このところ、秀吉の体調は思わしくはない。錯乱して意味を成さぬ言葉を叫んだり暴れたり、そうかと思えば、寝床から起き上がれぬ程消耗している日もあった。幸村は小姓仲間の一人に仕事を代わってくれるよう頼まれて、それを快諾した。気狂い染みた行動が目立つようになって、敬遠されるようになってしまった秀吉の世話だった。
 幸村が秀吉の部屋へと顔を出せば、今日は調子が良いのか、寝床から起き上がって窓枠にもたれかかって外を眺めていた。秀吉様、と幸村が控えめに声をかければ、おぅ今日は幸村が来たか!近ぅ寄れ、早う早う!と人懐っこい笑みで手招きをした。幸村はまるで子どものように無邪気な秀吉の様子に笑みを浮かべて、手に持っていた着替えをその場に置いて秀吉の隣りに並んだ。二人きりの時はいつもこうだ。秀吉は我が子のように幸村を愛でている。才能のある若者を特に好んだ秀吉は、幸村の真っ直ぐな背筋と迷いない目をとても愛していた。
「幸村はええのぅ」
 病人にしては薄着な秀吉の肩に羽織を被せながら、幸村が視線で秀吉の真意を問う。おみゃあさんは、ほんに余計なことは喋らんなぁ、と背伸びをしながら幸村の髪をくしゃりと一撫でする。
「その目が、ええのぅ。迷いない澄んだ目じゃ。ほんに綺麗じゃ」
「猪武者なだけですよ。秀吉様だって、いつまで経ってもきらきらとした童のような目をしてらっしゃいます」
 それは天下人を表現するに相応しくはなかったが、不思議と不快にはならなかった。幸村の邪気のない、若竹のような瑞々しい感性が、秀吉には羨ましくもあり微笑ましくもあった。もう、とっくの昔になくしてしまったものだ。
「儂はもう駄目じゃ。濁っておるわ。儂はのぅ、いささか欲張り過ぎたようでの、ほれ、大事なもんが増えすぎてもうた。大事なもんが多いとのぅ、保身に入る、言葉がよどむ。背筋を曲げて辺りを見回して、大事なもんを盗られんよう、用心深くなってしまう」
 ほれ、こうしてこの背は曲がってしもうたんじゃ、と秀吉は背をさすった。その笑みがいかにも寂しげで、幸村は彼の言葉を止めることができなかった。
「長生きがしたかったわけやない。ただ、あとすこぅし、長生きがしたい。そういう欲も出てくるわ。老人の強欲ほど、醜いもんもないわなぁ」
 秀吉はそこで咳き込んだ。気丈に振舞っているものの、やはり病魔が身体を蝕んでいるのだ。幸村は彼の身体を支えながら、早く横に、と手を取って促したものの、秀吉は首を振った。もうちょっとええやろ?と弱々しい言葉とは裏腹に、強く手を握り返されてしまって、幸村は強引になることができなかった。
「ねねが好きじゃ。お拾いも茶々も、もちろん、三成も清正も正則もおみゃあさんも大好きじゃて。この家も好きじゃ。昔はよかったのぅ、何に対しても我武者羅じゃった。ねねの茶漬けは特に格別でのぅ、ねねが居れば儂はどんな戦場に立ってもこわくはなかったのぅ」
 幸村はただ無言で秀吉の言葉を聞いている。その様子に、うんうんと秀吉は頷いている。自分の言葉を真摯に受け止める幸村が愛おしいのだ。
「今思えば、守りたかっただけじゃ。じゃが、増えすぎてしもうたわ。短い儂の命では、もう守りきれん。儂はそれが悔しい。のぅ幸村、だからこそ、おみゃあさんが羨ましいんよ。おみゃあさんのような男に、儂は豊臣を託すべきじゃった。これは負け惜しみかのぅ。身軽なおみゃあさんに、色んなもんを背負わすべきじゃったと、儂はつくづく思い知ったわ」
「…わたしなんぞに託さずとも、秀吉様には自慢の息子がおりましょうに」
 秀吉は笑った。寂しげな笑みだった。
「三成はのぅ、不器用で潔癖に過ぎるわ。儂の下に居るうちは、それでもええ。じゃが、それももう終わりよ。あれは己の理想の高さにいずれ気付き、絶望するじゃろうて。儂はそれが悲しい。清正は、卑屈に過ぎるわ。儂が信長様の世を乗っ取ったように、あやつもそうすればええんじゃ。あやつは自分を拾われた犬だと言う。儂も同じようなもんじゃ、分からんでもない。じゃが、それは理由にはならん。外側にこだわっておっては、失ってから気付くこともあろうて。気付いた時には遅かろうにのぅ、悲しいのぅ、悲しいのぅ、幸村。そう思わぬか?幸村や」











もっと短くしたかったんだけど、いっぱい書きたいこと詰め込んだら長くなった!!

10/02/01