勝ちをおさめた戦後の宴は、派手で騒々しくて乱痴気騒ぎのお祭り騒ぎと相場が決まっている。特に今回の戦は、すわ負け戦、それも命すら助からぬと思われた絶望的な戦になるはずだった。それがどうだ、稀代の名軍師が知恵をしぼり、一騎当千の無双たちがこれでもかと腕をふるい、最後に時の運まで味方して、見事に勝ちを制した。無礼講も良いところ、酒を浴びる程飲んだせいか、彼らに酌をして回ったとしても、それが本当に酒なのかただの水なのか、彼らは判断できないだろう。戦場では苛烈に北条・徳川を破った無双たちも、今ではただの飲んだくれのへべれけだ。慶次は目の前に広がる惨状をさも楽しげに眺めていたが、ふとその輪を囲うべき人物が足りないことに気が付いた。まったく、いつの間にいなくなったのか。酔っ払いならいざ知らず、飲み干すそばから酒精の方から立ち去ってしまう慶次にすら、その気配は覚れなかった。酔っ払いたちの馬鹿騒ぎを眺めているのもまた楽しいが、ふと脳裏を過ぎるものがあって、慶次はその場をそっと後にした。慶次のような巨漢がいなくなっても、やはり酔っ払いの集団である、誰も気付きはしなかった。
慶次の目当ての人物はすぐに見つかった。先程の部屋と厠とを結ぶ廊下にぽつんと佇んで、じっと月を睨みつけていた。おぼろ月夜だった。それでも、灯りが少ない廊下を煌々と照らしている。幸村の表情は見えずとも、彼のぴんと伸びた背筋をしっかりと映し出していた。
「ああいう席は嫌いかい?」
慶次が唐突に話しかけても、幸村は驚いた素振り一つ見せず、ゆっくりと振り返った。逆光だ、表情が読めない。ただ彼の透明な眼が自分を見据えていることだけは感じ取っていた。彼の視線は、真っ直ぐすぎて眩しい。孫市などは、別段、後ろめたいことがあるわけでもないくせに、彼に見つめられるとさっと視線を外してしまう。あれは女子どもには格別に甘くて、だからこそ、幸村のような童の眼を思わせる表裏ない黒色がおそろしいのだろう。おそろしいとは言うが、特に怖がっているのではなく、居心地が悪いのだ。あれは自分をごろつきの仲間だと思っている節があるから余計だろう。反面慶次は、彼のような童の眼を向けられると、じっと見つめ返してしまう。眼をそらしたら負けなのだ。これはそういう遊びなのだと慶次は思っているが、さて幸村はどうなのだろうか。
「嫌いでは、ありません。ただ、置いてけぼりにされる気がして、どうしても酒がすすまぬのです」
慶次が僅かに首を傾げると、髪が揺れたのに気付いたのだろうか、酒に酔えぬものですから、と笑い声に混じって答えがあった。
「なら、俺と一緒か」
「ええ、頼もしいお仲間です」
慶次が幸村の隣りに並べば、幸村は再び、ゆったりと視線を戻した。彼は自然を愛でることが好きなのか、鍛錬の合間に庭先の木々をじっと見つめていたり、すずめとにらめっこをしたりしていた。慶次は彼の気持ちが何故だか分かるような気がした。どうしようもなく、そういうものに惹かれる時がある。取り憑かれる、と言った方が正しいのか。
「…慶次どのは、」
ん?と短い相槌を打てば、幸村は一瞬口をつぐんだ。言っちまいな、と幸村の髪をくしゃりと一撫ですれば、小さく息を飲む音が聞こえて、おや?と慶次は内心首をかしげた。それほどまでに、幸村にしては珍しい反応だった。彼は、人の心が読めるのではないか?と思わせる程、とにかく動揺がない男だったからだ。例えば、政宗が怒鳴る、兼続が説教する、孫市が突拍子もないことをしでかして人を笑わせようとする。そういったものに対して、ええわたしは存じておりましたよ、と言わんばかりに、いつもにこにことした温和な表情を緩めない、崩さない。
慶次はふと、視線を落とした。その先には、だらりと垂れ下がった幸村の腕があったが、その腕は何かを求めるように小刻みに震えていた。あるいは、寂しい寂しい、この手におさまるわたしの得物がいないではないか、とさ迷っているようにも見えた。そう思って、自分の腕も同様に震えていることに、ようやく気付いた。あの戦の熱が、今はただ恋しい。酒に酔えずに場の孤独さから逃げ出して月を眺めるこの男もまた、慶次と同じなのだろう。戦はむごい、兵も民も金も土地も、何もかもを喰らい尽くす。そう知っていながら、自分たちはあの戦場が恋しくてたまらないのだ。
「苦しいんなら、言わなくったっていいさ。あそこには兼続も政宗もいるだろうしなぁ。だから、そうだな、さびしいって誤魔化しちまいなよ」
俺は今、むしょうにさびしい。
そう呟いて鼻をすする真似をすれば、小刻みに揺れる手に手が触れた。幸村がおそるおそる手の甲を寄せてきたものだから、慶次は得物代わりに彼の手首を握り締めるわけにもいかず、笑みを噛み殺しながら、彼同様、ひっそりと月を愛でるのだった。
難・産!まさかの慶次の口調が分からない事態に。
10/02/22