最後の兵が帰還するまで、左近は生きた心地がしなかった。もう辺りは暗くなり始めている。陽が落ちると共にやってきた寒気が、左近の体温を奪う。下手な戦をしたものだ。この失敗を笑えるようになる日など、きっとやってこないだろう。それほどまでに、ひどい失敗を仕出かした、下手を打った。信玄は隣りで左近の焦燥している様を見て見ぬ振りで佇んでいる。信玄にはこういうところがあって、左近を責めることもしなければ、慰めることもしなかった。ただじっと、左近の反省している様を素知らぬ顔で見守っている。
真田隊帰還!の報から少し遅れて、しんがりを務めた幸村が戦の汚れもそのままに二人の前に現れた。まだ戦の緊張感は継続している。幸村は信玄に深く一礼をして主従の礼をとり、左近に向き直った。
「真田隊、ただいま戻りました。敵の追撃はありません。辛勝ではありますが、お味方ご勝利、祝着至極に存じます」
「めでたい、だと?負け戦と紙一重のこの戦が?お前だって、しんがりなんて貧乏くじ引かされて、」
「生きております。それだけで喜ぶべきかと」
幸村は言いながら微かに笑って誤魔化そうとしていたが、左近は知っているのだ。負け戦になろうかという瀬戸際、撤退の合図と共に幸村の隊にしんがりの役目を与えたあの瞬間、幸村の顔に歓喜が浮かんだことを。あれは薄暗い悦びだった、と左近は思う。博打のように死地に臨む戦馬鹿がいるが、幸村は違う。生きているのか死んでいるのか、その境界すら曖昧なあの空気が幸村は好きなのだ。あの中で死にたい生きたい、生きて死んで、あの中で一生を終えたい。幸村はそういった危険嗜好があった。だからこそ、左近は彼にしんがりの役を与えたくはなかったのだ。けれども同時に、幸村の隊にはたくさんの期待をかけたことも間違いではない。しんがりだろうと何だろうと、無謀な突撃を繰り出すだろう幸村に、負け戦の空気を引っ繰り返してほしかったのだ。案の定幸村は、追いすがる敵の隊を次々に食い破り、見事に勝ちを拾った。戦は他の隊との連携が物を言うはずなのだが、幸村の隊自体はそもそも攻撃力が高く、同数の兵力ならば負けることはない。兵一人一人の練度が全く違うのだ。末端の兵までが、幸村の手足となって動く。だが、これは同時に幸村の命を危険にさらすことになる。幸村の危険嗜好を、左近自身援助したことになるのだ。左近は、幸村の色を知っていながらそれを防げなかった自分自身の不甲斐なさが悔しくてたまらない。幸村にうまいこと利用されたような気になってしまう。あれは、そういう下世話な根回しが出来ないと知っていながら!
「どうして、あそこで突撃した。退くべきだったろう、結果がたまたまよかっただけだ。無謀すぎる。お前は、いつだって、…死にたいのか!」
「まさか。…ただ、生だの死だの、戦場では不要なものと思っておりますれば」
「幸村っ!!」
つい声を荒げた左近に、信玄の待ったが入る。信玄のどしりとした深い声が、左近を、次いで幸村の名を呼んだ。
「左近、熱くなっちゃあ駄目だよ。この話はまた後にしないかね?幸村も、あんまり左近をいじめんでやってくれ。とりあえず、おことは傷の手当をしてきたらどうかね?」
幸村は二人の顔色を交互に窺ったものの、主の言を取ったようで、では失礼します、と来た時と同じように深く頭を下げた。左近が納得のいかない顔でその姿を見つめている。具足の音を響かせながら幸村が去ったのを認めた信玄はゆっくりと口を開いた。
「左近、軍師たるもの、常に冷静に、じゃろう?」
「幸村が人の安静を掻き乱すんですよ」
「そういう男じゃて、可愛らしいことじゃよ」
「あれを可愛いと言えるのは信玄公ぐらいですよ」
そうかのぅ、と信玄は高らかに笑ったが、その眼の奥は左近の焦燥を確実に射抜いていた。
左近が若い!というか、青い。お館様のこと書くのがやっぱり悲しい。
10/02/14