左近に頼まれ、三成の部屋へと書簡を届けた帰り道だった。既に辺りは夕闇がじわじわと広がりつつあり、暗がりの中にまだぼんやりとした夕日の色が漂っていた。幸村はふと立ち止まり、庭をひっそりと眺める。灯りのない庭先では、庭の隅々までを見渡すことが困難だ。また、幸村は人より夜目が利かないようで、自然の光源だけでは夜は少々不便を感じることもあった。ひっそりとため息をついて、再び歩き出した幸村は、けれどもすぐに足を止めた。夜目は利かなくとも、気配には敏感だ。曲がり角からやってくる人物に気付き、幸村は笑みを作った。
「清正どの、」
と、角を曲がって直後に声をかけられて、清正は少々驚いたようだった。きょろきょろと辺りを見回したが、すぐに幸村を見つけて、ああ、と片手を上げた。
「お仕事ですか?」
「いや、今日はもう終わりだ。お前は?」
「わたしも、今日はこのまま屋敷に帰ろうかと」
そうか、と短く清正が相槌を打ったきり、会話が途切れた。何とはなしに、二人して闇と夕焼けの色が溶け合っている庭先へと視線を向けた。手入れされた庭は侘び寂びに則ったもので、花ばかりでなく草木が絶妙な間隔で並べられている。
「もう秋だな」
「そうですね」
「薄が揺れている」
「え、どこですか?」
清正がスッと腕を持ち上げて庭の隅を指差すが、幸村がどんなに眼を凝らしても見ることはできなかった。もう庭の四隅は闇の領域で、幸村の眼では暗がりにしか映らない。それでも清正の指先を、身を乗り出さんばかりに食い入って見つめている。僅かに笑みを滲ませた声で、落ちるぞ、と傾いている幸村の体勢を指摘して、彼の腕を掴んだ。清正の視線の先では、柔らかな風に吹かれて薄がゆらゆらと揺られている。また明日、見ればいいだろう、と幸村の腕を少しだけ強く引けば、一瞬悔しげに返答を遅らせたものの、ええ、と素直な返事が返ってきた。幸村は、何かに導かれるように振り返り、そのままの体勢で清正を見上げた。近い。清正も幸村の視線に気付いた。目が合う。庭に広がる闇とは比べものにならない、深い深い瞳を互い射抜いていたが、次の瞬間には幸村が瞼を閉ざしていた。同時に、清正も強い力で幸村を抱き寄せる。幸村は既に身体の力を抜いていて、いとも容易く清正の胸の中に飛び込んできた。そっと幸村の頬に手を添え親指のはらで彼の唇をなぞる。幸村の身体が小さく震えて、けれどもそれを誤魔化そうと強がって、目を閉じた状態のせいで手探りだったが、縋るまいと清正の肩に手を乗せた。少し乾いた柔らかい幸村の唇の感触を指先で楽しんでいた清正だったが、腰を落としている幸村に合わせて屈み込み、ゆっくりとその唇に己のそれを重ねた。
二人に言葉は必要なかった。そもそも、相手は本当に自分を好いているのだろうか、などという疑いを持ったこともなければしたこともない。乱世を生き抜いた彼らにとって、嘘は方便であったし、偽る術を否応なしに身につけていた。虚偽に鈍くもなければ疎くもなく、上手い具合に共生し合っている二人とも言えるだろう。だが二人共、相手が自分に向けて嘘偽りを使うとは、微塵も疑っていなかった。嫌いになったなら、好きではなくなったなら、相手は全力で拒絶するだろうし抵抗するだろうし、そういうことが臆面もなくやってのけられる男であることを重々に承知しているからだ。嘘はつかないのではなく、使う必要がない。二人は、そういう意味では真っ直ぐに、己の感情のままに相手にぶつかっていると言えるだろう。
「幸村、」
と、唇を離しただけの至極近い距離で清正が名を呼ぶ。相手の呼吸も脈も、触れた箇所から伝わるような錯覚は、彼らの心を僅かに満足させた。
名を呼ばれても、幸村は既に心得ていたようで、近過ぎてぼやけてしまっているだろう視界の中、幸村はにこりと微笑んだ。
「では今宵、」
言葉尻を捕まえるように幸村の吐息を奪った清正だったが、段々と近付く足音に気付いて、ぱっと手を放した。そのまま、何事もなかったかのように歩き出す。幸村もまた、解放されたと同時に背を向けていて、曲がり角の人物へと向き直った。現れたのは、これから三成と一揆鎮圧の詳細を詰めるのだと意気込む兼続だった。彼はすぐに幸村に気付いて、笑顔と共に挨拶をした。
「幸村、その口はどうしたのだ?」
「あ、やっぱり腫れてますか?」
「少し、な。お前は槍に夢中になると、唇を噛み締める癖があったからなぁ」
「気をつけるようにします」
その後、兼続とは二言三言言葉を交わして、その場を離れた。実は虎との離れ際、まるで獣がじゃれて甘噛みをするように、下唇に軽く歯を立てられていたのだ。その刹那に流れた鋭い痛みを労わって、幸村は清正の手付きを真似て、親指のはらで乱暴に唇をさするのだった。
本音しか知らない
兼続はおまけ
10/01/10