まだ日の昇りきらぬ早朝のことだ。くのいちは、本家から上田に急遽戻るようにとの通達を受け、幸村に挨拶をしておこうと鍛錬場に顔を出した。流石に早朝である。人影もなく、幸村だけがそこに佇んでいた。いつもならば槍を振るっている真っ最中であろうに、今日は一段落ついたのか、丁度良い段差に腰掛けて一息ついていた。
「幸村様、おはようございますっ」
と、声をかけてから、幸村が纏う空気の微妙な違いに気付いた。どこか、浮ついていると言うか、機嫌が良いと言うか。幸村は上機嫌な笑顔を貼り付けて、ああおはよう、とくのいちに微笑みかけた。一瞬ほだされそうになるのを何とかこらえ、
「今日はえらく機嫌が良いですね。何かいいことありました?」
そう訊ねる。毎日眺めている梅の花が、薄っすらと色づいたような、そんな些細な変化を認めたくのいちに、幸村は悪戯が見つかった子どものような、無邪気で楽しげな声で、
「そなたに隠し事はできないな」
と、やはり上機嫌に言うのだ。けれどもくのいちがその先を訊ねても、大事な宝物だから独り占めしておきたいのだ、と言わんばかりにはぐらかすものだから、くのいちは結局、彼が上機嫌な中身までは知ることが出来なかった。ただ、そう言って話題を転換しようとする幸村の目元は薄っすらと色づいていて、常に隙のない幸村の空気が春の陽気を思わせる温かさを含んでいたことが、くのいちを確信させた要因だったろう。伊達に付き合いは長くはない。
***
「っていうことがあったんですよ!三成さん!」
その後、幸村に上田に帰還することを伝えたくのいちは、一目散に三成の屋敷に忍び込んだ。独自の忍びを有していない三成の私室に忍んで行くことは、難しいことではない。顔見知りであれば尚更だ。いつもならば、極力会うことを避けている相手ではあるが、今はそうも言ってはいられない。何と言っても幸村の大事である。時々、くのいちですら恥ずかしくなる程の過保護っぷりを発揮する三成を、そういう意味でくのいちは信用していた。彼に任しておけば、まぁ悪いようにはしないだろう、と。
くのいちの想像は正しかったようで、早朝に突然の訪問で機嫌を急落させていた三成だったが、幸村様が!の一言ですっ飛んでしまったようで、むしろくのいちに食って掛からんばかりの勢いで身を乗り出した。既に興奮気味だったくのいちは、それは過剰とも呼べる脚色を加えて三成に伝えたのだが。
「で、俺にどうしろと言うのだ」
「どうしろ、って、三成さん、大事な大事な、目の中に入れても痛くない大親友が恋に悩んでるんですよ!」
「それは、そうなのだが、」
ここに左近が同席していたのなら、否定しない辺りを突っ込んでくれそうだが、生憎とまだ顔を見せていない。
「相談されたのならまだしも、」
「それ!そこなんですよ!どうせ幸村様、告白もしないで、この想いは墓場まで持っていこう、とか思ってるに違いないんですから!」
そんなわけない、とは思ったものの、あまり自分個人のことは話したがらない幸村だ。否定できない。だからと言って、何をどうしろと、と三成が小さくため息をつくのと、庭先から大音声が響くのとはまさに同時だった。
「話は聞かせてもらったぞ三成!そこの忍びも、見上げた忠義だ!不祥この直江山城、一つ助力しよう!」
関ヶ原の戦から三月程経った、早朝のことだった。
割と色々見切り発車。ギャグの兼続はどうしても2寄りになってしまう。
10/01/04