彼らにとっての幸運は、同じように相手に惚れて、同じように恋をしていることだろう。同じよう、とは、両想いである、ということではない。人に惚れる恋をするという感情は、人それぞれである。誠心誠意相手に尽くしたがる者がいれば、片時も離れず側に居たいとする者もいる。そういう恋愛に対する構えが、彼らはまったく同じであった。彼らにとっての幸運は、まさにそこに尽きるだろう。
 清正にとって、立場だとか地位だとか、そういった外堀を取っ払った、ただの加藤清正になった時ですら、彼の一番は幸村ではない。幸村もまた、そうではなかった。相手を愛しい恋しい好きだ惚れたと言いながら、けれども彼らの最優先は相手ではもちろんなかったし、最愛と言うべきものは相手に出会う前に既に手に入れていた。清正の心は豊臣のものであるし、幸村の心は真田幸村というもののふのものであるからだ。

 彼らにとっての幸運は、恋をした相手を正しく選び取ることが出来たことではないだろうか。豊臣の為に全てを捧げる清正に、もののふの魂を信念を真っ当する為だけに生を受けたのだと妄執する幸村に、彼らはそれぞれ恋をした。

 恋は一人でするものだと、幸村は言う。それはそうだ当然だと、清正も首肯した。彼らは、そういった意味では我儘で横暴であった。己が相手の色に染まることはなかったし、それを良しとしなかった。彼には彼の、自分には自分の進むべき道があり、それはいつか違えることを、彼らは自然と悟っていた。悟っていた、というよりも、無意識に知っていたというべきが正しいだろうか。

 相手の生を邪魔するつもりはない。同じ道を歩みたいと切望することもなかった。彼らは、己の道に相対する覚悟を評価こそすれ、相手の歩む道の険しさには無関心であったからだ。お前はお前の道を、わたしはわたしの道を。彼らは脇目も振らずに邁進している。時には人の命すら犠牲にして、それが己の義務である責務である生きる理由であると、他を威圧し踏み潰し蹂躙しながら、愚直なまでに真っ直ぐに突き進むのみだ。他のものには眼もくれず、一心に一つのものを遂行しようとする、若葉のように青々とした澄み渡った透明な眼が好きだ。しゃんと伸びた背筋が、迷いのない素振りが、たまらなく好きなのだ。








彼らにとっての幸運は、

清幸の一つの結論。

10/01/10