「幸村、」
 と、声をかけようとすると、幸村は決まって三成が声を発するより先に振り返って、僅かに頭を傾けて微笑する。気配に敏いのだろう。背後に誰かが立つのが苦手なのかもしれない。決して武芸に造詣が深いわけではない三成だが、彼の立ち居振る舞いに隙がないことぐらいは分かる。とにかく、死角がない。けれどもぴりぴりとした緊張感を纏っているというわけではない。幸村はいつだって自然体だが、あまりに自然界に密接過ぎて、ひとのにおいのするものに敏感なのかもしれない。深い森のその奥にひっそりと湧く泉のような、静謐と儚さを幸村は持っている。淡い。ひとの気配に敏いくせに、彼自身の気配は希薄だ。他人と場を共有すること自体が苦手な三成だが、幸村にはそういう不快感はわいて来ない。彼の気配は薄くて、部屋の空気にいつの間にやら溶け込んでしまっているからだ。目を上げて幸村がその場に存在していることに初めて気付くこともある。物静か、と言って片付けてしまうには、幸村の存在はあまりに儚かった。

「三成どのの心ノ臓の音は、ちょうちょの羽音に似ています」

 幸村は、時々、舌足らずな言葉遣いをする。周りは大人だらけで、大事に育てられたのだろう。幼い語彙をそのまま覚えてしまったようだった。
「お前は、人の心ノ臓の音も蝶の羽音も聞こえるのか?」
「いいえ、どちらも聞こえませんよ。ただ、何となくそう思っただけです」
 不愉快な思いをさせてしまいましたか?と幸村が少しだけ声の調子を落として、三成の顔を覗き込む。たとえどんな暴言だったとしても、彼自身が三成を評したその言葉を怒鳴りつけることなど出来るわけもないのだ。幸村のずるいところだと三成は思う。先程からやかましい心音に三成は胸を押さえつけると、猛烈に幸村の名を呼んでやりたくて、声に出してやりたくて、勢いよく息を吸い込んだ。しかし幸村はその一瞬の間に、三成より先に、
「あっ」
 と、声をあげて、三成の横を通り抜けて行った。残された衝動が、三成の身体の中を暴れ回っている。三成の目が幸村の動きを追う。幸村は足が汚れるのも気にせず庭先に飛び降りて、庭の隅にしゃがみ込んだ。三成は縁側から幸村の様子を覗き込む。彼の手の中には、季節外れのモンシロチョウが力なく横たわっていた。











10/02/15