ここ数日、清正は機嫌が悪かった。兵の調練は中々うまくいっているのだが、一つ滞っている事項があるせいで、他事に集中できないのだ。兵達には八つ当たりすまい、とは心がけているものの、常の無愛想に眉間の皺が追加されるだけで凶悪面になることを、清正は知らない。今も七手組との合同練習を終えたばかりなのだが、打ち合わせをしている最中でも、速水守久はどこかおっかなびっくりに清正と接していた。
一仕事終えた清正が向かったのは、まだ兵の鍛錬を行っている、正則と幸村の許だった。ここに武蔵も加わって、よく兵達の見本となる模擬戦を行っているのだが、個々の動きが一般兵に真似できるようなものでないせいで、見世物になっている。彼らもそれを承知で槍を合わせているらしい。兵達の簡易娯楽になることで、互いの息抜きになっているようだ。今日も清正が現場に到着すれば、正則と幸村が組み手をしている最中だった。戦場では得物だけが頼りになるわけではない。長時間の戦闘で槍も刀も使い物にならなくなることも多々あり、その場合、最後に物を言うのはやはり自分の体術だ。身体能力が優れているせいで、己の勘と経験だけを頼りに技を仕掛ける正則とは反対に、幸村は実に型に忠実なものだ。兵達が各々の大将に声援を送っている。彼らの関係は良好なようだ。いざ戦闘になった時、やはり指揮する大将と兵の信頼関係は重要な問題となってくる。元々人に好かれやすい性質である二人である。仕方のないやつ、何となく放っておけない、と思わせる正則と、兵たちとも分け隔てなく接する幸村では、好かれる理由も異なってくるだろうが。
「仲が良いことだな」
聞き慣れた声に、条件反射で清正の顔が歪んだ。首をひねって声がした方を振り返れば、こちらも鉄砲の演習を終えたらしい宗茂がいつもの調子で佇んでいた。鼻を僅かに刺激した硝煙のにおいに清正が眉を寄せる。試し撃ちを許可した覚えはなかったからだ。宗茂は目敏く気付いた清正に、「安心しろ、大坂の倉には手をつけていない」と清正が一番気にしている部分だけに返答を寄越した。この男も中々謎な部分があって、牢人だったくせにどこからか弾薬を調達してきたり、武具を調達してきたりするのだ。
「そうだな、兵たちとの関係も良好だ」
「そっちじゃないさ。正則と幸村だ。ほら、もう終わったようだぞ」
今日は正則の力攻め戦法が勝ちをおさめたらしく、正則が幸村の肩に手を置いて大口を開けて笑っている。幸村も控えめに笑みを浮かべて、何やら会話をしているようだ。大方、互いの健闘を讃え合っているのだろう。なんとなく、面白くはない。こちらはここ数日、腹の中にずっと重しを抱え込んでいて、どうもすっきりしないのだ。
「なにを苛ついている?」
と、宗茂は訊ねるものの、その目は好奇心に満ちていて、人の心を掻き乱す気満々のようだった。
「そんなんじゃねぇよ」
「それ、それが苛ついてる証拠だろう」
「……」
清正が言葉の代わりに睨みつけても、宗茂の顔は笑みを貼り付けたままだ。遊ばれているのだとはわかっているが、どうにもうまくかわす方法が見つからない。毎度こうして、彼の口車にもてあそばれている。
手合わせを終えた正則が、まず清正たちに気付いた。戦場だとか鍛錬だとかに集中してしまうと、極端に視野の狭くなる正則である。声を張り上げれば届く距離に居た清正たちにようやく気付いて、あの戦場と変わらぬ大音声で清正の名を呼び、手を振っている。幸村もこちらに顔を向けて、軽く会釈をした。先まで正則相手に対等に渡り合っていた人物とは思えぬ程、彼の空気は穏やかだった。正則が幸村の腕を引っぱって駆け出す。幸村は咄嗟のことに驚いた様子だったが、正則の手があまりに強引だったせいか、振りほどくことも出来なかったようだ。あるいは、彼にはそういった選択はなかったのか。引き摺られるようにして、正則の後に続いて幸村も清正たちの側まで駆け寄った。
「仲が良いな」
「あれは、あの馬鹿が馴れ馴れし過ぎるだけだ」
「お前には真似できんだろうがな」
そう軽口を叩いていれば、すぐに二人は清正たちの目の前にやってきた。特に用事のないだろう正則に巻き込まれてしまった幸村は、果たして運が良いのか悪いのか。
「なんだ、機嫌わりぃな清正」
と、開口一番にそう言い放った正則は、中々に度胸が据わっている。向こう見ずとも、配慮に欠けている、とも言い換えることができるだろうが。宗茂といい正則といい、不機嫌と分かっている人間に寄ってくるものだから、大したものだ。
「お前たちの仲が良すぎるから、こいつは羨ましいんだろう」
は?と首をひねった反応が、正則も幸村も同時だった。互いに、そういう認識を持っていなかったのと、清正にもそういう感情があったことに対する意外性が正直に反応に出てしまったせいだろう。「馬鹿、なんでそうなる」と、清正は不機嫌な声のまま言って、「なんだそうじゃないのか、つらまない」と宗茂がわざとらしく肩を落とす振りをした。宗茂の性質の悪いところは、こういったわざとらしいあきらさまな演技も、どこか堂に入っているところだろう。大袈裟な所作が似合う男なのだ。
「まだ書類の決裁がおりないんだ。気になって仕方ねぇ」
清正が治長に請求しているのは、演習用の鉄砲玉の手配だ。大坂城に胡坐をかいていた兵たちは、鉄砲隊とは名ばかりの鉄砲に触れたことのない者ばかりだ。合戦に向けて少しでも実物に触れて試し撃ちをさせてやりたいと清正は考えているのだが、弾薬や硝煙は消耗品である。いかに大坂城の金蔵が無尽蔵であっても、日本国では調達できない硝煙などは専ら輸入頼み、数には限りがある。演習に消費しすぎて、実戦では弾切れ、などという事態はもちろん避けねばならない。けれども、だからと言って大事に保管して、いざという時に使いこなせないとなっては意味がない。
早く返答が聞きたいのだが、書類を提出して早数日、まだ彼からの返事はなかった。清正が焦れている原因である。
「無理なら無理で別に構わないんだが。早く返答が欲しい」
「治長待ちか」
宗茂の相槌に大袈裟な溜め息をついた清正は、ここ数日の鬱憤を吐き出すように口早に言葉を告いだ。
「もっと早く出来るだろ。簡単な仕事じゃないってのは分かってるんだが、こうも手際が悪いとなると。……あいつはもっと、色んなことを早くこなしてたぞ」
しん、と一瞬にして場が静まってから、清正は己の失言に気が付いた。誰、とは言わなかったが、この三人には名を言わずとも伝わるだろう。彼らの脳裏には、同じ人物の名前が過ぎった。言いつくろうと言葉を探した清正だが、それよりも先に幸村が沈黙を破った。こういう場では傍観者に回ることの多い幸村が、珍しいことだった。彼なりに、清正の失言に憤慨しているのかもしれない。それほどまでに、彼らは親密であったからだ。
「わたしはそうは思いません。治長どのは、うまくやっていると思いますよ」
幸村の穏やかな声を聞き慣れている面々にとって、彼が紡いだ声音はどこか冷たかった。怒っているのかもしれない。
「経験の問題でしょう。なにぶん、初めてのことですので手間取るのは当然です。それを差し引いても、治長どのの仕事振りに非難するところはないと思うのですが」
比べる相手が悪すぎます、と幸村は彼にしては珍しく、ぼそりと呟いた。幸村はあの眸で清正をじっと正面から見据えている。何となく直視できなくて清正はさっと視線を外したが、ずらした先の宗茂は清正の次の手を待つばかりで、とっくに観客になり切っていた。正則は論外だ。彼は言葉の僅かな機微だとかが分からぬ性質なのだ。
気まずい沈黙が流れた。幸村は清正からの言葉を待っていたようだったが、それが清正の口から出ることはなかった。痺れを切らした幸村が、すっと目を細めて、くるりと踵を返した。
「そう言えば、この後武蔵と約束をしていたのを、すっかり忘れていました。それでは、失礼します」
ぺこりと一礼をして、幸村は去って行った。彼の逃げる口実は、先日と同じで、嘘なのか真なのか判別がつかない。もっと上手い方法が、いや、今はそういうことじゃない。あそこであの男を連想させる言葉を吐いた自分の浅はかさに清正は自己嫌悪したが、それも傍目には、不機嫌そうに顔を顰めているようにしか見えなかった。清正はあの男を不器用で融通の利かない大馬鹿者だと罵っていたが、清正も決して器用ではなかった。幸村を引き止め、誤解を解かねばならぬことを知っていながら、彼はそうすることが出来なかったからだ。
「あれは失言だったな」
幸村の背を何も言わずに見送っていた宗茂が、そう口を開いた。清正は力なく「うるさい」と呟いた。そんなこと、この性悪男に諭されずとも自分が一番に痛感している。表情からは分からぬものの、珍しく参ってしまっている清正に、なんだこの男もまともな感性が備わっていたのか、と宗茂は失礼なことを思ったが、それは清正も同様だろう。むしろ、この男がそんな失礼なことを考えていたのだと知ったら、先の出来事など吹っ飛んで彼に掴みかかったかもしれないが、賢明な宗茂はその台詞を告ぐことはなかった。代わりに、
「お前たちは、なかなかに難儀だな」
と、見透かしているような口をきいた。清正も、何をこの男は知った風に、と胡乱げな目を向けたが、宗茂は知らん顔をした。すっ呆けるのは、彼のお得意だ。
「幸村が分かりにくいんだよ。罠ばっか仕掛けてきやがって」
「幸村は分かりやすいぞ?」
今までやり取りを眺めているだけだった正則が、ここで口を挟んだ。清正が顔を顰めて正則を見れば、「なんだよ、ホントのことだろ」と少しだけ身体を引いた。同じ人物にこれほどまでに評価が異なるということが、この二人の間ではなかったことだからだ。
「と、正則は言っているが?」
「あんな複雑なヤツ、俺は知らねぇよ」
あの大馬鹿野郎だって、もっと分かりやすかったぞ、と内心で呟いてから、こういう比較が幸村の非難を買うのだろうと気付いて、慌てて首を振った。俺たちは、もっとうまくやれるはずなのに。
「そうだろうか?ちなみに、俺は正則に賛成だぞ。あれは鏡のような男だ、こちらの気持ちをそのまま映し出すからな。だから、正則には単純なんだろう」
「それなら、お前に対する反応は、相当ひねくれてるんだろうな」
心外だな、と宗茂が大きく手を広げて肩をすくめる。こういう所作が妙に似合っていて、やたらと腹が立つ。
「俺は素直だからな、幸村は俺の口説き文句に好意的だぞ」
既に清正には、「嘘をつけ!」と彼を怒鳴りつけるだけの気力がなかったのだった。
宗茂さんがー、すごくー、出張ってー、来ますー。
正則がすぐ空気になります、ホントごめん。
10/04/18