「武田の坊主がいるな」
 氏康の言葉に、甲斐姫は彼の視線の先をのぞき込んだ。忍城の天守閣からは、遠くで蠢く豊臣の軍勢の旗印がぼんやりと窺うことができた。白・青・黄、様々な色の中、ぽつんと浮かび上がる赤は鮮やかで人目を引く。あれが、と甲斐姫は思って身を乗り出したが、落ちるぞ、と氏康に首根っこをつかまれて渋々天守の手すりから身を離した。
「お前はどこまで目がいいんだ。風魔の調べに決まってんだろうが」
 ほれ、と紙切れを放られて、え?え?とうろたえながら、宙をゆらゆら舞う紙切れに必死になって手を伸ばす。何とか地につく前に受け止めた甲斐姫は、その中身に眉を寄せた。
「いやな縁だな。あの坊主とはもう、戦うこともねぇと思ってたんだがな」
「幸村様が相手でも、あたし負けませんから!」
「阿呆が、そういうことを言ってんじゃねぇ。抑止力もなくなっちまったからな、無茶な戦を仕掛けてくるだろうよ」
 何度も戦場でまみえた間柄だ。味方であったり、敵方であったり、戦国乱世そのものの混沌とした関係だったと氏康自身思う。あの男には勿体ない逸材だと、氏康はその男に直々に告げたことがあった。今でも、そうだと思う。あの男は、あまりに自侭に過ぎた、放任に過ぎた。ひとの魂をそのままの形で愛し、輝きを失われぬように外側から大きく包み込んでいた。決して、それが悪いことだとは思わない。戦国乱世であろうとなかろうと、一人一人の存在を愛したのは氏康も同じだ。だが、真田幸村に限って言うのであれば、下手を踏んだ、と言うほかあるまい。何故連れて行ってやらなかった、とは言うまい。それは生者の驕りであり死者の特権だ。だからこそ、何故あの男の魂を取り込んでやらかなったのだと、氏康は思うのだ。己の理で支配してやればよかったのだ。強引にねじ伏せて、それが例えあの男の魂をゆがめることになったとしても、あの眼だけは誰にも汚せないだろうに。そういう意志の強さだけは、幸村という男にはあった。あとは、足りないものばかりだと氏康は思う。だがそれは幸村の責というよりも、彼の主が与える当然のものであったはずだ。そうやって氏康は甲斐姫に接してきたし、そういう誇りが氏康にはあった。氏康は真田幸村の槍を好いてはいても、生も死も厭わない炎のような攻めを繰り出すあの戦振りが嫌いだったからだ。
「あの阿呆が、てめぇの始末を怠りやがって」
 不機嫌そうに吐き捨て立ち上がった氏康に、
「お館様、どこ行くんですか?」
 と、甲斐姫が訊ねたものの、胸糞わりぃ、と呟いただけで返答はなかった。かといって息子たちの会議に加わる気はないようで、部屋の奥に消えて行ったのだった。











10/02/14