そろそろ丑三つ時に差し掛かった頃だろうか。月の加減でそう判断した武蔵は、酒宴が開かれている部屋を覗き込んだ。いくら酒好きの集まりだと言っても、各々には割り振られた仕事があって、皆が一様に休んでいられない状況なのだ。お開きになっているだろう、と見当をつけた武蔵だったが、部屋に顔を出して早々、顔を顰める羽目になってしまった。締め切っているせいで、酒のにおいが充満していたせいだ。
「酒くさい!」
 と、部屋の入り口で夜も憚らずに叫んでしまったというのに、中から反応はなかった。皆が部屋のところどころに寝転がって潰れている。その中で唯一、幸村だけが正座をしてまともな姿を保っていたが、俯いているせいで武蔵からは表情が読めなかった。
「幸村!」
 と、部屋中に響き渡る大声で彼の名を呼べば、ようやく幸村が顔を上げて武蔵に視線を向けた。眼の奥が揺れている。幸村の黒い眼は透度が高いせいで、一切の感情を削ぎ落としてしまうと、途端物悲しい印象を与える。今だって、いつも浮かべている彼の笑みはどこかへ行ってしまっていて、ただ目の前の状況に途方に暮れる子どもそのものだ。その様がやけに切なくて淋しくて、武蔵はつい声をかけずにはいられない。幸村にそういう表情は似合わないと思うからだ。
 会話をするには遠いな、と武蔵は思ったが、部屋の中に入るのは憚れた。昔から、酒は嫌いだ。その辺りの事情は知らずとも、武蔵の極端に酒を遠ざけたがる性質を知っている幸村は、武蔵が手招きをすれば、苦笑を一つこぼして立ち上がった。いつもならば自分から距離を詰めたがる武蔵だが、やはりこの場はそうはいかない。幸村は武蔵に甘かったし、武蔵は幸村の甘さに甘えられるだけの奔放さがあった。
「どうしたんだ?あれ、清正と正則は?」
 幸村の表情が僅かに曇る。何故か幸村の顔の筋肉は、武蔵の言葉にだけは素直だった。あるいは、武蔵の言葉が素直なだけなのかもしれないが。大坂に集まる人間は、誰も彼も本音を隠したがる傾向があった。まどろっこしいな、と武蔵は思う。世界はもっと単純で曖昧で適当だろうに。
「部屋に戻られた。…わたしは駄目だな、どうも気が利かない」
 はあ、と溜め息をついた幸村の深刻さなど素知らぬ顔、武蔵はやけにのん気そうな声で、
「俺は幸村以上に気配りのできる奴の方が、いないと思うけどよぅ」
 と、幸村の肩をぽんとたたいた。気休めは必要ないぞ、と幸村がつい苦笑を浮かべるものだから、武蔵も意地を張ってしまって、むっと口を顰める。本心で思っていることほど相手に伝えることが難しいとは、全く以って人付き合いとは厄介で面倒でややこしい。
「相手は清正、か?」
「?何がだ?」
「お前が本気でへこんでる原因だよ」
 幸村は何故だか、ふふ、と笑い声をもらして、武蔵にはかなわないなあと、やけにのんびりとした調子で呟いた。武蔵も常々、幸村にはかなわないなあと思っているのだが、今は彼に同調するのはやめよう。確かに、限られた今という状況においては、武蔵は幸村の上に立っているからだ。何故だかこの男、清正のことになると視野が狭くなるようだ。状況判断が裏目に出過ぎている。
「なんでか、うまくいかねぇのな、お前と清正」
「それはわたしが、不用意なことを言って、清正どのを不快にさせるからだろう」
 わたしが悪いのだ、と幸村は笑って感情のごたごたを誤魔化そうとしているようだった。そういう、隙を作らないようにする幸村は、正直、いいな、とは思わない。自分を責めて自己完結しようとしている姿など、頭を掻き毟ってああもう!と言いたくなるもどかしさがあった。幸村の他者への平等な無関心さに、武蔵はいつももやもやとしている気がする。どうしてそうも、一人で生きたがるのか。
「俺は、そう思わないけどよぅ。清正だったら上手く流すんじゃねぇの?お前も、そこまでいっこのことにむきになるの、珍しいじゃねぇか。俺のよく知る真田幸村って男は、すんごい我慢強い男で、片意地になるってのは滅多にないはずだけどよぅ」
 幸村が言葉を探すように、視線をさ迷わせている。武蔵は幸村からの返答を待って、同じように床に視線を向けた。言葉を見失いがちな自分たちの間では、こういった空白は珍しいことではない。幸村がいつも根気よく、武蔵が言葉を発見するのを待っているように、今度は武蔵が少しだけ彼に時間を分けてあげればいいだけだ。
「良く、見られたいのだろう」
 絞り出すように吐き出した幸村の声に、ふぅんと興味があるのかないのか、気のない相槌が返ってきた。武蔵らしいな、と思った幸村の顔には、自然と笑みが浮かんだ。この男も、隙がないなぁとぼんやりと思う。清正のことで悩む己を武蔵は珍しいと言ったが、幸村にしてみれば、人ひとりの機微を言葉にして細かく分析している武蔵の方が珍しい。決して人を見ていないわけでも、鈍いわけでもないのだが、あまり己の思考をはっきりとした言葉に変換することを好まないのが武蔵である。彼は幸村以上に自己完結の男だった。
「自分の中で、これだけは人に負けぬ、と自信を持っているものがあるだろう。わたしは、その自負を主張しようとして、」
「見事に失敗?とかか?」
 幸村の言葉尻を捕まえて、武蔵が続きを紡ぐ。失敗、という言葉は、あまり幸村には馴染みのない言葉だった。
「俺に言わせりゃ、お前らは見栄張りすぎなんだよ。あと、隙がなさすぎ」
 わたしは、そんな出来た人間ではないぞ、と幸村が苦笑していたが、武蔵は大袈裟に首を振った。幸村は更に何かを言いたそうにしていたが、それよりも先に「帰ろうぜ」と武蔵が歩を促せば、幸村はようやく口をつぐんだ。今日は月がきれいだぞーと武蔵が話題をがらりと変えれば、幸村はそれ以上先の話に触れようとはしなかった。











武蔵が書きたかったんです(…)

10/04/21