言うまでもなく、幸村も重々承知していることだ。幸村は、小助の出しゃばりとも言える行為にも、やはり笑みを湛えたまま表情を崩すことはなかった。
「決めるのは武蔵だ。私ではない」
「それでも、幸村様でしたら、彼を思いとどまらせることが出来るでしょう」
「出来ぬよ」
「出来ます」
じっと、幸村を見つめる。小助たち十勇士は、どうも幸村の能力を過信し過ぎている傾向があった。幸村はそれに苦笑して、ちょんと小助の眉間をつついた。ここ、皺が寄っているぞ、と指摘すれば、気付いていなかったらしい小助がそこに手をやった。
「出来ぬよ、小助。武蔵はわたしの思い通りにできる男ではない」
幸村はそして、悲しげに微笑んだ。見ている方が苦しくなる、ここ数年で身に着けたその笑みだけは、小助も真似ることができない。小助は、幸村以上に、彼の死をおそれている。いずれ訪れる大坂方と徳川方の戦で、彼と死に別れることを、小助はおそれているのだ。だが正確に言うのであれば、小助は幸村の大切な"もの"が、またしても失われることを過剰におそれているに過ぎない。小助にとって宮本武蔵という存在は、幸村越しにしか視ることができないからだ。
わずかに流れた沈黙は、幸村の笑い声で破られた。くすくすと笑う主の声は、小助の心を穏やかにすることもあれば、余計に不安を煽ることもある。幸村という存在が心ノ臓に悪いと痛感するのは、まさにそういう時だ。幸村は、やはりにこにことした、春の陽気を思わせる笑みのまま、お前は心配性だなぁ、と呟いた。ただただ、あなたが大切なのです。そうこぼせば、知っている、堪忍せよ、と言うに決まっているから、小助は彼の呟きに応えることができない。
「心配せずとも大丈夫だ。絶対に武蔵は、わたしより先には死なぬ。絶対、絶対にだ」
だから、そうこわい顔をするものではないよ、と言い残して腰を上げた幸村を、小助はただ見送ることしかできないのだった。
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うっかり暗くなりました。