稲姫はただ嘆いた。それ以外に己の身は何も出来ぬのだと思い知ったからだ。彼の命が助かるよう父に嘆願した。父もまた、稲の心中を察して強く頷いた。二人の胸中は同じだろう。彼の命は助かる。ああ、ああ、それなのに。稲は伸ばしたくせに何も掴めなかった腕で、己の身体を抱き締める。
(生きて、生きて幸村、)
稲が彼の目指す生の道に嘆くことしか出来ぬように、彼は稲の想いに返す言葉を知らない。
(お生きなさい、幸村)
そう彼に囁いたとて、はい義姉上、わたしは往きます、としか、彼は答えられぬのだ。彼はその道を往くことばかりに熱心で、それゆえに彼は幸福だった。そこには怒りも悲しみも、理不尽だと嘆き喚く一切が存在しない。彼の無情に対して、この世の全ては須らく無力だった。
10/02/14