武蔵と幸村(男は皆、臆病な生き物です)
鍛錬の最中であった。後ろに飛び退こうとした武蔵が、足を取られて背中から地面へ倒れ込む。彼に追い討ちをかけるつもりで、刃のついていない槍を突き出していた幸村も、咄嗟に手を差し伸べようとしたが間に合わず、つられるようにして膝をついた。勢いのついていた槍は、身体の支えに地面に突き立てられている。丁度、幸村を見上げる武蔵の顔の真横の位置にあたる。幸村は彼を傷付けぬようにと、ようやく身体をそらして槍の軌道を避けたものの、身体は武蔵の上に乗り上げてしまった。まるで武蔵を押し倒したような体勢だ。
しばし、沈黙が流れた。武蔵が大きな黒い眼でじっと幸村を見上げるように、一点の曇りもない黒黒とした幸村の眼も、無感情に武蔵を見下ろしている。互い、微動だにしない。ただただ、静かに、互いの眼を覗き込んでいる、見つめている。相手の瞳に己の眼を映して、そこをじっと眺めている。
「ゆきむら、」
と、武蔵が丁寧に幸村の名を呼んだ。快活な武蔵のいつもの声とは思えない、透明な音だった。穏やかに幸村の中に染み渡り、溶けていった。
幸村もまた、彼の名を呼んだ。同じような慈しみや想いを込めたつもりだったが、風に溶けた音は、舌足らずなそれにしか聞こえなかった。幸村は僅かに表情を歪めて、無理矢理に笑みを作った。
「憎んでくれてもいい、疎んでくれてもいい、ひどいやつだ、最低だと罵ってくれてもいい」
そう、幸村は哀しげに言う。武蔵は幸村が浮かべる表情一つ一つを好きだと言って抱きしめてやりたいのに、彼のこの表情だけは好きだと言って受け容れてやることができない。彼は、たった一人の世界で、思考の海で溺れている。けれども、溺れていることに気付いてもいなければ、助けを求めてもいない。こうだと決め付けた世界の中で、必死にもがいている。いや、もがいている振りをしている。結局、わたしがどうもがいたところで何も変わらないのだ。そう諦めて笑って、悲しむことを人に押し付けている。だから武蔵は、彼のこの笑みを見るたびに、無性にこころが哀しくなるのだ。
「お前の人生を邪魔するつもりはない。わたしがどう望もうと、お前はお前の道を行くだろう。けれども、いや、だからこそ、いつかわたしがお前の道に立ちはだかったとしても、」
ゆきむら、と名を呼んでみた。けれども、彼の眼はもう武蔵を見てはいなかった。武蔵越しに、様々なものを見つめている。近くに居すぎて、輪郭が分からなくなってしまっているようだった。武蔵は、ふと、今彼の頬に触れたら彼はどういう反応をするだろうか、と考えた。頬を辿って、まぶたをなぞり、彼の額を守っているはちまきを剥ぎ取って、そこをゆるゆると撫でてやったら、
「ただ、わたしという男を、嫌ってはくれるな」
武蔵は咄嗟に幸村の首の後ろに手を回して、ぐいと身体を引き寄せた。突然のことに幸村は体勢を崩して、支えていた槍を手放して武蔵の身体の上に体重を放り出した。胸の辺りに思い切り幸村の重みがかかったが、武蔵は小さく呻いただけで幸村の身体をぎゅうと抱きしめたまま、手放さなかった。
「そういう淋しいこと言うなよ。俺は、お前のこと好きだからよぅ」
俺ばっかり、がっついてるみたいじゃねぇ?
言いながら、武蔵は笑った。高望みしない彼に、自分と同等のものを求める己の傲慢さが、むしろ滑稽だった。
「そんなに、たくさんはいらないのだ。ただただ、嫌ってくれるなと、」
「だーかーらー、俺はお前のことが好きなだけなんだって」
ようやく己の身体の落ち着き場所に違和感を覚えたらしい。幸村がもぞもぞと居心地悪そうにもがいたが、それでもなお、武蔵の両の手はがっちりと彼の頭を抱え込んだままだった。もっともっと、己のことを知ってほしいと武蔵は思う。心ノ臓の音が相手に届けば、己の想いの丈も通じるだろうか。
「 むさ し 」
と、幸村の声が聞こえたが、彼が何を訴えようとしているのかは分からなかった。
***
らぶらぶです。でもこれ、コンビだって言い切りますよ。
スクロールで、途中ねじ込めなかった武蔵と小助の話。短いよ。
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「幸村様は、臆病な男なのです」
二人の視線の先には、望月六郎と談笑している幸村の姿があった。あたたかくて優しくて、けれどほんの少しだけ切なげに微笑む小助に、まるで彼に恋をしているようだ、と武蔵らしくないことを思った。こんなにも深く深く幸村を好いている彼の瞳は、いつだって澄んでいた。武蔵は静かに黙して、彼の言葉の続きを待った。
「世の人々どころか、あの石田三成様や直江兼続様に過分な評価を頂戴しましたが、あなたに嫌われることに怯えている、そんな、ただの男なのです」