大坂の民衆達に見送られて、旧徳川領で起こっている一揆の鎮圧へと軍が出発した。総大将は、大坂の町民にも人気の高い加藤清正、軍師として上田では見事な示威籠城をして徳川軍を足止めした真田幸村の二人が率いる兵とあっては、負けは万に一つもないだろうと、皆が思うに十分だった。事実、戦火が開かれたのは初日の数刻ばかりで、あとは主に交渉で一揆は鎮圧された。幸村の畳み掛けるような隙のない布陣に、一揆軍も勝ち目はないと早々に諦めたようだ。
しかし、事は帰還途中の行軍の際に起こった。
その日は連日の雨で地盤が緩んでいた。雨が上がるのを待って退陣の日を延ばしていたのだが、晴れてもぬかるんだ地面は完全には乾いてはくれず、歩くたびにはねる泥が鎧を汚していた。大坂へと続く整備されていない細い道を黙々と進む。こんな時に一揆の残党に背後から襲われては、逃げるに逃げられないな、と幸村が脳裏に思い浮かべた、まさにその時だった。後方で銃声が鳴り響き、馬が嘶きを上げる。どんな強固な軍も、背後から奇襲されると弱い。清正率いる屈強な兵たちも、浮き足立ち同士討ちを始めている。道が狭いせいで、すぐに反転もできず、身動きも取れない。幸村はすぐに馬を捨てて、先頭で事の把握に躍起になっているだろう清正のもとに駆け寄った。
「わたしは後方を見てきます。清正どのは馬廻り衆だけでも、混乱しないよう気を配っていてください」
「馬鹿、俺も行く!」
「駄目です。総大将はあなたでしょう。何かあっては遅いのですよ!」
すぐにでも駆け出そうとする幸村を引き止めたものの、幸村は清正の言葉を聞かずに、すぐに走り出してしまった。ひやりと背筋が凍るほど冷静な眸の奥で、戦の熱がまだじりじりと焦がれている。幸村の眸は、そういった空恐ろしさがある。清正は彼の背を追いかけようとも思ったが、馬廻り衆が不安そうに清正の指示を待って佇んでいるものだから、その衝動をどうにか押し止めて、状況の把握に忍びを散らして、混乱が広がらないよう声を張り上げなければならなかった。
奇襲の人数は多くなかったようで、次第に混乱も収まりつつあった。しかし、いくら待っても幸村からの報告はない。嫌な予感が脳裏をよぎるが、あの幸村に限って…、と己に言い聞かせ、走り出しそうになるのを何とか抑え込む。馬廻り衆には、その場に待機するよう言い渡して、被害の状況を確認しようとその場を離れた。背後から襲われたと思っていたが、丁度行軍の真ん中を襲撃されたようだった。兵糧や弾薬といった類はほぼ無傷だが、負傷兵の姿が目立つ。鉄砲の怪我よりも、同士討ちで斬り合った傷がほとんどだ。とりあえず、応急処置だけを済ませ、開けたところで今日は野宿をしようと伝令兵に伝え、近くにいる軽傷の兵に幸村の行方を訊ねた。清正としては、今は場の収拾でそこら中を飛び回ってます、との返答がもらえればよかったのだが、問いをぶつけた兵士は、途端黙りこくった。大将自ら声をかけられ、舞上がり気味だった年若の兵は、紅潮させていた頬を哀れなほど青ざめさせていた。
「…怪我を負ったのか」
「は、はい。ですが、大事にしたくはないと、御大将には伝えないでくれと」
「…どこだ、案内しろ」
一気に不機嫌になった清正に怯えるように、震える声で、こちらです、と案内してくれた兵を気遣う余裕は、清正にはなかった。
負傷兵が集められた場所に、幸村もまた居た。怪我人の中に埋れて、地面に座り込んでいる。常に戦場では脱ぐことがない甲冑も、怪我の処置の為外されていて、その肌には白い包帯が巻き付けられている。脇腹を負傷したようだ。包帯にはまだ血が滲んでいる。それでも幸村は周りの負傷兵を気遣って、笑みを絶やさずに励ましの声を飛ばしている。
「幸村!」
怒鳴り声をぶつけられて、幸村の肩がはねた。幸村は、いつかばれると思っていたけれど、叱られることに怯えて親の顔色を窺うような、無邪気な子どもの顔で清正を見上げた。全くもって、清正の怒りの中身を分かっていない顔だ。表情で繕ってはいるものの、顔色は悪い。血を流し過ぎたのだろう。
「馬鹿か!何故黙っていた?!」
「おおごとにする必要はないと思いまして」
言われる内容を見越していたのか、幸村の声に動揺はなかった。清正の剣幕に驚いた様子ではあったようだが。ここで幸村に何を言っても無駄だと早々に覚った清正は、話の矛先を変えた。幸村がほっと胸を撫で下ろした様は、見て見ぬふりをしなければならなかった。おそらく、三成辺りにはいつも厳しく言われているのだろう。それでも治らないのか。重症だな、と清正は腹の底がちくりと痛んだが、今はそんなことを言っている場合ではない。自分には、鎮圧軍全ての兵を無事に帰還させる使命があるのだ。
「何故、怪我を負った?奇襲の兵にやられたか?」
「いえ。同士討ちを何とか止めようと思い、無謀にも飛び出したら、呆気なくぐさりとやられてしまいました。精進が足りませんね」
ふふ、とついいつものように笑ってから、まずいと思ったのだろう、幸村は慌てて口を覆った。しかしそれも間に合わず、見事に清正の逆鱗に触れてしまったようだ。整った眉が怒りでつり上がっている。また不興を買ってしまった、と幸村は表情には出さずに内心でそう落胆したが、清正からはそれ以上の咎めの言葉をぶつけられることはなかった。代わりに、まるで割れ物を扱うかのように、優しく手をぎゅうと握り締められ、
「だいじ、ないな?脇腹以外に怪我は?」
と、幸村の嘘など見逃さぬと言わんばかりに顔を覗きこまれ、幸村も辟易した。だいじありません、無事です、怪我など負ってはいません、そう絞り出すのに時間がかかってしまい、清正の不審を招いたが、確認されますか?と下袴を止めている帯に手を伸ばせば、慌てて清正が遮り、お前の言葉を信用しようっ、と押し止めるように更にぎゅうと幸村の手を握り締めた。
最後の最後で負傷兵を抱えることとなった鎮圧軍だが、大坂はすぐそこだ。山は越えたと思っていた清正に、予想外の出来事が降りかかった。一番の敵は身内に潜んでいたからだ。想定内の日程で帰還した軍を出迎えた三成は、まず負傷兵の多さに眉を顰め、具足姿ではない幸村に叫び声を上げんばかりの形相で駆け寄った。幸村怪我をしたのか、何故連絡を寄越さん、周りの兵は何をしていたのだ、それでお前、大丈夫なのか。一息で言ってみせた三成に、幸村は苦笑しつつ、大丈夫ですよ、としっかりと受け応えしていた。幸村の声を聞いて落ち着いたのか、ならばいい、詳細は後から聞こう、と一旦幸村を開放した。それを眺めていた清正と目が合う。後から部屋に来い、詳しく聞きたい、と、子どもが見れば泣き出しそのまま失禁しそうな程の鋭い視線を向けられた清正も、今回ばかりは肩を竦めて従うほかなかったのだった。
互い険しい表情のまま向き合って、三成は清正の報告を聞いていた。
「俺の不手際だ。罵るなり殴るなり勝手にしろ」
「…幸村はそれを望まん。あいつはお前のせいだと思っていないからな」
「…優しいことだな。そんなにあれが大切か?」
「自分はそうではない、とでも言いたげだな。お前は幸村を好いているのではなかったか?」
清正の目に、いっそう剣呑さが増す。正則からきいたか、と飛び掛るように問い掛ければ、ああきいたが悪いか、と開き直った三成の声が返ってきた。趣味が悪いと罵れば、お前に言われる筋合いはないとの返答に、更に機嫌が下降する。
「…だからこそ、自分の不甲斐なさが腹立たしいのだと、お前は気付かないのか?」
「自分に苛立つ暇があれば、あれが無茶をせぬように心配の一つでもしてやれ。あいつには、結局それが一番堪える」
「心配、しているつもりだが?」
「自分のことで精一杯で、幸村には目もくれていないようだったがな」
「自分の感情が自分で把握しきれていないだけだ。お前にそうまで言われる必要はない!」
話していても不愉快になるだけだ!そう叫んで、部屋を後にする清正だった。
清正が最後に放った気迫にびりびりと振動していた場が、ようやく静まった頃、鬼は去ったといわんばかりに左近が顔を出した。三成の表情を見て、ああまた一悶着やったのか、と覚ったらしく、左近の顔には苦笑が浮かんでいた。
「太閤殿下の懐刀が、まぁ可愛らしい悩みを抱えているじゃありませんか」
ふんと鼻を鳴らした三成は、懐から扇を取り出して、ぱしりと手の平を叩いた。
「もう少し可愛げがあれば、俺も全力で協力するのだがな」
「幸村可愛がるのもいいですが、可愛がりすぎて手放すのがおしい、なんて、言い出さないでくださいよ」
もう一度、不機嫌そうに鼻を鳴らした三成は、左近の言には応えず、さっさと部屋を去って行ったのだった。とりあえず、急ぎ幸村の見舞いの用意をしなければ、な。
戦の描写、書くの好きすぎやろーと思いました。テンション上がるわ。
10/01/04