茶々は女子であった。秀頼君以外にも子を成している、確かに女でなければできぬ所業である。だが、茶々は母にはなれなかった。全てを慈しみ愛する母にはなれなかった。茶々は終生、女であった。
幸村は縁側に腰掛けて、ぼんやりと庭を見下ろしている。既に陽は隠れようとしていた。橙色は、刹那の命の輝きだった。最後の瞬きがこの世を焼いている。視界に入る全てが橙色をしていた。庭からのぞく壁は、まだ戦の痕が生々しい。幕府軍が容赦なく打ち込んだ大筒が直撃をして、表面がこげて抉られていた。
女性が着物を引き摺って歩く、独特の足音を背後に感じて、幸村はひっそりと心の中でため息を吐き出した。徳川家康率いる幕府軍との戦にも何とか勝利をおさめ、その勢いをかって江戸城を攻めた。そこでようやく家康を討ち取り、豊臣は天下の主の座を取り戻した。本来ならば、このような場所で身を縮めている場合ではないのだ。清正などは戦の処理に忙しく、手持ち無沙汰な幸村は申し訳なくて、ここ数日顔を合わせていない。戦前は寝る間もなく動き回る幸村だが、戦が終わってしまうと、まるで燃え尽きたようにただぼんやりとしていることが多い。戦をかき回すことは得意でも、戦の傷跡を修繕する術を持っていないのだ。
足音はいよいよ近付いてきて、幸村は早く遠ざかってくれないものか、と願った。元々、一人でいる方が楽だった。けれども、先程から幸村の心を騒ぎ立てる足音は、あろうことか幸村の背後で止まった。振り返るべきか、気付かぬふりを貫くべきか。一瞬の逡巡は、彼女に先手を取られてしまった。
「暇そうじゃの、真田の。あの犬めに乗っ取られてしもうた、わらわも暇でたまらぬわ」
皆から虎などと呼ばれておった、あの野良犬のことよ、とくすくすと鈴のように軽やかに笑っている。幸村は観念して振り返った。秀頼君の母であり、この大坂の女主・茶々の姿がそこにはあった。
彼女はあまりに傲慢だった、矜持が高かった。徳川に頭を垂れることも、下賤の出である秀吉の、その子飼いの言うことをきくのも、彼女は許せなかった。年齢を感じさせぬ整った顔は、怒らせると幽鬼のようであった。とにかく派手好みで、苛烈な性格であった。彼女はこの世のものとは思えぬ美しさを持っていたが、だからこそ強欲で嫉妬深く、癇癪持ちだった。だが反面、少女のような無邪気なあどけなさを有していた。無邪気ゆえに残酷だった。それでも彼女は美しかった。大坂の城主の座にふんぞり返って、品定めでもするように冷ややかに皆を見下ろすその姿が似合っていた。あるいは、これこそが魔王の血であろうか。
「真田の」
と、茶々は幸村との距離を詰めた。膝をついて、幸村の肩に手を置く。幸村が逃げようと腰を引いたが、逃げるでないわ、と茶々は笑った。そう彼女は笑っていた。少女のような無垢な笑みだった。あるいは、この橙色の世界が見せる幻だったのか。
ぐいと肩を抱き寄せて、白いその指を幸村の背に回した。まるで母が子をあやすように、幸村の背をぽんぽんとたたいていたが、その仕草はどこか白々しかった。顔は彼女の胸に押し付けられていて、彼女の着物に焚き染めた香の匂いが強く香った。慣れぬ匂いに、視界がくらくらと揺れた。彼女の遊戯に付き合う必要はない、と幸村が身体を強張らせた、その時だった。
「もうよい、楽になれ、真田の。ほれ、力を抜け、目を伏せよ。槍は折れ、そなたはようよう、ひとになったのじゃ」
呪詛のようだと、幸村は思った。幸村は唇を噛み締めて、その恥辱に堪えた。むごい言い様であった、少なくとも幸村にとってはそうであった。幸村は、己の生き様を貫いてきただけだ、苦も楽もない。そうあるべしと生を授かり、その生を受け入れた。まさに己の死命であった。それを放棄せよ、とこの傲慢なお人は言う。否、もうその必要はないと、否!否や!最早不可能であると。
「おやめください、お方さま。わたしは、」
「わらわはこれより旅に出るのよ。長い長い旅路じゃ。最果てと思うておった場所は、もう失われてしもうた。行き着く先など見当もつかぬわ。わらわは供が欲しゅうなった。これは命令じゃ。そなた、供をせい。……真田の、わらわたちは、今を境に共に迷い子じゃ」
既に鮮やかな橙色の世界は幕を閉じた。夜はすぐそこまで迫っていた。
茶々様を書きたかったんだ…。でも書ききれてないんだ…。茶々様を理想の形で描写するには、まだまだ力不足です。
10/03/08