静かな空間に、時折、碁盤をたたく音だけが響く。ぱちぱちと定期的に弾かれる音は、一つの足音に手を止めた。
「左近どの」
と、障子の向こうから声をかけられる。陽の光を浴びて、障子にはその声の人物の影がくっきりと浮かび上がっていた。まだ若い弾力のある声だが、戦場での名乗りの猛々しさは鳴りを潜めている。決して大きな声ではなかったが、瑞々しい透明感は心地良かった。青いなぁ、と左近は思う。常に背筋を伸ばして、何事にも真っ正直に立ち向かうその姿勢の良さは若さゆえだろうか。その愚直さが眩しい。少年と青年の間をふらふらしているような男だと思う。いつまで経っても淀むことなく、時に目をそらしたくなるほど澄んでいるその眼こそ、左近が青いなぁと思う原因ではないだろうか。彼は脇目を振ることすら知らないのだ。
「入っていいぞ。暇を持て余してたところだ」
はい、では、と手本のように折り目正しく障子を開いた幸村は、中の光景に驚いたのか、障子に手を置いたままだ。中で誰かと碁を打っていたことは分かっていたのだが、その相手がまさか、自分の主だとは思ってもいなかったようだ。幸村は一瞬動きを止めたが、さっと腰を引いてその場に平伏した。
「お館様がおいででしたか。これはご無礼をいたしました」
「いいんじゃよ。儂らは暇を持て余した同士じゃ」
「というか、信玄公の暇潰しに俺が付き合ってるんじゃなかったですかね?」
慣れた二人のやり取りに、幸村が笑みをこぼす。信玄は、幸村もこっちにおいで、と手招きをしたが、いえ所用がありまして、と言葉を濁した。いかにも申し訳なさそうに寂しげな顔をするものだから、信玄は残念だのぅ、と言う以外は発言を控えた。
「それで、俺に何の用だ?」
「山本どのが呼んでみえました。何でも次の戦の布陣を相談したいとかで」
「分かった、これを片付けたら顔を出すと伝えてくれないか」
これ、とまだ勝負がついていない碁盤を指さす。無礼な奴じゃのぅ、と信玄が思わず口を開いたが、その声に咎めの調子は含まれていない。幸村もその辺りのことは心得ていて、では、そうお伝えしておきます、と腰を上げた。他の用事が立て込んでいるのか、最初から長居する気はなかったようだ。それでは失礼します、と頭を垂れ、次は幸村の手習いを見てください、と信玄の機嫌取りを無意識に呟いた幸村は、来た時と同様に丁寧な動作で障子を閉めた。彼のゆったりとした足音が遠ざかって、左近はようやく碁盤に視線を戻す。
「あの幸村が、儂じゃあなく、左近を呼びに来るとはのぅ」
ぱちり、と一手。僅かに表情を顰めて、左近も碁石を掴む。
「やきもちですか?心配せずとも、あの御仁は信玄公以外見えていないでしょうに」
言葉尻に、ぱちりと音が響く。その手を見越していたのか、今度の返しは早かった。
「わかってはいるがのぅ。だからこそ心配なんじゃよ。ま、若いもんには分からん悩みかのぅ」
いよいよ左近の分が悪くなってきた。手加減されていたのか、段々と追い詰められていく。左近の長考が続いている。
「まぁ、確かに、あれは青くっていけませんがね」
「ああいう男じゃて、可愛いじゃろう?」
「幸村を可愛いなんて言える猛者は、後にも先にも信玄公だけですよ」
確かに、若さだけではない才覚を持っている幸村は、すぐに何でも吸収してしまう。教えれば教えるほどに成長する幸村は、確かにとても良い素材ではあるものの、その卒のなさが左近にはどうも可愛くない。もっと出来の悪いろくでなしの方が、教え甲斐もあるというものではないだろうか。
「その割に、幸村を何かと構いたがっておるがのぅ」
「信玄公の勘違いですよ、やめてください、男相手にそういう趣味はありませんよ」
暗に信玄の男色好きを揶揄ったつもりだったが、信玄は笑うだけだった。訊かずとも、信玄と幸村がそういう関係ではないことが分かる程度には武田に馴染んでいるつもりだ。
「あれは左近には荷が重かろう。儂にとっては、おこともまだまだ青いもんじゃよ」
この歳で青い、と言われれば、流石にむっとくるものがあった左近は、思わず強がりを呟いた。いつも会話の主導権は握られっぱなしだ。
「信玄公が亡くなった後は、俺が面倒見てやってもいいんですよ?」
左近としては、冗談のつもりだった。きっと彼は、信玄公が亡くなれば、追い腹を斬るだろう。それほどまでに懐いていたし、敬愛していた。信玄と幸村の絆を近くで見知っている左近には、彼の生涯の主は信玄公以外に考えられない。
信玄が一瞬、手を止める。仮面で覆われた顔は、目だけが異様に鋭かった。甲斐の虎の名は伊達ではない。その眼光で左近を射抜き、けれどもすぐに碁盤に視線を落として、最後の一手を打った。
「左近のくせに、生意気じゃのぅ」
最後の台詞が言わせたくて。3の左近は青い、というか、甘っちょろい。幸村は手ごわい。
10/03/07