清正は、正則や武蔵たちの協力の末、幸村を己の部屋に連れ込むことに成功した。幸村はいつもの好青年らしい笑顔のままだったが、その内心はどうだろうか。訊いてやろうかとも思ったが、返事がどうあれ彼を解放する気のない以上、その問答は不要だろう。幸村も、早く用件を終わらせて退室したいに決まっている。
 二人は、大坂城周辺の地図を挟んで、向かい合って座っている。幸村の忌憚ない意見が聞きたいが為の強攻策である。軍議の場ではなく、あくまで個人同士の知恵比べと思っているのだが、幸村はさてどうだろう。ここに酒の一つでもあればよかったのだろうが、酒精に惑わされたと誤魔化されるのは真っ平だったから、用意すらしなかった。幸村の逃げ場を全部塞いで、ようやく幸村の口を割らせることに成功した場と言えるが、彼の言葉は、大坂の戦力を熟知しているだけに容赦がなかった。

「画餅です」

 清正の構想を一通り聞いた幸村は、ただ一言そう言った。決して強い口調ではなかったが、短く吐き出された無表情な声は、静かな部屋にびりびりと響いた。思わず腰を上げかけた清正だったが、どうにかその衝動を押し止めて、どれが、とこちらも短く訊ねた。地図の為に用意した灯りでは、互いの表情の細部までは分からない。身を乗り出して顔を伏せてしまっていては、顔に落ちる影ばかりが鮮明だった。
 すっと幸村の指が伸びて、川が入り組んでいる辺りをなぞって行く。記憶の中の彼の指は、武人らしい無骨な整った指をしていたが、こうして灯りの下に現れた彼の人差し指は、ひどく荒れていた。鉄砲隊とは名ばかりで、試し撃ちすらしたことのない兵達に、彼直々鉄砲の指南をしているらしい。また、城の防御が足りぬところどころの工事も、人足に混じって作業しているようだ。それでも表情に疲労があるかと言えばそうではなく、今の忙しい状況を喜んでいるようにすら見えた。この男は、戦の準備が楽しくて楽しくて仕方がないのだろうか。

 幸村の指が、すっすっと紙を撫でる音だけが響いている。清正が語った策の一つ、秀頼君大坂城脱出の際に船が通る川を順々に撫でているのだが、その表情までは読めなかった。戦場という非日常から飛び出した幸村の気配は、思わず存在を確かめてしまいたくなるほど希薄だ。気配が薄い、人が生きる上での熱が感じられない、動きが鈍いわけでも少ないわけでもないのに、振動させた空気が伝わらない。物静か、の次元を軽く通り越している。彼の纏う存在感はとても透明で洗練されているくせに、淡い。

「すべて、」
「あ?」
「あなたの語ったすべてが、画餅です」

 まず、船を使っての大坂城脱出。無理でしょう。確かに、兵糧や弾薬の輸送に船を用いています。船頭達もそろそろ船を扱うには慣れてきた頃です。どこが座礁しやすいだとか、川の流れ、風向き、時間帯でどのように変化するかも読めるようにはなったと思います。けれども、その程度の経験です。軍備の輸送と船戦は別物です。それはあなたも知っているとは思いますが。我々の持つ水軍では、まともな戦すら出来ますまい。わたし達に水軍の知識や技量があればよかったのですが、残念ながら、船に揺られて気を悪くするぐらいしか出来ません。我々は、船戦にはとことん無知なのです。
 それに、運良く大坂を脱出したとしましょう。しかし兵を上陸させるとなると、これはこれで骨です。船で出立したと露見すれば、行く先は一目瞭然、当然、阻止するように兵を配置されるでしょう。相手は立花どの辺りだと思われます。慣れぬ船旅の後、立花どのと一戦交え、果たしてそれで勝てますか?至極、困難です。それに、我々の目的は立花軍を打ち破ることではなく、あくまで通過点です。苦戦を強いられ、何とか勝ちを拾えたとしましょう。負傷兵を抱えて、熊本城への道を進むのはあまりに酷です。
 他にも障害は色々あるでしょうが、熊本城まで辿り着いたとします。城が幕府軍に囲まれていない可能性は万に一つもありませんが、その辺りは清正どの、正則どのの活躍に期待をするとして、何とか入城を果たします。けれど、その後はどうするのです?確かに、清正どのが縄張りをされただけあって、天下の堅城、簡単には落ちません。ですが、兵糧は無限ではありませんし、幕府軍も放っておいてはくれぬでしょう。

 わたしには、負けをずるずると先延ばししているように思えてなりません。


 幸村はようやく口を閉ざした。清正はじっと彼の指の動きを見つめている。何故だか、怒る気にはなれなかった。不可能だと自分でも気付いていたのかもしれない。幸村も、清正の反応の薄さにちらりと一瞥くれたものの、結局口は閉ざされたままだった。
 それならば、と問う。どうすれば、俺達は勝てると思う?
 清正が訊きたかったのは、実際、それだけなのかもしれない。自分の策を披露したんだ、お前も手の内を見せるのが当然だろう。そう暗に示すことで、幸村の逃げ場を塞ぐ。こうしてじわじわと追い詰めるようにでしか、清正は幸村から言葉を引き出せない。幸村は、追い詰められてようやく口を開くのだ。そうでなくてはならないと、幸村が勘違いしているせいだ。もっとずけずけと文句なり我儘だったりを言ってもいいのに、と清正は思うが、幸村の性格上それは無理だろう。それに、大坂城でありながら、あるべき姿が不在である事実が、彼の口を重たくさせているのかもしれない。ここは清正と正則の家であり、そうして彼の家でもあるのだ。清正は今でもそう思っているが、幸村はそうではないのかもしれない。彼がいなくなってしまった以上、幸村が思う豊臣家ではないのか。

「なぁ、」
「………」
「どうやったら、どうしたら俺達は勝てる?」
 幸村はじっと地図を見つめている。けれども、本当に彼の目が捉えているのは、聳え立つ山々にずらりと並んだ旗印であり、川に浮かぶ戦船であり、家康の本陣なのかもしれない。幸村もきっと、頭の中で何度も何度も徳川と戦を交えているはずだ。自分は軍をこう配置する、そうすれば、敵方はこう動き、あるいは迂回し二手に分かれて、こちらはそれを見越して、この林の中に兵を伏せていて―――。それらを、幸村は語らない。語ってしまえば、その案が採用されてしまえば、この男はもののふらしい戦が出来ないのだと言う。なんて横暴で我儘な男だろうか。清正と幸村の戦は、既に勝敗が決していた。清正の勝利条件は、さしずめ幸村の決意を鈍らせることで、彼の一番を豊臣秀頼に摩り替えることが出来るか否かだろう。彼に、もののふの意地、なんてものを諦めさせることが肝要だ。

「一つだけ、たった一つですが、これを決断するしないとでは、大きく戦況が変わってきます」
 幸村は少しだけ顔を上げて、そっと微笑んだように見えた。これで勘弁してください、と苦笑しているように感じられたが、この薄灯りだ。相手の表情なんて見えやしない。それなのに、幸村の声音にはそういったものが含まれていて、頬を撫でるように揺れた空気には、彼のそんな様子が振動して伝わったように感じられた。
「その一つって?」
 幸村は、穏やかな口調を最後まで崩さなかった。この時点で、既に清正の負けだ、惨敗だ。けれども彼は、逃げ惑う清正に追い討ちをかけるような真似はせず、用は済んだといわんばかりに背を向けて颯爽と退陣していった。

「秀頼様のご出馬。わたしは、この案を提案させて頂きます」

 無理だ、俺が許さない、と絞り出すように呟かれた言葉に、だからあなた達は負けるのです、と小さく声が重なって、すぐに消えてなくなってしまった。











自分趣味走ったなーって感じです。です。サーセン。色んな方面に向かって土下座。

10/01/23