鎮圧軍が帰還して、早数日。まだ包帯は取れぬものの、傷に血が滲むようなことはなくなった幸村は、今日も元気に布団の中に押し込まれていた。誰かが見張っていないと、すぐに鍛錬に身体を動かしに!と床を抜け出してしまうものだから、周りも気が気ではない。幸村も悪気があってのことではないのだが、こればかりは三成が言い聞かせても聞く耳を持たない。すいませんすいません、分かっているのです、休んでいた方がいいことは重々に承知しているのです。ですが目が覚め、気が付いたら既に着替えを済ませ鉢巻を締め槍を片手に鍛錬場へと足が向かっているのです。そう言うものだから、見張りを厳しくする以外に方法があるだろうか。
今日も見張りと入れ替わりに訪れる見舞いに応える為、床から出られないでいる幸村だ。中でも、特に熱心なのは三成や左近、兼続に慶次、珍しく大坂に滞在している政宗も、事情を聞きつけて孫市共々顔を出してくれている。更には正則や、その他の豊臣恩顧の方々も、大丈夫か?大事ないか?と時間の合間に見舞ってくれる始末。こんなにも熱心に通われては、早く床上げしなければ!と幸村は思っているのだが、そう念じたところで傷が早くくっつくわけもなく、安静第一を守るしかないのだ。そんな中、清正は初日の一回、近くに来たついでに寄ってくれただけで、数日、顔を見ていなかった。戦場では毎日顔を合わせていただけに、幸村にも不安が広がった。迷惑をかけてしまった、と思っている幸村は、彼に謝罪する場すら作ってもらえないのだと思うと、表情に影が落ちた。
早く元気になって、清正どのに謝りに行かなければ!と間違った決意を燃やすことなど知らぬ清正は、自室で鬱々とした日々を送っていた。偵察に行かせるように、足しげく正則を通わせてはいるものの、やはり自分の目で彼の無事を確認したい。だが、行ったとてどうなる。彼を困らせるに決まっている。こうしてうだうだと答えの出ぬ問答を自身の中で繰り返している。
会って、どうする。そればかりが脳裏をよぎる。本当に自分は幸村が好きなのだ、とつくづく思い知る。会って、どうしたい、どうする?謝罪か?それとも、心配した心配しすぎて夜も眠れないとでも言えばいいのか。ああ、そんなこと、らしくない。嘘だと思われるだろう。それは、いやだ。ああ、どうしたら、
ごろりと畳に寝転がり、反転した庭を縁側からのぞいた。寒々とした庭先の景色が、己の心のようだと思い自嘲する。
「清正、何してんだ?」
声と共に、突然視界いっぱいに正則の顔が映って、思わず清正は飛びのいた。いくら見慣れた顔でも、唐突にあの顔が間近にある状況は心臓に悪い。正則は驚いた様子の清正を指をさしながら笑っていたが、三成が、と名を告げた途端に流れた険悪な空気に、正則も笑みをしまいこんだ。
「部屋に来いだとよ。ったく、何様のつもりなんだか」
「何って、治部少輔様だろう」
面倒臭そうに言いながらも腰を上げた清正に、行くのか?と心底意外そうに眉を顰めている。
「行かなきゃ、後々面倒だからな。ったく、治部少輔様は偉くなったもんだ」
肩を竦め合って、清正は三成の部屋を目指した。
三成の部屋に入るなり、三成の不遜な視線に出迎えられた。決して広くはない室内に、三成ほか、左近・兼続・慶次の姿もあり、何の集まりだ、と身構えたのも束の間、三成が三人を促すように視線を送れば、清正は左近・慶次に両脇を固められてしまった。
「あ!おい!なんの悪ふざけだ!」
当然非難の声を上げた清正だが、返答はない。お前の発言など許していないと言わんばかりのシカトっぷりだ。
「清正、幸村の見舞いに行っていないと聞いたが、本当か?」
「ああ本当だ」
「何故?」
「そんなことまで、お前に言わなきゃなんねぇか?」
ぴりぴりと空気が震えている。左近は慌てて間に入り、
「これから幸村んとこに行くんで、ご同行願えませんかね?」
と、これ以上険悪な空気にならぬよう、儚い努力をしている。左近、口出すな、と彼の発言をたしなめる声と、清正の地を這うような低音が重なった。
「断る。お前たちで行けばいいだろう」
「ならば実力行使だ」
顎で清正を指せば、左近・慶次が両側からがしりと拘束をして、そのまま清正の身体を持ち上げた。もちろん清正も暴れるが、流石に男二人がかりでは分が悪い。
「三成、この馬鹿っ、何考えてやがる!!」
「馬鹿はお前だ。さっさと腹をくくれ大馬鹿者」
清正の怒号だけが、虚しく響き渡っていた。
暇を持て余して、左近に借りた兵法の書を読んでいた幸村だが、廊下の喧騒に顔を上げた。その声がまた、聞き慣れたものであったから尚更だ。何事だろうか?と首をひねる幸村をよそに、部屋の前まで到着した一行から、兼続の朗々とした声が響いた。
「幸村!入るがいいか?」
「あ、はい、どうぞ」
すぱーん!と小気味良い音で左右に開かれた襖だが、荷物を放り込んだら、すぐにまた、小気味良い音を立てて締められてしまった。一瞬の出来事にぽかんとしていた幸村だが、荷物、と言うか、荷物のように持ち上げられて放り投げられた人物に、慌てて駆け寄る。投げられた拍子に身体を打ちつけたようで、腰の辺りをさすっている清正の顔を覗きこみ、大丈夫ですか?と声をかけた。
「あの、一体どうなさったので?」
「…知らん。このことには触れてくれるな。それよりもお前、もう怪我はいいのか?」
その場に胡坐をかいた清正と、正座をする幸村。寝ていなければいけないのではないだろうか?と思った清正だが、見た様子では元気そうだ。
「はい。その節はご迷惑をおかけしました。皆さん過保護な方ばかりで、未だ床から抜け出せないのですが、本当はもう、元気なんですよ」
そうか、と相槌を打った清正だったが、その先の台詞が出てこない。気まずい沈黙。幸村は清正からの言葉を待っているのか、彼も清正同様に言葉を探しているのか、長い沈黙が流れた。
清正は視線の行き場を失って、さっと部屋を見渡した。幸村の自室だろうか、物自体が少ない。寝る為だけにある部屋といった感じで、申し訳程度に書物やら活けた花などが飾ってあるが、どうも馴染んでいないようだった。そのまま視線をずらして、幸村の横顔をちらりと眺める。数日を寝て過ごしているせいだろうか、健康的な頬からは血の気がうせ、肌の白さを誇張させていた。決して女性らしい容姿でも、たおやかな雰囲気を持っている男ではない。凛とした眼差しや潔癖なまでに真っ直ぐな鼻筋、口許は、武士の魂を体現したような清廉さだ。清正が惚れた真田幸村という男は、そういった男であった。槍の鋭く尖った切先で、空気を切り裂くその様は何よりも美しかったのだ。
清正の腕がそっと伸びて、幸村の頬に添えられた。幸村は深海の底のような黒黒とした眸で、じっと清正を見つめている。どれだけそうして見つめ合っていたのか。幸村の肩にかけられている上着がずれ落ちそうになって、清正は空いている手でそれを防いで、ようやく己が何をしていたのかに気付いた。何を思って彼に触れたのか、自分自身分かっていない。触れたい、と思い彼の頬に手を伸ばしたのだろうに。その先に何が待っているかなど、考えもしなかった。清正は彼からぱっと手を放して、距離をあけた。幸村は感情の読めぬ顔で、清正の行動をじっと見つめている。
「幸村、」
「はい」
「あれは俺の不手際だった。俺が不甲斐ないがゆえに、お前は怪我を負った」
「いいえ、あれはわたしのせいです。どうも自信過剰になっていたようです」
「幸村」
「はい」
「先の戦、総大将は俺だ。責任は俺、だろう」
幸村は苦笑して、ええ、そうですね、と清正の険の先を少しだけ和らげた。
「心配した」
「はい」
「嘘ではないぞ?」
「はい、」
「三成や兼続ばかりではなく、正則や俺も心配する。だから、あまり無茶をしてくれるな」
「重々、心に刻み付けておきます」
「ならいい。この話はもうなしだ」
わかりました、と幸村はようやくいつもの笑みを作る。清正はもう一度手を伸ばしかけたが、今度は幸村の目がその腕を動きを追いかけて動いたものだから、不埒なことをするに及ばなかった。誤魔化すように咳払いをした。
「それで幸村、お前が元気になってから言おうと思っていたのだが、」
次でラストです。もう少しだけお付き合いください。みっちゃんが凶悪ですね。楽しい。
10/01/04